第1章 その1
アルフレッドの処刑執行から一日。ルディアたちは再びレイモンドの帆船でドナに引き返していた。息を吹き返した彼をあのまま宮殿に置いておくことはできなかったし、まだ生きていると悟られないように匿うにはアクアレイアをなるべく離れる必要があったからだ。もっとも今のアルフレッドに対し「まだ生きている」などと言えたものかは不明だったが。
入港したのは日没間近。何よりもまず同乗していたハートフィールド一家を降ろした。いかに帆船が大きく多数の船室を持つとは言え、彼らの目に騎士の姿を触れさせるわけにいかない。女帝から「広場の空き家で薬局を営んでいい」との許しを得たアンブローズ・ハートフィールドは何度も何度も頭を下げると母を伴って夕暮れの街に消えていった。
親子に続いて下船したのはダレエン、ウァーリ、アニークだ。レーギア宮に残っていた少数の蟲兵と、顔面まで覆う兜を被せられた騎士を連れ、将軍たちはひとまず丘の砦に向かった。あそこなら人間一人隠す程度わけはない。先にドナ入りして留まっていたファンスウ一行──中身は一部入れ替え済みだ──と合流し、アニークたちは酒瓶転がる中庭に腰を落ち着けた。
ルディアたち防衛隊も「古龍に預けたアイリーンに会わせてもらう」という名目で同じ砦の狐の寝所に赴いた。
無事を祈りつつ待っていた仲間に伝えることになったのは騎士の訃報。幕を下ろした悲劇の顛末。
本当はこの先のことを話し合うべきだったのだろう。だが誰もとてもそんな精神状態ではなくて「一晩それぞれ喪に服せ」と部隊の一時解散を告げるのがルディアにできる精いっぱいだった。
奇しくも砦に引きずり込むことに成功した十将の本体をどう奪うかなど己が一人で考えればいい。ほんの短い時間でも皆を休ませてやりたかった。休めばどうにかなる問題ではないことも重々承知していたけれど。
そうして一夜が明けた今日、十一月二十五日。砦に戻ったルディアの前にはバジルとモモ、アイリーンの姿があった。
ウェイシャン役のブルーノとラオタオ役のアンバーは面倒が起こらぬように本物の狐、本物の聖預言者と寝所に籠ってもらっている。ルディアたちはその手前、鏡の迷宮が撤去されて広々とした一室に集まっていた。
一瞥した皆の顔色は優れない。モモは普段と変わりなく見えるけれど、そう振る舞っているだけだろう。小さくなったバジルは所在なさそうにうつむき、斧兵と目が合うのを恐れているかのようだった。
「ね、ねえ、レイモンド君は?」
普段以上に青ざめたアイリーンがおろおろ周囲を見回しながら尋ねてくる。ドナまで一緒に来たはずの槍兵の姿がないので心配になったらしい。
昨夜ルディアがレイモンドと同じ商館に泊まったのは全員知っていることだ。首を振り、彼はこの集まりには来ないのだとやんわり伝えた。
「まだ休ませたほうが良さそうだったのでな」
それだけ答えると余計な話は交えずに今聞くべきことだけを聞く。
「バジル、アイリーン。砦の様子はどうだった?」
問いかけにしどろもどろに二人が応じた。
「あ、は、はい、大体いつも通りかと」
「えっと、一応、大変な問題は起きていないわ」
厨房棟に出入りする弓兵によれば、ファンスウ一行が先に滞在していたゆえか女帝や将軍が増えたことによる下男下女らの混乱はさほどでもないそうだ。アニークたちが幕屋内から出てこないので重罪人の存在にもまったく気づいていないらしい。ドナの女に至っては「粗暴な退役兵よりずっと相手がしやすい」と行幸を喜ぶ者も多いとのことである。逆に縄張りを占拠された退役兵ら──これは第二グループの脳蟲と接合させた、己がアクアレイアの蟲という自覚のない蟲たちだ──は女帝に一時退去を命じられ、ぐちぐちと不満を零していたようだったが。
アニークに他意はない。手狭になった中庭から余計な者を追い出したかっただけだろう。アルフレッドが砦内で商いをするアクアレイア人に見つかったら彼に不利な噂が立ってしまうから。
マルコムたち第一グループの脳蟲も現在まとめて砦から締め出され、市街の広場に幕屋を並べ直していた。女帝の命令は天帝の勅令も同然。ドナの主人と定められた退役兵でも従わざるを得ないのである。
