第3章 その6
ほら、だから言ったじゃん。皆すごく傷つくよって。誰でも自分のせいだと思う。でなきゃ誰かのせいにしたがる。アル兄一人で決めたことだって絶対にそうなるよって。
レイモンドを追ってこれ以上話をする気にはなれなかった。言いたいことも少しも思い浮かばない。
そうだ、彼の言う通り自分は兄の愚行を見ていただけなのだ。こんな事態を防ぐためにアクアレイアに居残ったくせに。
いつもこうなる。怠けた覚えはないはずなのに力不足で。マルゴーのときもそうだった。アウローラは守りきれず、主君の肉体も失った。任せてと言って何度己は果たすべき役目を果たせずにきたのだろう。
「……モモちゃん」
かさりと布のずれる音。少しだけ夕日の光が差し込んで、誰かが入ってきたのが知れる。影は一つきりだった。ほかには誰もいなかったから、彼女の胸に飛び込めた。
「アンバー」
震えて掠れた弱々しい声。なんだか自分じゃないようだ。
暗闇に戻った幕屋で温もりにしがみつく。抱きしめてくれたのがわかって、それでもう言葉を止められなくなった。
「モモが悪かったの? モモがちゃんとアル兄を説得できてたら良かった? アル兄とダレエンたちで勝手に全部進めてたのに?」
自己弁護したがる自分に怖くなる。揺れずに立っていたいのに己を庇いきれなかった。
あのときもっと、アルフレッドが願いを捨てざるを得ないような、あくどい脅しをかけていれば良かったのか。兄の追ってきた夢も、貫こうとした忠義も無価値なものとして、強引に宮殿から連れ出していれば。
「こんなの誰も喜ばないって、皆を人殺しにしたいのって、何回言っても駄目だったんだよ? お願いだからやめてって、もっと皆のこと考えてって何回も何回も言ったのに……っ」
訴える声が情けなくまた震える。言えるはずなかった。レイモンドたちに。アルフレッドは夢と仲間を秤にかけて己の夢を取ったなんて。
兄はただ主君の傍らに本物の騎士を残すことだけにこだわった。ルディアが受け入れなくてもいい、誰もわかってくれなくても、それでもやる意味のあることなのだと。
自分には止められなかった。命も名誉もなげうって「騎士になる」と言った男を。どうしても止められなかったのだ。
「モモがちゃんと……説得できてたらぁ……っ」
嗚咽が喉をついて溢れる。アンバーは服が濡れるのも構わずにモモの涙ごと受け止めてくれた。何も言わず、ただ優しく。
どれくらいそうしていただろう。ひっく、ひっくと上擦っていた呼吸が少しずつ落ち着いてくる。不意に頭を撫でていた温かな指が止まり、モモはわずかに顔を上げた。
穏やかな目と目が合う。今は水の色をした、愛情深い母の目と。
「……悲しいからよ、間違えたんじゃないかって思うのは」
アンバーは小さな子供をあやすような声で囁く。彼女の人生にもきっと多くの悲劇があったのだろうと思わせる響きをもって。
「悲しいと正しくない気がしてしまうの。嬉しくても正しいとは言えないことや、悲しくても間違いじゃないことが本当はたくさんあるはずなのに」
不思議に深く沁みとおる言葉だった。一人で大きな決断をしたことを褒めて認めてくれるような。
「モモちゃんは大丈夫」
彼女は続ける。何がどうなっても最善を尽くした結果でしょうと。
「悲しみが癒えたとき、ようやく正しさの在り処がわかるの。正義なんて意味じゃなく、これで良かったんだって思えるかどうかの正しさが」
にこりとアンバーが笑みを浮かべる。そして再びモモを胸に抱きしめた。
「私は私を助けてくれたあなたのこと信じてるわ」
「アンバー……」
また滲んできた涙ごと目頭を押しつける。
もう少しだけ甘えていてもいいだろうか。すぐに泣きやむから少しだけ。
立ち止まらない。それはあの日に決めたことだ。どんなにばらばらになろうとも、まだ台無しにはなっていない。糸のすべてが解けたわけでは。
言い聞かせる。抱えた荷を投げ出さないように。やめてしまっていいのよと優しい人に言わせないように。
だって己はこうなるとわかっていて見送った側なのだから。
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天幕からも馬の群れからも離れると恋人は静かに湖畔に足を止めた。くるりとこちらを振り返ったルディアの表情は穏やかで、これ以上負担を増やさないはずだったのにと胸の奥が苦しくなる。
「小さな幕屋をもう一つ増やしてくれないか聞いてみよう」
お前さえ嫌でなければハイランバオスたちのほうへ移ってもいいのだし、と台詞が続く。提案は現実的なものだった。今すぐ頷きたいほどに。いがみ合うくらいなら互いに距離を取るべきだ。そんなことは子供だってわかる。
だがレイモンドは素直に首を縦に振ることができなかった。己のいない間にまた幼馴染によく似た蟲が「アルフレッド」のいるべき場所を彼の巣に変えてしまうのではないかと思うと。
「……あんたはあいつを受け入れるつもりなの?」
意図的に避けてきた問いだったが、もう聞かざるを得なかった。偶然一緒になったにせよ、彼女が騎士を混ぜた輪で過ごしていたのは事実なのだ。
「引き受けてやるしかあるまい。私のために死んだようなものなのだから」
モモよりも更にきっぱりとした声。考え方の違いをまざまざ見せつけられるようでたじろぐ。ルディアはもう疲弊したレイモンドのために黙っておくこともしなかった。ずっと考えていただろうに言わなかった、現実を直視できない己が彼女に聞けなかった、重い胸中が語られる。
「……私が核の話なんてしたからアルフレッドは死んだんだ。あいつを殺したのは私だよ、レイモンド」
だから責任は自分が持つ。そんな響きのある言葉だった。
レイモンドはどうにか首を横に振る。「あんたのせいじゃないだろ」と返した声は低く掠れて頼りなかった。
責めたくない。ルディアだけは。もうその肩に重荷を背負わないでほしい。願っても彼女は荷を下ろしてはくれないけれど。
(モモや姫様があいつを認めたって俺は……)
アルフレッドが「アルフレッド」だということ。ルディアを「ルディア」と同じだと思えても、どうしても納得できない。ただの記憶喪失なら良かった。それならきっと思い出なんてもう一度作ればいいと前を向けた。
つらいのは償う相手がいないことだ。あいつに詫びても意味がない。苦渋の果てに死んだのは今いるアルフレッドではないのだ。
(いくら姫様のためだって、あいつをアルなんて呼べるわけ……!)
