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ルディアと王都防衛隊~海の国の入れ替わり姫~  作者: けっき
第2章 羊の子らが集まりて
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第2章 その2

 (サソリ)が主館の最上階、狐の寝所にやって来たのはブルーノがファンスウの器に入って一週間ほど過ぎた朝だった。

 狐の寝所とは言ってもラオタオもハイランバオスも不在である。彼らは長旅に耐える良馬を求めて小旅行に出かけていた。ディランに移されたアンバーもアクアレイア人の肉体を得たのを幸いとモモの手伝いに行っている。

 だから今、ここには古龍のいでたちの己と姉アイリーンしか残っていない。昼前になら個別の情報収集にルディアが顔を出しにくるが、それとて数時間も後の話だ。というかこちらの行動パターンくらい十将のウァーリは把握済みだと思うのだが。


「え、ええと、なんのご用件でしょう……?」


 しわがれた声でびくびくしながら問いかける。すると蠍は「あなた結構ヒマでしょ? やってほしいことがあるのよね」とブルーノの腕を掴んできた。

 まさかこれから絞め殺されるのではなかろうなと汗が噴き出す。己目当てに将軍が足を運んでくる理由などそれしか思いつかなかった。


「や、やってほしいこと?」


 引きずられまいと踏ん張ったが抵抗は徒労に終わる。骨と皮ばかりの手首を捕えた腕は彼女の肉体的性別を思い出させる力でブルーノを制圧した。


「ええ。その姿(ファンスウ)ならあたしたちの幕屋に長居しても不自然じゃないでしょう? というわけだから観念してさっさといらっしゃい」


 ろくな説明もないままにウァーリが大股で歩き出す。老人の腕力と体力では拒みきれず、ブルーノはおろおろ後をついてくるアイリーンとともに中庭へと連れ出された。


「ほーらアルフレッド君、先生を連れてきたわよー」


 一番大きな幕屋に着くなり蠍が中の人物に呼びかける。反応はすぐに返ってきた。幼げな頼りない声で。


「せん、せい?」

「あなたにものを教えてくれる人のこと。しっかり聞いて、よく学んで、早く一人前になってねー」

「しっかり、きく、よく、まなぶ」


 幕屋内には先日と同じくダレエン、アニーク、アルフレッドの姿があった。玄関布の内側にブルーノを引っ張り込むとウァーリはそのまま絨毯に座す赤髪の騎士の傍らへ向かう。


「どうせ砦でやることなんてないでしょ? だったらさ、この子にアレイア語を教えてあげてほしいのよね」


 要望は「なんだそんなことか」と拍子抜けするものだった。聞けば彼も少しずつ話せるようにはなってきたが、ジーアン語ばかり覚えるので後から生活に困るのではと思ったそうだ。敵なのか味方なのかわからない心配りに「はあ」とブルーノは曖昧に返す。

 おそらくは監視も兼ねているのだろう。中庭には蟲兵だけでなく古龍配下の一般兵も紛れている。ブルーノが彼らに物騒な指令を出すのは不可能ではない。将軍たちは邪魔者の──狐と預言者のいない隙に封じられるものは封じておくつもりなのだ。


「……わかりました」


 ルディアに聞かずに応じていいかは悩んだが、どうせ逃がしてもらえまいという気がした。大人しく了承の旨を告げ、ブルーノは「ごめん、姫様に伝えてくれる?」と入口から様子を窺うアイリーンに言づける。

 不安げな姉に大丈夫と囁く代わりに無言でじっと視線を送った。重要人物が捕虜にされている現状、ウァーリたちとて無茶はするまい。ブルーノは片手を払って姉を去らせ、そうして蠍を振り返った。


「決まりね。じゃあよろしく!」


 ウァーリが笑顔で手を叩く。長椅子に腰を下ろした彼女の横には鋭い目つきの女帝と狼。露わな不信に「呼びつけておいて酷いな」と胸中で嘆息する。

 ともあれ今のアルフレッドにアレイア語が必要なのは確かだった。日々の糧を得るためにも不要な危険を避けるためにも彼は学び直さねばならない。

 幼馴染と──かつてそうであった男と──同じ敷物の上に座り、ブルーノは改めて「騎士」と向かい合う。

 赤い髪。赤い瞳。立襟装束を着ている以外、見た目は以前と少しも変わらぬアルフレッドだ。臆さずまっすぐ人を見る。出会ったときから彼はずっとそうだった。教室の隅で縮こまるだけの己に手を差し伸べてくれた。


「せん、せい?」

「…………」


 拙いジーアン語での問いに、これは一体誰なのだろうと胸が痛む。はたしてこのアルフレッドはどれくらい「アルフレッド」に近いのかと。


「僕はブルーノ・ブルータスだよ。ブルーノでいい」


 伝わるように、まずジーアン語で自己紹介した。聞き慣れない音だったのかアルフレッドはもごもごとまごつきながら繰り返す。


「ブルー……ノ?」


 疑問形。その響きに、己でも己が誰かわからないまま不安に過ごした少年期が甦った。何度も何度も扉の裏で父の嘆きをこっそり聞いた。「あれはブルーノなんかじゃない」と荒れる声を。

 母がどんなに「溺れたショックが強かったのよ」と諭しても父は自分を受け入れなかった。「あの子はあんなびくびくした子じゃなかった」と。

 おそらく「ブルーノ」は高波に飲まれたとき、一心に死を恐れたのだろう。それが己の核となり、別人のごとく変わり果てた。生前の性格を多分に残す蟲もいるが、そうでない蟲もきっとよくいる。