つまり今この砦にはジーアン側の勢力としてダレエン、ウァーリ、アニークと未接合の蟲兵及びファンスウ配下の一般兵が、アクアレイア側の勢力としてハイランバオス、ラオタオ、アンバー、ブルーノ、アイリーン、バジル、モモ、ルディアが存在しているということだ。
退役兵を追い出されたのは正直手痛い。こちらにはハイランバオスの手持ちを使った蟲兵も十数名ほどいるにはいるが、砦で何か仕掛けたいとき数で劣るのは不安がある。とは言え今はまともな連携など取れないだろうし、動きたくとも動かないほうが賢明なのかもしれなかった。
「そっちはどうだった?」
と、今度は中央広場に新店舗を賜ったモモに聞く。
「使えそうな家があったし、ママとアン兄は落ち着けそうかな。広場のほうも今のところは静かだった。幕屋の主張が激しいけど、退役兵たちはお行儀良くしてるみたい」
まあマルコムたちが一緒だし酔って暴れる心配はないでしょ、と続いた台詞に頷いた。ということは、当面の問題はやはり延命措置の概要をなんと言って誤魔化すかという一点になりそうだ。
昨日はファンスウに化けた狐が将軍たちを出迎えてアクアレイアでの悶着の報告を受けがてら「詳しい話はまた明日、アニークが泣き止んでからにしよう」とあしらってくれた。だが今日はそうは行くまい。どうにかして早急に連中の首を絞める策をひねり出さねば。
「────」
不意に襲ってきた罪悪感にルディアは小さく目を伏せた。
ジーアン帝国を乗っ取るという戦略を変えるつもりは毛頭ない。けれど今、アルフレッドの最後の頼みを無視するのかという迷いが生じつつあるのも確かだった。敵対しない形での接合と入れ替わりなど不可能だ。それなのに思考は勝手に彼の願いを叶える術を探り出そうと試みる。
(罪滅ぼしのつもりなのか? だとしても接合を施した後、女帝や十将を解放するなど有り得ない。我々は帝国からアクアレイアを守らねばならんのに)
かぶりを振って雑念を散らし、ルディアは再度三人に向き直った。
「私はこれからアルフレッドの見舞いに行く」
ダレエンとウァーリの隙を見つけるには直に接触するほかない。こちらには古龍の本体と器もある。狼が牙を剥いても最悪の事態は回避できるだろう。
「お前たちはどうする?」と聞きかけてルディアは声を飲み込んだ。騎士の名なんて口にしたから弓兵は青ざめきって硬直し、斧兵は色のない頬を張りつめさせている。アイリーンもあわあわと年少組を案じており、それで彼らに問うのはやめて別の指示を与え直した。
「……お前たちは家族と会うなりなんなりして好きに過ごせ。あちらの兵士に尋問されそうになったら私を通せと突っぱねろ」
端的に命じるとルディアは一人中庭へと歩き出す。
後をついてくる足音は聞こえなかった。
******
好きに過ごせと言われてもどうすればいいかわからない。どう考えても今は遊んでいるときではないし、手も足も使えるものは全部使って己の犯した過ちの埋め合わせをしなくてはならないのに。
与えられなかった次の指令に「失望されたのだろうか」と疑心が湧く。だがそれも当然だ。こんな結果になることを考えなかった自分が悪い。すべてが己に都合良く回ってくれると考えた、どうしようもなく愚かな自分が。
「あの……」
せめて謝らなくてはとバジルは声を絞り出す。がらんと空いて冷えた空間。この間まで己の設計した迷宮があり、皆の助けになっていた場所。どうしても顔を上げられないバジルをくるりと振り返り、小柄な少女がきっぱり告げた。
「昨日も言ったけどモモ別にバジルのせいだと思ってないよ」
優しくも冷たくもない平坦な声。ただ粛々と罪と責任と感情を切り分けんとする公正な。
「まあ相談もなく勝手な真似して部隊を危険に晒したことはちゃんと反省してほしいけど……。アル兄はバジルが何もしなくても同じだったから」
罵詈雑言で責めない彼女に却って気持ちが萎縮する。「でも」とバジルが首を振るとモモは硬い声のまま続けた。
