第3章 その5
ネブラというのは古パトリア語で「霧」を意味する。都市の歴史が始まって以来しばしば霧のごとく消えた湖にちなむ名なのだろう。あるいは塩湖だけでなく、何度も離散を余儀なくされた住民たちの受難を示してつけられた名かもしれない。こんなところに住んでいたのではその生活も霧のように儚いものであっただろうから。
(買い残したものはないよな?)
入るのに使った市門と同じ市門をくぐり抜け、レイモンドは膨らんだ荷物を背負い直す。世界中の商人が集まるノウァパトリア並みに多国籍な街だった。さすがは東パトリア帝国、ジーアン帝国、マルゴー公国、北パトリアの南域にアレイア海東岸を繋ぐ陸の交差点なだけはある。
立地の割に規模の小さい都市なのは、まさしくその立地のために常に危険に晒されてきた証明だ。あらゆる国に通じているということは、あらゆる国から侵略者が訪れるという意味にほかならない。ルディアの話していた通り、現在ネブラは大量の勝利者(ジーアン人)が足を留める保養地となっていた。
おかげでフェルトの防寒着を買いつけるのにたいした苦労はしなかったが、ここから敵地に入るのだという緊張が一気に高まってくる。否、それさえ今は眼前の問題から意識を逸らす役に立つばかりだったが。
「──アル兄!」
だしぬけに響いた少女の声にレイモンドは息を飲んだ。
買出しを終えた帰り道、目指す車まであと少し。聞こえなかったことにして歩を緩めねば良かったのに、うっかり足を止めてしまった。
ぐるりと付近一帯を見渡す。夕刻に差しかかり、ジーアン兵らは部隊ごとに分かれて幕屋を建てていた。彼らの馬は夜の間に遠くへ行ってしまわぬように後ろ足を縛られて周辺に捨て置かれていた。
緩慢にうろつく群れの奥、ぐずつく湿地の泥の上、暮れる光と濃い影の中、誰かを見上げて微笑しているモモとルディアの横顔が映る。
先刻も見た小柄な黒馬。その傍らで手綱を握る男は赤髪。向けられた笑顔に対し、彼もにこやかに応じている。
街にいる間ずっと考えまいとしていた。頭から追い出そうと、ずっと、必死に、今だって。だが一度目にしてしまったら、一度耳にしてしまったら、なぜという思いでいっぱいになってしまう。
──アル兄?
なんでそんな風に呼ぶんだ?
もうそいつは俺たちの「アルフレッド」ではないのに。
(馬鹿、やめろ)
握りすぎた拳がぶるぶると震えた。言ってはいけない。そんな言葉は。「アルフレッド」ではないものをあいつの名前で呼ぶなだなんて、ルディアの前では絶対に。それは彼女の──彼女こそ本物の王女だという前提を破壊してしまう。
「あ、」
愕然と立ち尽くすレイモンドに最初に気づいたのはモモだった。堂々としていてくれれば良かったのに、彼女の見せた一瞬の気おくれが心のどこかに暗く冷たい火をつける。
そこにいたのはルディアとモモだけではなかった。アイリーンやアンバーや、騎士のお目付け役という体の老将も団欒に加わっていた。弓兵以外の全員が、嫌になごやかな雰囲気で。こちらを見ても知らん顔の、何もわからぬ男を取り巻き、親愛の笑みすら浮かべ、そして──そして。
気づけばレイモンドの足はふらりと皆に近づいていた。我ながらよく耐えたと思う。渦巻く怒りに仮面を被せてやり過ごす日々があれほど長くなかったら、きっともっとみっともなく喚き散らしていた。
「モモ」
軽い調子で名前を呼ぶ。肩の大荷物を示しつつ「買ってきたもの片付けるの手伝ってくんねー?」と続けた声は笑えるくらい普段の己と大差なかった。
「……うん」
王女と女優がついてこようと踏み出したのを手で払う仕草で遮る。幕屋まで戻るのにどう歩いたのかも思い出せない。ただもう多分、激情を抑えきれてはいなかった。後ろのモモも重く沈黙していたから決壊は予期していただろう。
分厚い玄関布を捲る。あそこまではと決めた境。それを越えたらもう理性や付き合いの長さから来る思いやりは跡形もなく吹き飛んだ。
