第3章 その2
車輪が止まり、車軸止めが噛まされたから、いつもギシギシうるさい幕屋がいやに静かだ。室内の物音も移動時よりずっと大きく響いていた。
金属製のかまどでグツグツ大鍋の煮える音がする。食事当番のレイモンドが昼食を用意しているのだ。だがその様子は衝立に隠れて少しも見えなかった。同じ空間にいながら部隊は見事に隔絶されている。
モモはふうと小さな溜め息を吐き出した。壁際の寝台に腰かけ、隣の女の肩にもたれる。アンバーは寄りかかっても嫌な顔一つしなかった。いつも通りに黙ってそこにいてくれる。
変わらないということが今は何よりもありがたい。変わらないと思っていたものが変わり果てた今は。
(バジルが本当に駄目っぽいんだよねえ……)
今日もまたあの弓兵はまったく姿を見せずにいた。どうも彼は乗馬を覚えてずっと外に出ているようだ。食事はアイリーンが確保したのを夜に食べさせているそうだが、ほかの生活はどうしているのか一切が不明だった。
レイモンドも、ルディアもそれを追及しない。問題を解決せんと踏み込んだ瞬間総崩れになる未来がまざまざ浮かぶから。状況が変わるまで待つしかないのだ。時の流れが何をどこまで癒してくれるかわからなくても。
「ね、アンバー。今日のお昼はなんだろうね」
場違いに明るい声で聞いたのは、その明るさが早く日常になればいいと願うからだ。レイモンドにも、バジルにも、告げるべきことはもう告げた。あれは兄の意志だったと。あの一事に関しては兄にすべての責任があると。
だからモモが皆にできることは何もない。普段と同じに振る舞う努力をするのみだ。骨も肉も断たれても皮一枚で繋がっている。そんなことだってあるのだから。
「そうねえ、干し肉で出汁を取ったクリームスープとかかしら?」
湿っぽくなりたくないというモモの気持ちを汲み取ってアンバーもにこりと微笑み返してくれる。長らくエセ預言者の居所となっていたディランの姿にはまだ慣れないが、彼女といると安心できた。
「同じような保存食使っててもレイモンド君のご飯美味しいのよね。マルゴーの嫁ぎ先とは段違い」
「マルゴーの食事もこんな感じなの? あ、そう言えばアルタルーペで山羊のミルク飲んだなあ」
他愛ない会話の温度が心地良い。「いつも」に戻れている気がする。
ほっとしたそのとき不意にアンバーの横顔に翳りが差したように見えた。
「……ああ、モモちゃんは確かグレッグ傭兵団の人たちとアルタルーペの山を越えたんだったっけ?」
探るような声音に小さな違和感を覚える。彼女が何か言い淀むなど珍しい。いつももっとはっきりとものを話す人なのに。
「もしかしてドブっていう子がいなかった? 十三、四歳くらいの」
続けて問われ、ためらいがちに「ああ、うん。アウローラ姫のお世話をよく手伝ってくれた子だ」と返事した。一体それがどうしたのだろう? というかアンバーはあの少年を知っているのか。
「そう……」
しばし奇妙な沈黙が挟まる。案じつつ見つめているとぽつり彼女が呟いた。
「息子なのよね。死んだと思ってたんだけど」
「えっ!?」
驚きすぎて一瞬思考が停止した。アンバーってあんな大きな子供がいるような歳だったのか。
そう言えば最初に会ったときの魔獣の半身も別に彼女の肉体ではなかったのだったっけ。あの下女は二十代後半くらいに見えたけれど、本当のアンバーはもっと上の世代なのだろうか。
「そ、そうなんだ。ドブってアンバーの息子だったんだ……。だからあんなにめちゃくちゃいい子だったんだね」
脳裏には優しい気配りを受けた旅路が甦る。彼の温めてくれた山羊乳は豪雨に冷えた身体をぽかぽかにしてくれた。副団長のルースを殺してしまったから、きっともう嫌われたと思うけれど。
「……元気でいるんじゃないかな? 姫様とレイモンドがマルゴー公を訪ねたとき、宮殿で会ったって言ってたし」
「! あの子まだグレッグと一緒なの?」
そう、とアンバーは胸を撫で下ろす。初めて目にする母の顔にそうだよねとモモも胸中でひとりごちた。
仲良くしている実感があったって現実は知らないことだらけなのだ。今皆がばらばらなのは、最悪の形でそれを突きつけられたからだった。仲間だなんて言ったって所詮は勝手な個人の集まりに過ぎなかったのだと。
「──」
と、視界が急に薄暗くなる。顔を上げればレイモンドが衝立の向こう側からひょいとこちらを覗いていた。
「メシできたぞー」