「アル兄は、もし助かっても今度は自分で死に場所探してそっちで死んでた。だってそうしなきゃ姫様の足引っ張るのわかってたんだもん。モモが止めても無駄だった。だからこれはアル兄が自分一人で決めた自殺で、バジルのポカは関係ない」
あまりに強く言い切られて「でも」と食い下がる声が掠れる。でもやはり、己がきっかけを作ったはずだ。己さえ馬鹿なことをしなければアルフレッドは今頃ここで皆と笑っていたかもしれない。問題を丸く収めるために死ぬなんて選択肢は捨ててしまって。
「……ごめんなさい……」
彼女のほうを向けぬまま、伏せた顔を中途半端に逸らして詫びた。
意味も何もない謝罪にモモが嘆息する。
「モモたちも、大事なことを見落としてたんだよ。バジルにはバジルの時間が流れてたのに、モモたちに無理に合わさせようとしたの。だからもういいとは言わないけどさ、アル兄のことはアル兄にしか怒ってないから、モモは」
言って少女は前室の扉に向かって歩き出す。迷いはないが強張った足取りで。
「モモ、アン兄たちのとこ戻るね。ついでに広場の退役兵たちも見ておく」
自分の仕事を彼女はわかっている風だった。そのままモモが出ていくと部屋はしんと静まり返る。
「わ、私、ブルーノの様子見てくるわ。……バ、バジル君も、その、あんまり思いつめないでね……?」
アイリーンはモモとは逆の、狐の寝所に足を向ける。取り残されたバジルはしばし立ち尽くしたのち足を引きずって歩を踏み出した。
とにかく何か少しでもできることを探さなければ。焦燥がかろうじて四肢を動かした。厨房棟まで立ち入れるのはきっと己だけだろう。ケイトたちが部隊や女帝の客人を不審に思うことがないように注意を払っておくべきだ。
わかっている。今更取り戻せるものなどない。失ったものはずっと失われたままだ。それでも何かしないではいられなかった。
のろのろ歩いていたはずがいつの間にか随分早足になっている。吹き抜けのホールを飛び出し、主館に隣接する厨房棟へとバジルは駆けた。裏口に回り、冷たい石の通路を抜け、小間使いたちの仕事場に向かう。
と、そのとき、ニャアと響いた耳慣れぬ声に足が止まった。
「ニャア……」
哀切な鳴き声がこだまする。薄水色の小さな瞳が己を見上げる。暗い廊下の突き当たり、彼はここでひと足先に女たちを見守っていたらしい。
脱力するままバジルはへたり、石床に膝をついた。淡いグレーの大きな猫がおずおずと寄ってくる。すまなさそうに目を伏せて。
──どうするんですか。そんな姿になってしまって。
──猫の手でどうやってガラスを扱うつもりですか。
ここがどこかも考えず、バジルはそう叫びかけた。
アルフレッドの胴と頭を繋げるために大量の脳髄液が必要だったのは聞いている。あの肉体を犠牲にしたということは、彼はもう、ケイトたちのよく知る彼には戻れないということだった。
「タルバさん……」
呟きが狭い通路に反響する。
嘆くなどおこがましい。けれどなぜと虚空に問うのをやめられない。
こんなことを望んでいたのじゃなかったのに。
自分を助けてくれた人を助けたかっただけなのに。
******
ドナの街は坂が多い。同じ海運都市なのに、遠浅で扁平なアクアレイアとはまるで異なる風景が広がる。丘の上から見下ろした入江は深く、ごつごつした岩が目立ち、風除けにもなる小群島の連なりは壮観だ。エメラルドグリーンの潟湖に比してこちらの湾は深い紺碧。街並みも故郷のそれとは違っている。橋など一つも見当たらないし家屋も湿気で傷んでいない。雨水を溜めて濾過する式のアクアレイアの井戸よりも美味しい水が常時汲める。
それほど悪いところではない。むしろ祖国より住み心地はいいかもしれない。夏冬に蔓延する病魔もここでは風がやわらげてくれそうだ。そう思うのにモモの心は晴れなかった。巣にこだわる蟲でもないのに「もう家に帰る日は来ないのだな」とぼんやり考えこんでしまう。
まあそれはいい。いや良くはないけれど仕方ない。思うようには進まないのが人生だ。新天地でどうにかやっていくしかないこともあるだろう。
