第1章 その3
「ガレー軍船が十隻に、ガレー商船が五隻だから、まあ中規模の船団といったところだな。海賊船が寄ってくる心配は少ないだろう。バオゾへはアレイア海東岸を下ってドナとヴラシィに寄港、アレイア海を出たらすぐにコリフォ島、そしてパトリア海のイオナーヴァ島とミノア島、最後に東パトリア帝国の首都ノウァパトリアを回って到着だ。季節もいいし、九月十日には十分間に合う。一ヶ月くらいで着くはずだ」
「そうか、さすがに今回はクプルム島やエスケンデリヤには寄れないのだな」
「ああ、どちらも日数がかかりすぎる。それに木材を積んだ船がないし、砂漠に近いエスケンデリヤには用がない。売り荷は暇にあかせて編んでいたレース装飾ばかりだから、どこで取引しても高く売れると思う。クプルム島の砂糖もミノア島で買えるしな」
「ふむ、真っ当な送迎コースを行くだけで商売になるわけか」
地図を広げた赤髪の騎士が「ああ」と頷く。長い航海が初めてのルディアは狭い客室の寝台でアルフレッドの講釈を受けていた。
寝床を四つ詰めただけでぎゅうぎゅうの小部屋では弓兵が無心に精霊へ感謝の祈りを捧げている。今日からこのこじんまりした一室で防衛隊とアンバー、アイリーンは寝食をともにするのである。
「ああ、婚前の身でモモと枕を並べるなんて……! そんな、そんないけないこと、僕は、ああ……!」
「バジルきっも……」
「ま、まあこの狭さじゃドキドキしちゃうわよねえ」
「天帝の名において許しておあげなさい。どうせ彼には何もできません」
全員声が妙に近い。プライバシーもへったくれもない空間だ。これでほかの船乗りよりは遥かに快適な環境なのだからガレー船の居住性の低さと言ったらなかった。
ルディアたちの乗り込んだ旗艦は船団の中で最も大きい。士官室だけでなく客室が二つもあるし、漕ぎ手用の救護室までついている。が、部屋と呼べそうな部屋は上記四つと船長室くらいだった。下甲板の倉庫は水と食料、積み荷でぎちぎちになっているし、上甲板には長椅子が二列に並び、屈強な水兵たちが長い櫂を三人一組で握ってでんと腰かけている。漕ぎ手でない上等兵らは邪魔にならない隅っこで慎ましく肩を寄せ合っていた。
ガレー船は風力で動く帆船と違い、人力で動かす船だ。人間を乗せれば余剰スペースなどなくなる。日差しと外気に晒されたベンチで目的地まで耐える者がほとんどだから、多少不便でも文句は口にできないが。
「ふう! 準備完了っと!」
と、ノックもなしに客室の扉を開く音とレイモンドの能天気な声が響いた。ルディアは戸口に目をやって不真面目な槍兵を睨みつける。
「おい、どこをほっつき歩いていた? お前旗艦に乗り込むときマルゴー兵に混じって最後尾にいただろう? なぜ要人警護の任を放ったらかしにした?」
「お、怒るなよー! 防衛隊は五人もいるんだし、出航前に一人くらいいなくなっても平気だろ?」
「規律を乱す者は例外なく懲罰の対象だ! 一ヶ月の減俸は覚悟しておけ!」
「ええっ!? そりゃねーよ! げげ、減俸って一割? 一分? 一厘?」
「一厘で済むか馬鹿! 一割五分は差し引くからな! 無断で部隊を離れた罰だ!」
「ヒエーッ! で、でも俺一応ハイランバオス様の許可取ったんだけど!? ね、ねえ? そうっすよね、教主様?」
「天帝はすべてをお許しになられます。そう、あなたが犯した過ちも……」
「ああっ!? 俺が悪いことになってる!? け、けど行ってくるって言っておいたのは確かなんだってー!」
言い訳がましい男を無視して立ち上がる。今のうちに船内を見回っておこうと甲板へ向かうルディアの肩に「ごめんなさい! もうしません!」と槍兵が泣きついた。
「ほんっとしょうがないですねえ、レイモンドは」
