第3章 その4
「先生も一緒に来れば良かったのにねえ」
湖面に石を投げ込みながら可愛い狐がそうぼやく。小都市を少し離れて薄く延びる、広々とした青い湖沼は冬のささやかな光を受けてなおきらきら輝いていた。
たいして面白い街ではない。この地の芳醇な葡萄酒は名高いが、それはもうとっくに車に積み終えた。慕わしい王への手土産を選んでしまえばやることもなく、ハイランバオスは暇潰しにラオタオと岸まで馬を駆ってきたのだ。
荒涼とした大地にできた湿地帯。湖畔にはみっしりと背の高い葦が生い茂る。水辺というのに付近に人家が少ないのは足元の泥土が耕せたものではないからだろう。見渡せば葡萄畑は遠くの丘に霞んでいる。
漁民しか寄りつかないせいか湖は人間より野鳥が幅を利かせていた。ぱっと見ただけでサギ、チドリ、ツル、コウノトリと様々な種が確認できる。鳥類でこれなら魚類はもっと豊富だろう。捕食者より餌のほうが多くなければ繁栄は成り立たないのだから。
「コナーも忙しいのでしょう。この辺りまでは滅多に出てこられないようですし、一人でゆっくりネブラを見て回りたいのではないですか?」
のんびり口調で答えつつハイランバオスは馬を下りた。
見上げた空は薄灰色ではあるものの雪や雨の降りそうな兆しはない。葡萄の実が生る日照量と温暖さは残しても、ネブラはもうステップ気候の土地なのだ。年間を通じてどんなに雨が少ないか、それは湖の定まらない湖岸線が証明している。
「親しみ深い湖です。流れ込む川はあるのに出て行く川は一つとなく、ここに注げば真水もたちまち塩水に変わり、湖自体も消失したり出現したりを何度も繰り返すのですから」
ふふ、とハイランバオスは笑った。そう聞くや狐は掌で湖水を掬い、ぺろりとひと口舐めてみる。「うわ、ほんとだ。しょっぱい」と舌を出して彼は大いに眉をしかめた。
生まれ故郷を思い起こさせる草原湖だ。雨が降らねばただちに縮み、数年に渡り沼地と化すのも珍しくない。枯れれば土壌の成分が露出して付近に塩害と悪疫をもたらす。砂漠の街のオアシスがそうして死んでいったのと同じに。
「塩湖って意外にあちこちにあるよね。蟲がいたのはアクアレイアだけだったけど」
自分も水を飲みたがる馬を宥めてラオタオが言う。湖面を見やった彼の瞳に望郷の色はなかった。アークの中枢と接合し、膨大な知恵を手にした己と違い、彼はもう少し巣への執着があってもいいはずなのだが。
「そう言えば、あなたは命のあるうちに成したいことはないんです?」
思いつくままハイランバオスは問いかけた。突拍子のない言葉であったかもしれない。だがそれを気にする間柄でもない。狐も「ええー?」と困惑した風を演じて笑っている。
「俺はハイちゃんが楽しそうならいいよ。そしたら俺も楽しいし!」
いたいけな返答に「なるほど」と納得した。別段聞くまでもなかったようだ。彼の核は「一緒に楽しみたい」というどこまでもシンプルなものらしい。
再び湖に目を戻し、清冽な青に微笑む。懐かしいあの巣によく似た紛い物。ほかには何も代わりにならぬと知るためだけに存在する。
アクアレイアもそうだった。さてこれから、あの方に送り届けるものは一体何になるだろう?
ハイランバオスは葡萄畑の更に奥、青く連なる低い山々を見つめた。
アルタルーペの東の端。定住民の地と遊牧民の地を分ける境。じきにあそこを越えていく。
「ね、ハイちゃん」
不意に甘えた声に呼ばれた。肩にとすんと軽い衝撃。ほぼ同時、亜麻色の髪が頬をくすぐる。全身でこちらにもたれかかった彼は上目遣いで囁いた。
「愛してるよ」
平常心で「知っています」と答えれば狐はふふっと吹き出した。戯れる母と娘のごとく二人きりで笑い合う。
風が湖面を吹き渡り、葦原をかさかさ揺らした。
レンムレン湖のアークを見ても狐はたじろがないだろう。コナーの来たのがいい証拠だ。危険な賭けなら彼は乗らない。ハイランバオスとラオタオが天帝の忠実な僕に戻り、客人に仇なすやもと考えていれば。
(まあ多少危ない橋を渡ってでも未知のアークに触れたいと出てきてくれたのかもしれませんが……)
残骸だと画家は言う。しかし本当に残骸なら管理者が後世に聖櫃を残す理由がない。機能は停止していてもなんらかの利用価値があるのである。
今のところ動かぬアークを正しく評価できるのはコナー一人だけだった。であれば彼には仕事を果たしてもらわねばなるまい。このまま王女を助けるか、はたまた帝国に舞い戻るか、決めるのはそれからだ。
終わりが美しければいい。そこに至る道はなんでも。戸惑い、嘆き、苦しみ抜いたその先にしか真に輝くものはない。
──忘れられない光景がある。見たこともないのにずっと。
ああ早くあの方に会いたい。
******
休みなく駿馬を乗り継ぎ全速力で駆けさせれば三ヶ月かかる道のりも三分の一の日数でこなせる。そうやって駆けつけた急使のもたらした一報は、確かに可及的速やかに報告されるべきものだった。
「ハイランバオスがファンスウとウェイシャンを人質にして同行中だと?」
暗号で書かれた文を握り潰し、どういうことだと大熊に問う。最初にこれを受け取った古参の将はヘウンバオスの耳元に唇を寄せ、小さな声でぼそぼそと蠍と狼の窮状を伝えた。
「それがその……、例の王女と裏で結託していたようで……」
顔をしかめ、ヘウンバオスは「その可能性は前々から十分に考えられたはずだろう」と熊を睨む。型すら異なる敵国の蟲姫にファンスウが警戒を解くとは思えない。ということは何かあったのだ。古龍でも予想外の何か。
「……これ以後届いた書簡はすべて私のもとにまず持ってこい。誰にも内容を悟られるな」
低く告げ、文を懐に押し込んだ。背筋を這い上がろうとする悪寒を無理やり振り払う。見えざる手に喉を絞められる錯覚を無視してヘウンバオスは鐙に足をかけた。
愛馬に跨り見渡すは緑の海。見据えるはその先の連峰。草原と砂漠を分かつ巨大な山塊──テイアンスアン。
天なる霊山と人は言う。レンムレン湖に注いでいたのはあの峨々(がが)たる峻嶺の清らな雪解け水だった。だから多分、あそこが我らの本当の始まりの地だ。
山は深い。限られた道以外ほとんどが人跡未踏。ゆえにそこに立ち入るにはまず森を拓く必要があった。
空からの偵察で目的の場所は判明している。新山道を敷設する工事も順調に進んでいる。後はサルアルカの地に集めた十将とアークを迎えに行くだけだ。──それなのに。
(ハイランバオス……)
見渡すは緑の海。強い風が吹きつける。
懐の文に触れないように、詩人の歌う高らかな声を思い出すことのないように、ヘウンバオスは幕屋へ馬を走らせた。




