第2章 その3
本当に来てしまったか、というのが最初の感想だった。コナーのもとへ鷹が飛び立って一ヶ月。新年の祝い日までに師が訪れなかったらそのまま出発する気でいたのに。
はたして彼を天帝に会わせなどしていいものだろうか。こうして師がドナの地に降り立った以上、その判断を信用するしかないけれど。
「やあ、ごきげんうるわしゅう!」
下船した旅装の画家は桟橋にルディアの姿を見つけると気さくに手を振ってきた。航海禁止の冬となり、ドナへの入港も制限されているはずなのにコネでなんとかしたらしい。名残惜しそうな船長に軽く会釈してコナーは悠々と歩を踏み出す。人影まばらな石造りの商港をルディアも彼について歩いた。
「先生、鷹はどうなさったのですか? 三羽とも見当たりませんが」
怪訝に眉をひそめて問えば師は事も無げに「マルゴーに置いてきました」と答える。隠れ里の場所が漏れていたのだから当然だろうという口ぶりだ。
「置いてきたって、先生の鷹ではないでしょうに!」
「まあまあ、そう怖い顔をなさらず。どうやらジーアンの将軍たちに酷い目に遭わされていたようですし、私が保護したほうがいいと考えたまでですよ」
表情が素直に出すぎていたらしく、暴れ馬の相手でもするように宥められる。確かに重要機密を知る蟲が十将に囚われたままよりいいが、どうも最近誰にも彼にも好き放題されているような気がして溜め息が出た。
「そんなことよりまた随分と面白そうな展開になっているではありませんか。サルアルカに向けて発つまで私はどこに宿を取れば? 仕事は全部放り出してきましたから、どんな部屋でも結構ですよ!」
うきうきと満面の笑みを湛えた画家は興奮を抑えきれない様子である。このままスキップでも始めそうな勢いだ。あまりにもハイランバオスの予言通りで頭を抱えたくなってくる。
「面白そうな展開? それではあなたもレンムレン湖のアークが見つかったとお考えなのですか?」
問いかけに師は「ええ、もちろん」と頷いた。
「可能性は極めて高いと言えるでしょう。ジーアン側のアークが残っているとしたらテイアンスアン近辺だと私も推測しておりましたし」
実物を見るのが楽しみです、と浮かれる師にまた溜め息をつく。凍える風に晒された広い港を見回してルディアは声を低くした。
「……アークなど見せてハイランバオスが妙な方向に暴走しはしませんか?」
言外にジーアン側に彼の心が傾きすぎるのではと告げる。コナーが「大丈夫ですよ」と問題視しない態度を見せても不安は少しも薄らがなかった。
「芸術家は何を考えているのか読めなさすぎるのです!」
唇を尖らせるルディアに師は「手厳しいな」と肩をすくめる。そうして彼はもう一度大丈夫だと見なした理由を説明した。
「レンムレン湖のアークなら運用期間をとうに過ぎておりますゆえ」
それはあの詩人からも聞いた。アークは機能停止しており、新たに蟲を生むこともないと。ならばどうして師は彼の誘いに応じてサルアルカへ旅する気になったのだろう。古いアークがまだ使えるものだから興味を持ったのではないのか。
「ですが蟲がアークを守ろうとする本能に変わりはないでしょう?」
次の問いには静かに首を横に振られた。「我々が我々のアークに縛られるのと同じようにはいきません。レンムレン湖のアークにはもう蟲たちを惹きつける力はなく、本体に記録を残すのみのはず」と懸念はやんわり否定される。
「動作再開の方法もありませんしね。ハイランバオスが故郷恋しさで掌を返す心配はありませんよ。彼は私と接合したことで巣への未練も失ってしまったし、そもそも里心が残っていたら天帝を裏切っていないでしょう」
確信しきった物言いにルディアは眉根を寄せて唸る。今一つ不安が拭えないのはあの預言者の人徳のなさゆえかもなと思い直した。協力的な姿勢でいても胡散臭く、口が裂けても仲間だなどとは言えない男なのだから。
「まあ彼を信じきれないお気持ちはわかります。あの詩人は真に美しい一瞬と出会うことしか頭にないという感じですしね」
仕方ない子供だとでも言うようにコナーは穏やかに苦笑する。我が君を絶望させたいのです──そう微笑んだエセ預言者を思い出し、ルディアはいささかげんなりした。やはり芸術家という生き物はわからない。
「まあ彼は、最後に天帝本体を手に入れて、それを眺めて詩でも書ければ満足なのではないですか?」
ハイランバオスの記憶を有する師の評にそれはそうかもと頷いた。あの男が求めるものは半身の苦しみだけなのだ。
だが油断は禁物だ。身を守る術の限られた敵地へ切り込みに行くのである。不測の事態に備えて第一グループの退役兵くらいは同行させたほうが良かろう。
あれこれと話し込むうちに足は街路へ出る門に差しかかっていた。曇り空の見下ろす中、ルディアたちはひとまず砦の将軍らに画家の到着を知らせるべく歩を急がせた。
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港の鐘の音を聞いて待ち人がドナに来たと知る。
ああ、いよいよ出発か。皆がまたひとところに集まるのか。
どきん、どきん。心臓が嫌な跳ね方をした。
「保存食の積込みは終わった? シロップ漬けは瓶が割れないようにしてね! 飲用水と酒類のチェックもお願い! 手の空いた人は厩舎に回って!」
てきぱきと皆に指示を出すケイトを見やり、バジルは震える指を握り込む。小間使いたちは連日荷作りに追われていた。百名超の兵を連れて将軍と女帝が東方へ旅立つのだ。準備しなければならないものは山ほどある。
ルディアには休めと言われていたが工房でじっとしていられず、結局バジルも毎日砦に顔を出していた。とは言えケイトたち下働きの女以外に会うことはなかったが。
アイリーンが案じてくれているのは知っていた。けれど何をどう慰められても後悔は増すばかりだ。皆のためにせめて何かと思うのに、迫る出立が怖くてどうしようもない。
ジーアン人の移動には馬が使われる。だが満足な乗馬技術を持たない客人は一つの車に乗せられると聞いていた。防衛隊が防衛隊という単位で動くことになるのは明白だ。
気が重い。しかし行かない選択肢はない。そもそも己に何か選ぶ権限がもう許されていると思えなかった。──奪ってしまったのだから。アルフレッドの未来の可能性全部。
「バジルのせいじゃないよ」というモモの言葉は胸に馴染まないままだった。理屈として理解できる部分はあっても受け入れてしまったら別の何かが崩れる気がして。
どうしたら償えるのだろう。
そればかりが頭を巡る。
あんなことをしでかしてなお己が部隊を除籍されないのは事情に通じすぎたせいだ。目の届かない場所へやってジーアンに秘密を知られればそれこそ目も当てられないから。加えて防衛隊自体正式な組織でなくなって久しく、公的な処分も行えないのである。
つまり事実上お咎めなし。受けるべき罰を受けられないこともまたバジルを苦しめた。誰が一番悪かったのかは歴然としているのに。
──どうしたらいいのだろう。どうしたら皆に許しを乞えるのだろう。一体自分はどうしたら。
「ラオタオ様も戻られたし、いつでも送り出せるように急ぎましょう!」
厨房棟に小間使いたちの騒がしい足音が行き交う。
あちらを手伝え、こちらを手伝えと言われるがまま、行く先を失った小舟のように波に揺られ、バジルは翌日までを過ごした。深い混乱を抱えたままで。