「お前さあ……」
酷く冷たい声が出る。怒りが喉を震わせる。
「あいつのこと本当にアルだと思ってんの?」
否定してほしかった。あれは便宜上兄と呼んだだけに過ぎないと首を振ってほしかった。
「アルフレッド」が別の何かに置き換わるなど耐えられない。自分はまだ彼に謝れてもいないのに。
だがモモは望んだようにはしてくれなかった。夕闇に飲まれ、ほぼ真っ暗な幕屋に凛とその声を響かせる。
「──そうだよ」
瞬間、レイモンドは「なんで?」と彼女に詰め寄っていた。それは裏切りだと思った。血の繋がった彼女が一番彼に近しかったのに。
「なんでも何もアル兄としか言いようないじゃん。姫様のことだけであんなに頭いっぱいな人」
断定を受け入れがたくてかぶりを振る。心が理解を拒んでいた。詰まった喉から溢れたのは「違う」と抗う荒々しい声。
だって残っていないのだろう? ひとりぼっちの己に声をかけてくれたことも、重い病を癒してくれたことも、お互いに励まし合って生きてきたことも、あの蟲の中には何も。
あるのはルディアへの思いだけだ。
ほかは全部、全部灰になってしまった。
「違う、あんなの、アルじゃない」
本心を偽ることはもはやレイモンドには不可能だった。言ってはいけないと戒めたのに。めちゃくちゃになるとわかっていたのに。ルディアが側にいないから、自分が彼女を置いてきたから、飲み込むべき暴言を──どこかで正当だと感じている悲憤を吐き出してしまう。
「あれがアルと同じだなんて、思ってもねーこと言うのやめろよ! そんなのお前がアルはまだ生きてるんだって自分に言い訳したいだけだろ!?」
堪えきれずに叫びは大きくこだました。声の勢いに驚いてか、棘ある言葉に驚いてか、モモの肩がびくりと跳ねる。
ああそうだ。彼女は言い訳しているのだ。救えなかった兄の一部でも救えたと己に言い聞かせているのだ。その欺瞞がわかったからレイモンドは言い返す隙を与えず暴力的に吠え立てた。
「アルが馬鹿なこと言い出したときはお前が止めるって言ったのに、ちゃんと見とくって言ったのに、お前がそうできなかったから……! だからあいつはアルなんだって思い込みたいだけなんじゃねーのかよ!?」
「……っ」
はあ、はあ、と息を切らす。静寂が幕屋に満ちる。
モモからはなんの弁解もない。だが目が逸らされた気配もなかった。上下に肩を揺らしながらレイモンドは暗がりに立つ少女をきつく睨みつける。
誤魔化せなくなっていた。お前はずっとあいつのすぐ側にいて話し合うこともできたくせにという怒りを。一度もアルフレッドに会えなかった自分より、関わるなと命じられていた自分より、彼女はずっとアルフレッドの力になれたはずなのだ。
それなのにモモはあいつを助けることを諦めた。──諦めたのだ。その気になれば二人で城から逃げ出せたのに。
「……モモはあれがアル兄だって信じるよ」
ぽつりと彼女が呟いた。強く決意を滲ませて。
淡々と静かな声。あまりにも理解不能で噛みつく気力も湧いてこない。ただ失意が増していく一方だ。
「ああそうかよ……」
乾いた声で吐き捨てる。レイモンドは足元に荷を放り、それを思いきり蹴り飛ばし、苦痛を薄めるためにもう一度外へ出た。
そうしてすぐに後悔する。
幕屋を載せた荷台の前まで戻っていた恋人と目が合って。
「レイモンド」
いつからそこにいたのだろう。全部聞こえていたのだろうか。今まで一人で胸の底に押し込んでいた言葉すべて。
「……少し歩こう。話がしたい」
穏やかな微笑を浮かべてルディアが誘った。胸甲の上にケープ一枚羽織っただけでは夜風で冷えが堪えるだろうに。まるで今はほかにもっと大切なことがあるとでも言うようだ。
「わかった……」
否と拒める空気ではなかった。レイモンドはルディアに連れられ、暗い影の伸びる湿原へと歩き出した。