呆れた様子でバジルがレイモンドの袖を引く。基本的に年上にはさん付けで呼びかける弓兵にさえそうしてもらえない理由は聞かずともわかる気がした。どうしてこう頭が足りないのだろう、この男は。
「うう、俺いい仕事してきたのに……グスッ……」
「そんなこと言って、仕事サボってブラついてきただけでしょう? あんまり怠けてると除隊処分受けちゃいますよ? まあ僕はレイモンドが遊んでる隙にモモの隣のベッドをキープさせてもらいましたけど……」
「信じろよー! ホントにいい仕事してきたんだよー!」
レイモンドはぐずぐずと鼻をすする。やかましい槍兵に溜め息を一つ零し、ルディアは「俺も一緒に行く」と言うアルフレッドを連れて客室を後にした。
******
弁解すると、アクアレイアに到着してからずっと気分が良くなかったのだ。日時の順守は社会の基本。マルゴー正規兵として二日前にはアクアレイア入りしていたのだが、うだるような暑さに当たって全員すっかり参っていて。
だが「夏ってのはもっと爽やかなモンだろ!?」と憤っても仕方ない。海軍の男どもが平然としている横で醜態を晒すのも癪だった。それでつい我慢してしまったのだ。船さえ出れば自分たちの健康状態も戻るだろうと。
ただグレッグは知らなかった。海にはもっと厄介な魔物がいることを――。
「うえええええ…………っ」
身を乗り出して吐き散らかした半固形物が青い海に飲み込まれていく。あれは多分、海に出る前に欲張って食べたアレイア海老だろう。そんな感じのする臭いが酸っぱい胃液と唾液に混じって口の中に残っている。
船酔いにやられたマルゴー兵が死屍累々と伸びている左舷後方でグレッグもついにダウンした。これは駄目だ。もう駄目だ。片意地を張っている場合ではない。最初の寄港地ドナまではまだ七、八時間はかかるらしい。全員に水分を補給させ、特に状態の酷い者は医者に診てもらわなくては。
そう思い、なんとか気力を奮い立たせてグレッグは若い衛生兵を捕まえた。こいつは確かディランとかいう貴族のお坊ちゃんだ。慈善病院の経営で有名なストーン家の。
彼ならきっと患者に手を差し伸べてくれるはずである。グレッグは恥を忍び、小声で「治療してくれねえか」と頼んだ。ほかならぬ仲間のためにプライドを捨てて頭を下げてやったのだ。
だが花の乙女と見まがう面立ちの青年は冷血非情の鬼畜だった。揺れ続けるガレー船上で前後不覚になっている半病人を前にして、ディランは笑顔で首を振った。
「あっ無理です。マルゴー兵の面倒は見ません」
この暴言を耳にして張り飛ばさなかった自分を褒めてほしい。ただし騒ぎは起こさずにいられなかったが。
「――どういうつもりだテメェ!」
やくざまがいの恫喝が上甲板に響き渡ったとき、ルディアとアルフレッドはたまたま救護室の近くにいた。
「どういうもこういうも、今申し上げた通りです。この船の軍医及び衛生兵は全員マルゴー兵の看護をお断りいたします」
目の前で飛び交う不穏な言葉に騎士と顔を見合わせる。ルディアの目配せで彼はすぐブラッドリーを呼びに走った。
「そんなにうちの連中がおたくらのガレー船に乗り込んだのが気に食わねえのか? 確かに俺らは水兵じゃねえ、てめえらにしちゃハナからお呼びじゃねえんだろう! だが俺たちもマルゴー正規兵として最低限の責務は果たすつもりで来てんだぜ!?」
殴り合いになるかと思ったが、武骨な革の鎧姿の傭兵団長は意外に冷静だ。短く刈った茶髪の下の青い額から察するに、単に拳に訴えるほど体力が残っていないだけにも見えるが。
「いえ、そういう感情的な理由でお断りしたのではありません。本当は今すぐ水を飲ませてさしあげたいくらいお可哀想にと同情しているんですよ?」