何も変わらないようで、緊張とわだかまりを孕む声。レーギア宮で骸が起き上がったとき、どうしてみすみすアルフレッドを死なせたのかと槍兵はモモに激昂した。それでも日常を演じてくれる理性に敬意をこめて応える。
「うん、ありがとう」
立ち上がり、モモはアンバーと連れ立ってゆっくり食卓へ向かった。
薄氷の上を渡るようにゆっくりと。
******
遊牧民は宴でもない限り一家揃って食事する習慣がないという。こまごまとした仕事が多く、家畜と外で過ごす時間も長いから、携帯食で済ませるか幕屋のかまどの作り置きを適当に摘まんで腹を満たすのだと。それで彼らの食卓は小さな卓袱台一つきりなのである。
肩を寄せ合う面々を見やってルディアは目を伏せた。テーブルが狭いのは、あるはずの空席が認識しづらくなるという点でむしろ良かったかもしれない。二人掛けでちょうど良さそうなスペースにルディアとレイモンド、アンバーにモモ、アイリーンまでが並ぶとぎゅうぎゅう詰めの感があり、欠けている者が誰かなど今はいいかと思わせてくれた。押し合いへし合いしないようにまずは食事を片付けねばと。
「いただこう」
昼食の開始を告げれば全員一斉に匙を取る。誰が何を話すでもなく、しばし無言の時が流れた。
食事時だけは全員で集まると決めていた。バジルは早々に脱落したが、同じ幕屋でまったく顔を合わせずいるのも良くなかろうと判断してのことである。だがそれはいささか早計だったかもしれない。「美味しいよ」とのモモの言葉に曖昧な反応しか返さない、視線を向けることもしないレイモンドを見ているとそう思わざるを得なかった。
アイリーンとアンバーには「おお、良かった」「そんじゃまた作るわ」と笑顔で応対できているのに恋人は斧兵とだけは会話を続けようとしない。容易には取り繕えない確執が生じているのを目の当たりにして悔いが生まれないはずがなかった。
(やはりもう少し休ませるべきだったか)
バジルのことも、レイモンドのことも。脳蟲について知りすぎている彼らを残してドナを発てない状況だったのは事実だが。
せめて幕屋から連れ出してやれればいいのだけれど、未熟に過ぎる乗馬技術ではそうもいかない。それに外には「彼」のいる可能性も高かった。
「…………」
湯で戻されてもまだ硬い干し肉を無理やり喉奥に飲み込む。そう言えば、と思い出したのは一行の進路に位置する小都市のことだった。
「もうじきネブラに着くんじゃないのか?」
ルディアの声に「え?」と皆が振り返る。
「大きな湖の側にある、ワインで有名な街だよ。マルゴーと東パトリアの境にあって、そこより北はジーアン帝国の領土になる」
草原には遊牧民の野営地はあっても商業都市はないと聞く。大がかりな補給ができる最後の地だろうと告げる。「我々も買い足せるものがあれば買い足したほうがいいかもな」と暗に自由行動の許可を示せばレイモンドが「!」と双眸を見開いた。防衛隊がうろつくことに十将はいい顔をしないだろうが、お互い人質がいるのである。多少のわがままは許してもらおう。
「ネブラって、ジーアンが最初にアレイア地方に攻め込んだとき、東パトリアが不可侵条約結ぶ代わりに騎馬軍の通過許可したとこ?」
モモの問いに「そうだ」と頷く。マルゴーへ至るにせよ、アレイア海東岸へ抜けるにせよ、ジーアン軍が越えなければならなかった要地の一つだ。
草原から西パトリアに至る入口。山と山に挟まれた陸の門。
「ずっとここにこもっていたのでは気が塞ぐだろう? 街に着いたら少し外に出たほうがいい」
異論は特に誰からも出なかった。むしろ皆ほっとした面持ちだ。そのことにルディアは一人胸を痛める。部隊一つまとめきれぬ己があまりに不甲斐なくて。だが今は自己反省に時を費やしている場合ではなかった。まだやるべきことがある。始めたことは終わらせなければならないのだ。
(この旅で目的を果たす。天帝にさえ成り代われれば防衛隊を存続させる必要はない──)
アクアレイアの再独立は脳蟲だけで成せるだろう。そこまで持っていければバジルもモモもレイモンドも解放してやれるはずだ。
「…………」
また大切な人間を手離そうとする悪癖が顔を出している自覚はあった。だが己にもどうしようもない。「アルフレッド」は戻らないし、彼らはずっとつらいままだ。
それなら部隊の本当の解散だけでも告げてやらねばならなかった。
彼らがもはや仲間だという体裁すら保てないなら。