握り拳を震わせる。奥歯を強く噛みしめて。
このときまだレイモンドは気がついていなかった。自分がどんなに的外れな考えを抱いていたか。無理をしていつも通りを演じたのは、うわべだけでも皆との不和を避けたのは、ルディアに諍いの仲裁役など務めさせないためだった。彼女に余計な気遣いをさせ、これ以上消耗させたくなかった。だから仲間割れしないように耐えてきた。
だがそれは完全な読み違いだったのだ。ルディアは続ける。慈悲深き君主の眼差しで。
「……苦しければサルアルカまででいいんだぞ。私に付き合わなくたって」
頭の奥で遅すぎる警鐘が鳴り響く。額から血の気が引いて、指先はたちまち凍えて固まった。
──知っている。この顔を。この声を。
ルディアが遠くへ逃げ出そうとする直前の。
レイモンドは息を飲んだ。彼女が言わんとしていることを大慌てで考えた。
まさか彼女は目的地にさえ着いてしまえば防衛隊は必要ないと言っているのか? ここまでずっと皆でルディアを支えてきたのに?
「正式には王国とともに消えた部隊だ。それなのに私も少し頼りすぎた」
これは危険な温情だ。別れを見越した優しさだ。確信が余計にレイモンドを焦らせる。ルディアはもうあの騎士以外の全員を置いていく未来を見ていた。そうすることが皆のためだと本気で考えているのだ。
「……ッあんたを一人にできるわけねーだろ!?」
咄嗟に言えたのはそれだけだった。肩を掴んで正面から見つめ返すが彼女の表情は変わらない。大切なものを守ろうとするときの穏やかな微笑みは。
(駄目だ……)
レイモンドは立ち尽くした。己の短慮が引き起こした事態のその深刻さに。
駄目だったのだ。あんな口論をしてしまっては。懸念が一つ形になっただけでルディアはもう一切を諦めることを考えるのに。一度でも「ずっと一緒にはいられない」と思ってしまえばそちらを信じてしまうのに。
「俺はあんたと一緒に生きるって決めたんだ! 何があってもあんたの前から逃げたりしない!」
必死に叫んで言い聞かせる。恋慕は冷めていないこと。側を離れる気はないこと。けれどどこまで伝わったろう? いいんだと諭すように苦笑を浮かべているルディアに。
急速に優先順位が入れ替わる。なんでもいいから彼女の手を握っておかねばならなかった。今にも逃げていきそうなこの波を捕らえられねば次に来るのは己の終わりだ。
「だがレイモンド、お前だって限界だろう?」
耐えがたいほどつらいなら、と説き伏せようとする彼女にぶんぶん首を横に振る。言いくるめられないように出せる限りの大声で抗った。
「そりゃ今のままじゃしんどいよ! けど俺だってこのままじゃ駄目だって、なんとかしなきゃって思ってんだ! だからそんな、先走って一人で考えすぎないでくれよ……!」
勝手に全部決めないでくれというかつての助言を思い出したのかルディアがハッと瞠目する。次いで返った「そうだな」との呟きには少なからぬ方向修正の兆しが見えた。
ひとまずこの場で部隊に関する結論を出すことはやめにしてくれたらしい。けれどレイモンドがほっと胸を撫で下ろしたのも束の間、彼女はまたもや背に氷柱を差し入れるような言葉を口にした。
「……私も無理強いはしたくない。嫌になったらすぐ言えよ」
まだ薄氷の上にいる。そう察するのは早かった。彼女の不信は心に根づいてしまったのだと。
眩暈とともにレイモンドはなすべきことを理解する。幼馴染に似た何かを、それを兄と呼ぶモモを、秘密を敵に漏らしたバジルを、新しい関係を始めようとするブルーノやアイリーンやアンバーを、認めなくてはならないのだ。
許す許さないではなく、ルディアに置いていかれないために。
「そろそろ戻ろう。日が暮れる」
深紅に染まった湿原を見回し、ルディアがゆっくり歩き出す。
迷いない足。どんな悲しみの中にあっても。イーグレットの介錯をした後ですらそうだった。
立ち止まったらきっとあっさり捨てられる。そこにいろと微笑んで。簡単に思い浮かぶからレイモンドは踏み出さなければならなかった。
ネブラを過ぎれば草原が始まる。
癒えもしない痛みなど、ここで手放すべきだった。