「しょーもねえ嘘つきやがって! 一発ぶん殴られてえのか!?」
「いえいえ本当に……あっ、ブラッドリー中将!」
駆けつけた海軍提督をディランは微笑んだまま仰いだ。と同時、軍医をその背に庇うように赤髪の少尉が歩み出る。
垂れ目以外はアルフレッドとよく似た男。名前は確かレドリー・ウォード。ブラッドリーの長男で、ユリシーズとは幼馴染の。
「これは一体なんの騒ぎだ?」
威厳ある低い怒声にレドリーが怖気づく様子はなかった。ただ淡々と、当初から予定されていたのであろう台詞をのたまう。
「別に何も? ディランはこの船の救護室は我々アクアレイア人のためにあるのだと、そう傭兵団長殿にお話ししていただけですけど?」
「何?」
「だってそうでしょう。限られた物資を客人でも戦力でもない連中にどうして分けてやる必要があります? 我々の雇った兵でもなし、船酔い程度で人間は死にやしません。放っておいて構わないと思いますが」
「…………」
親子は無言で睨み合った。少々遅い反抗期、というのでもなさそうだ。海軍の内部分裂は臆面もなく最高指揮官に噛みつく手合いが出るほど深刻な様子である。
レドリーもディランも取り巻きの若い兵士たちも、ユリシーズの早期釈放とシーシュフォスの現場復帰を嘆願している者ばかりのようだった。船上で医療ストライキとはなかなか強気な脅しではないか。
「救護室はあらゆる傷病人に開放されている。戯言をぬかすな! ディラン、さっさとマルゴー兵を診てやれ!」
「ええ、中将がユリシーズ中尉の減刑を陛下に説いてくださるなら喜んで!」
軍医の差し出した署名用紙をブラッドリーは叩き落とした。甥っ子と同じく職務に忠実な彼はそのままディランとレドリーの首根っこを掴み、問答無用で船長室へ引きずっていく。
「おお、ありゃ三発は鞭を食らうぜ……。おっそろしいな……」
いつの間にか傍らに立っていたレイモンドが青い顔で震えた。アルフレッドも半ば呆然とブラッドリーや叫ぶ従兄の後ろ姿を見送っている。
「どう処罰されようとお前たちを診る気はないぞ」
と、その場に残されたほかの衛生兵たちがグレッグに釘を刺した。
「こっちだって! 戦力外扱いされて誰がてめえらの世話になるか!」
傭兵団長も啖呵を切って自軍の陣地へ戻っていく。しかし彼の勢いは一分ともたなかった。頭に血が上ったせいか熱まで出てきてしまったようで、三歩も進むとぱたりと倒れる。傭兵たちは半泣きでボスの腕を引き、船縁のわずかな日陰にえっちらおっちら運んでいった。
「ふっふっふ、俺の睨んだ通りだったぜ」
そんな痛ましい光景を目にしてなぜかレイモンドがほくそ笑む。他人の不幸を喜ぶとは悪趣味な一面もあるのだな、と思ったら、槍兵は比較的顔色の良いマルゴー兵にこっそり声をかけにいった。
「?」
ルディアがしばらく様子を見ているとマルゴー兵がペコペコ頭を下げ始める。「いいっていいって! 俺は海軍所属じゃねーし!」とかなんとか聞こえたが一体なんの密談だろうか。
「ああ、なんだ、そういうことだったんですね。なんでレイモンドが乗船前に隊列を離れたのか理解できましたよ」
不意に背後で響いた声にルディアは顔だけ振り返った。見ればバジルがすぐ側で腕組みしながら頷いている。怪訝に眉を寄せたルディアに少年は「あんな大量のレモンを買ってどうするのかと思ってましたけど」と続けた。
「はあ? レモン? あの馬鹿わざわざそんなものを買いつけに行っていたのか?」
顔をしかめて前方を見やればレイモンドは先程のマルゴー兵と船倉から小袋を脇に戻ってくるところだった。袋の口が開かれるや、爽やかな香りが甲板に漂い始める。
「ううっ……。ありがてえ、ありがてえ」