「ブレー、ノ?」


 生まれて間もない彼にとってそれはやや難しい発音らしい。ブルーノとすら言えないのならレイモンドやバジルだってまだ言えないに違いない。想像して悲しくなる。

 アルフレッドは皆に拒まれるかもしれない。「アルフレッド」が彼らにとって大切でありすぎたために。

 否定できない可能性に身体が震えてしまうのは己も同じ蟲だからだ。せめて自分はこの新しい生命の側を離れないでいよう。心秘かにそう決める。


「ブレーノじゃなくて、ブルーノだよ」


 優しく訂正すれば今度は「ブルーノ?」と正しい発音が返された。

 けれどもやはり、彼が本当に「アルフレッド」かはブルーノにはどうしてもわからなかった。




 ******




 意外にのんびり時間は流れていくのだな。そう窓際でひとりごちる。ドナに来て二週間。当初はどうなることかと思った新店舗立ち上げも終わり、売上は現在順調に伸びていた。主な取引先が例の砦であるのがいかにも「女帝の保護を受けている」という感じで先行きは不安だったが。

 吊るし干しにしたハーブの束を腕に抱え、モモは階段に向かった。そろそろ正午の鐘が鳴る。ルディアが定期連絡に来る頃合いだ。

 主君にばかり駆け回らせて何をしているのかと思う。しかし彼女が「休め」と命じたことそのものは正解だったという気がした。

 皆といるとどうしてもアルフレッドを思い出す。そこに兄だけ足りないのを誰の頭も意識してしまう。せめて平静を装えるようになるまでは顔を合わせずにいたほうがいいのだ。いたずらに傷を抉り合うくらいなら。


(なんだかモモたちばらばらになっちゃったな)


 物理的な距離があった頃よりも心理的な距離を感じる。嫌になったわけではない。それでも今は歯車を嚙み合わせられる気がしなかった。頭に浮かぶのは震えて謝罪したバジル。返事もしないレイモンド。──そしてあの騎士。

 幻像を散らすようにかぶりを振って暗い階段を一歩一歩下りていく。

 どこが足をぶつけやすいとか、どの程度の荷物なら廊下で引っかからないかとか、感覚は新居に馴染みつつあった。けれど時々もう帰れないことを思って苦しくなる。感傷なんて柄でもないと、そう思って生きてきたのに。


「あ、モモさん。セージを取ってきてくれたんですね」


 と、暗がりになった通路で涼やかな声が響いた。それからひょこり、少女のごとき美しい面が現れる。


「助かりました。今行くところだったんです」


 律義にディランを演じなくてもいいはずなのにアンバーは「いつ何があるかわかりませんし」と今日も軍医のふりをしている。この薬局の雑用も薬の知識をつけたくて手を貸してくれているそうだ。わざわざずっと泊まり込んで己の側にいてくれる意味がそれだけでないのは明白だけれども。


「貸してください。残りは私が代わります。じきに来客の時間でしょう?」


 にこりと優しく微笑む彼女にあの詩人特有の胡散臭さはない。「ありがとう」と別の感謝もこめて告げる。

 アンバーとも兄の話はしていなかった。肉体の性別的な問題で夜は別の部屋で休むし、日中は家族の目があって込み入った話をする余地がないからだ。

 それでも彼女がここにいてくれて良かったと思う。こんな状態に置かれても寄り添ってくれる誰かがいて。一人でも己はきっと立てるけれど、二人のほうがもう少ししっかり立っていられる。


(五人だったはずなのになあ)


 ちくりと胸を刺した痛みにモモは腕の中のハーブを握りしめた。

 ルディアに聞いた話によると、ブルーノがジーアンの幕屋に取られたため、暇のできたアイリーンは足繁くガラス工房に通っているらしい。かつて研究に夢中になって弟を水死させた彼女には今の弓兵を放っておけないようだった。モリスへの恩義もあるだろう。ともあれ彼女がバジルを気にかけてくれるのは助かった。自分やレイモンドではきっと怯えさせるだけだから。


「? モモさん? どうかしましたか?」

「なんでもない! モモ裏口のほう行ってるね!」


 束ねたセージを年上の友人に託してモモは駆ける。暗い気持ちを無理やりに振り払って。

 兄の皿だけ出ていない食卓の脇を通り過ぎる。無人の台所を抜けて勝手口の小さな扉を内に開く。

 見上げた空は冬の灰色。燃え立つ秋は終わったのだ。


(どうしたらいいのかなあ)


 答えの出ない問いかけを一人でずっと続けている。

 今更ながら痛感した。自分たちを繋いでいたのが誰だったのか。

 アルフレッドがいなければ皆出会っていなかった。親同士付き合いのあったバジルとブルーノはともかく、あの五人で王女の直属部隊に立候補するような未来はきっと訪れなかった。

 今なんとか皆を一つにまとめているのはルディアである。レイモンドと旅の準備を進めながら、彼女は薬局と工房と砦を回って連絡だけは欠かさぬように、不用意に心を掻き乱さぬように、注意深く接してくれている。

 だがいつまでもその温情に甘えているわけにいかない。この傷が癒えるまでなど状況が待ってくれない。既に半月が過ぎ去った。もう半月もすればコナーがここへやって来て、また次の戦いが始まるのだ。

 大丈夫なのだろうか。こんなままで、本当に。

 陰鬱は膨らむばかりである。それなのに、モモはこれから訪ねてくる主君に何も進言できそうになかった。

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