かぶりを振って砦から海へと至る坂を下っていく。石畳の隙間から伸びた草を蹴りつけながら歩いていく。
アンブローズたちのもとへ戻るとは言ったけれど、その前に寄っておきたい場所があった。港のすぐ側、寂れたドナの街にあって、まだしも華やかな建物の並ぶその一画。アクアレイア人居留区。
レイモンドが休んでいるのはここの第一商館のはずである。少しうろつけば目的地はすぐ見つかった。アンディーンのレリーフが施された大扉を押し開き、屋内に立ち入らせてもらう。
一階には商談中と思しき数人の商人がいた。だが宿泊施設である上階は槍兵以外誰もいないのかごく静かなものだった。ドア横にかかった札の色を見れば訪ねたい部屋は即座に知れる。少し迷ってコンコンと飴色のドアをノックした。
「──モモだよ」
名乗ったのは礼儀と言うより多分お互いのためだった。
返事はない。眠っているのか会いたくないのか中に誰もいないのか。
「レイモンド、どっか行ってるの? モモだよー」
間を置いてまた小さくノックを繰り返す。けれどやはり、どんなに待っても反応は返らなかった。
今は来るべきタイミングではなかったということだろう。息をつき、モモは半歩ドアを離れる。
「……帰るね。寝てるの邪魔してたらごめん」
十人委員会から兄の遺書を預かっていないか聞こうと思っていたのだが、日を改めたほうが良さそうだ。レーギア宮で「なんでアルを止めてくれなかったんだよ!?」と酷い顔で尋ねられたのを思い出し、もう行こうと踵を返す。話をしたくないのなら無理強いすることはできない。
(だからモモ言ったじゃん。馬鹿アル兄)
胸中で悪態をつく。どうやっても二度とは届かない言葉。
帰ったことがわかるようにわざと大きな足音を立てて歩いた。
早く行こう。モモは足早に商館を後にする。
新しい家に戻って庭仕事を手伝うのだ。せっかく女帝が気を回し、ハーブの苗までくれたのだから。部隊のほうでもいつ何があるかわからない。きちんと生計を立てられるように薬局だけは再開の目途を立てなくては。
(とにかくまずは家のことを──)
坂道を引き返していく。一歩ずつ力をこめて。
誰がどんなに傷ついていても世界は回る。時間は決して止まってくれない。生きている者は生きていくための生活をしなければならないのだ。
石畳を蹴って急ぐ。
息苦しさが追いついてこないように。
******
人の気配が去っていったのを確かめて、ようやく詰まった息を吐いた。何をする気力も湧かずに転がったベッドの上、なぜこんなことになったのだろうとただ呻く。
わからない。わかりたくなくて苦しい。アルフレッドの決心も、モモの考えも、バジルの行為も何もかも。ともすれば激しい非難が口をつきそうになる。
憤りは海軍にも十人委員会にもあった。けれどやはり、自分が一番悪かったのではと思ってしまう。己があれほどアルフレッドを追いつめていなければ、主君を慕う騎士の想いに気づいていれば、もっと早く彼は心を持ち直していたのではないのかと。
甦るのは酒臭く荒んだ顔の幼馴染。最後に話したアルフレッド。良かったなと嘲笑われた。望むものすべて手に入れてさぞいい気分なのだろうと。
金や地位や恋を掴み取ったことに罪の意識を持つなんて思ってもみなかった。恵まれた者は幸福で、余裕があるから身を切られる痛みにも耐えられるのだと信じていた。今はもうそんな風には思えない。
せめて一日早く帰国していたら。
ほんの少しだけ今と何かが違っていたら。
思考はぐるぐる同じところを回り続ける。
「アル……」
名を呟いても答える者はどこにもいない。堪えがたくて目を閉じた。すると今度は瞼の裏に知らない男の顔がよぎる。
まっすぐに、ルディアに向かって手を伸ばした。主君だけを見つめるあの目。
あんな生き物になることを望ませるほど痛めつけたのは誰だったのか。
──お前といると、何も手にできなかった自分が惨めで仕方なくなる。
耳の奥に響く声がレイモンドに思い知らせる。
己のこの手も間違いなくアルフレッドを処刑場へ引きずっていったのだと。