吐き気に苦しんでいた傭兵たちは新鮮な柑橘の果汁に救われたらしかった。起き上がれない者から順に薄切りのレモンが行き渡っていく。
「わっはっは、準備しておいて正解だったぜ!」
部隊のもとに戻ってきたレイモンドはいかにも誇らしげに笑った。
「なるほどな。こうやって恩を売って人脈を広げているわけか。投資と思えばレモン代は安かろう」
感心するルディアに槍兵は「へっ? 恩?」と聞き返す。
「いっぺん船酔い中のレモンの味知ったら次からは金払ってでも欲しいと思うようになるだろ? ふっふっふ、試食は一回こっきりだぜ! 明日からは一個五十ウェルスで売る!」
どうやら慈善のつもりではなかったらしい。手の込んだやり方に思わず足を滑らせそうになる。
「だったらいっそ適正価格の倍にして売ればいいのに。小銭稼ぎでは減給分を埋めるだけで精いっぱいだろう?」
「ええ? ダメダメ、そりゃ駄目だ。ぼったくりの恨みは深いんだぞ。俺たちがマルゴー兵と関係こじらせたりしたらチャド王子が困るじゃねーか! 俺は偉い人には睨まれたくねーんだ!」
商売上手なのかそうでないのか判別の難しい男だ。だがしかし、親マルゴーのルディアとしてはレイモンドのおかげで助かったと言える。
あのまま本当に病人が放置されていればマルゴー兵たちの心象は最悪だっただろう。アクアレイア人はますます毛嫌いされていたはずだ。
仕方ない。今回の減俸はちょっとだけ考え直してやろう。
******
パトリア古王国の軍勢にマルゴー公との連絡を絶たれ、孤立したアレイア公。沼沢地へと追い詰められた勇将に手を差し伸べるは女海賊アリアドネ。王国の始まりをどう絵に起こすかコナーはしばし思索にふける。
どちらかを脇役にしてしまうのはいただけない。二人のうちどちらが欠けてもアクアレイアは生まれなかった。なら暗黒の海に灯火を見つけた船のよう、互いに激しく惹かれ合い求め合う、そんな様を描き出しても良いのではないか? あまり男女の関係を前面に出すなと長老方はお怒りになるかもしれないが、大衆はいつだってロマンと情熱を愛するものだ。
「ふむ……」
と、甲板から人の足音が近づいてくるのに気づいてコナーは木炭を持つ手を下ろした。おそらくあの弓使いの少年が偵察から戻ってきたのだろう。予測に違わず小さな部屋の細い扉が開かれる。
「あ、コナー先生! 先生の仰っていた通りでしたよ。行ってみたらマルゴーの傭兵団長がうちの軍医さんに食ってかかってるところでした!」
防衛隊の一員だというバジル少年は利発そうな目をキラキラさせてコナーの側に寄ってきた。彼の関心は報告を終えた騒動から早くもコナーが膝に広げたキャンバスに移っている。
「わあ! 僕、何も描かれていない画布って初めて見ました! 船の帆を板に貼って油絵具を重ねていく手法、コナー先生が初めて編み出したんですよね? 絵画のことは全然わからないですけど、技術の革新って胸が躍ります!」
おっかなびっくり隣の客室からやって来た彼に「前々からファンなんです」と打ち明けられたのは先刻のこと。少年はジャンルとしては芸術より物理学の講義をまとめたノートだとか、発明のアイデア集だとか、工学のほうに興味が強いようである。
「ふふふ。要らないセイルがあると聞いて、見てみたら良さそうな素材だったからね」
「そこでじゃあ何か描いてみようってなるのがすごいですよ! あの、こちらのキャンバスにはどんな絵を描く予定なんです?」
「これかい? これはまだ『王国の父母』というタイトルしか決まっていないんだ。イーグレット陛下からアクアレイアの歴史を書と絵にまとめてほしいと頼まれていてね」
「お、おお!」
「あの方は意外に色々考えておいでだね。祭りやレガッタ以外にも国が一つになれるものがないか模索していらっしゃるようだ」
コナーは寝台に投げていた草稿を手に取るとバジルにひょいと渡してやった。走り書きだがもう大抵の主要な事実は述べてある。
アクアレイアが独立国になる前はあの潟湖にアレイア海一帯を縄張りにする海賊の拠点があったこと。そこの女頭領が聖王に追われるアレイア公を助けて戦ったこと。長引く戦争に疲れてしまった聖王が条件付きで建国を認めたこと。聖王から突きつけられた条件が「王家はパトリア古王国の血筋を絶やさない」「アレイア公はアリアドネを正妻とする」「アリアドネ一味は今後一切海賊行為を働かない」「このうちの一つでも破られれば即刻王国は取り潰す」だったこと――。
非常に難しい状況での独立だった。黎明期のアクアレイアを担ったのは貴族と海賊というまったく異なる人々だった。
それでも貴族は王に倣って積極的に海賊たちと結婚し、海賊たちは船を差し出して商売の秘訣を伝授した。生き残る場所を欲した者と裏社会からの脱却を願った者は見事に手と手を取り合ったのだ。
「当時の話、寝る前によく母に聞かせてもらいました。お前のひいお祖父さんは初代国王と肩を並べて戦ったのよって」
懐かしそうに話す少年の横顔を見つめる。彼にとっては半分歴史で半分物語なのだろう。王都にはまだあの時代を生き抜いた老人もいるけれど、数は随分少なくなってしまっている。
あの頃アクアレイアの民は確かに一つだった。泥の城と笑われても、すぐに海賊に逆戻りだと嘲られても、交易で国を大きくするのだと皆必死で、誰もが前を向いていて。
夢は叶った。アクアレイアはパトリア聖王より金持ちになった。「我々だって古王国と戦ったのに」とマルゴー人が嫉妬するほど。
だが初代国王夫妻は少々偉大すぎたのだ。イーグレットでは到底彼らを越えられない。だからあの賢明なる二代目は、親の名声を王家の名声にすり替えることを考えたに違いない。
「私の本が完成すれば王国中で愛読される歴史書になるだろうね。独立戦争を直接知らない若者たちでも王家の奮闘を思い描けるようになる。あとは陛下と――そう、ルディア姫次第かな」
彼女はなかなか鍛え甲斐のある生徒だった。根性も据わっていたし、なんのために学ぶのか目的意識がはっきりしていた。
あの子は今頃どうしているだろう。妻や母なんて枠の中に大人しく収まっている性分ではなさそうだが。
「バジル君、私はしばらく執筆活動に没頭するよ。また手の空いたときにでもおいで。君は楽しい話し相手のようだからね」
「え、ええっ!? いいんですか!? ぜぜぜ、是非お願いします! あの、その、今日はお邪魔いたしました!」
少年が退散するとコナーは再び思考の世界に沈んでいった。
アクアレイアの歴史について語るにはかつて大陸に君臨した大パトリア帝国やそこから分裂した東パトリア帝国、今や残りかすであるパトリア古王国にも触れておかなくてはなるまい。
イーグレットが望んでいるのは自国だけに都合のいい神話ではないだろう。公正な目で見てもアクアレイアの初代国王夫妻は偉業を成し遂げたのだから、無粋な捏造は不要である。こういう記録を残させたことでイーグレット自身も後世必ず評価されるに違いない。
だが一つだけ引っかかる。祖国の歴史をなんらかの形にしようとするとき、その国は終焉に近づきつつあることが多い。えてして若者よりも老人のほうが自伝を残したがるのと似て。
六十年。人の寿命より少し長いくらいの時間だ。アクアレイアができてからもうそんな年数が経ってしまった。一介の小国として埋没するか、ジーアンを食い荒らすほどの大国に化けるか、ここが正念場だ。
(面白くなってきたな)
コナーは白いキャンバスを見つめ、口角を上げた。
天帝の所領、幾多の島影の奥にあるドナの港は静かに近づきつつあった。




