第5章 その7
ようやく頭が回りだしたのはレーギア宮に連れてこられてからだった。寝所に続く前室で呆然とするルディアたちにモモが何度もこんな事態になった経緯を説明してくれていたように思う。
まだしも冷静を取り戻しつつあった己と違い、レイモンドは完全に虚脱していた。ダレエンたちには「とにかく待て」とだけ言われ、かつての己の自室を前に時間と心を持て余している。
──接合について一部情報が漏れてしまった。考えるべきは今後の対応だというのに麻痺してしまった頭では打つ手が何も閃かない。いざとなればドナに連れ込んでどうとでもできるから考えずとも良かったのは確かだが。
どうとだってできたのにどうして死なせてしまったのか。自分を責める言葉だけが頭の奥にわんわんと響いている。
「入っていいわよ」
ドアを開いたウァーリの両手は汚れていた。長いスカートには濡れたような染みがあり、中で何をしていたのだろうと思う。
否、それもつい今モモが話していた。アルフレッドは人質として死ぬことを受け入れた代わりに彼らに一つ頼みを聞いてもらったのだと。
彼の願いはジーアンの蟲の命を延ばし、アクアレイアと敵対しない形で器を与えること。そう、それから──。
「アルフレッド……」
おそるおそる入室したルディアが見たのは棺の中に横たえられた騎士だった。不可解なのは先刻切り落とされたはずの首が元通りくっついていることである。アルフレッドの首回りは何かの液体で湿っており、なぜかフスの岬での出来事を思い出した。誰の脳髄液を使って彼らは遺体を修復させたのだろうか。
「あなたのせいよ……」
骸の首元に座り込む女帝がルディアを強く睨む。涙でぐちゃぐちゃになった頬を拭いもせずに。意味がわからず顔をしかめた。
アルフレッドを殺したのはジーアンだ。自分たちだって取引の条件を守らず小砦を建設し、好き放題にしていたくせに。呆れて言葉も出てこない。
いや、違う。考えたくないと避けているだけだ。何が彼に──誰への思いがアルフレッドにこんな真似をさせたのか。
「良かったわね。これで彼もあなたと同じになるんだから」
アニークは手にしていた小瓶を傾け、騎士の耳に中身を注いだ。透明な水はすぐに尽き、空の小瓶が放り出される。
気がつけばルディアは棺のもとへ歩き出していた。
ふらつく足に力をこめても現実味がなさすぎて、夢の中でもさまよっているのではと錯覚する。
──あるよ。どうしても誰も信じられない。
どうして今、彼に告げた言葉が甦るのか。
どうして彼がこんな願いを託した理由がわかるのか。
あれはアルフレッドに献身を諦めさせようと口にしたことだったのに。
血の気が失われていた腕に、指に、肩に、首に、頬に、額に、耳に、赤みが差す。唇が薄く開き、鼻が呼吸を再開し、閉ざされていた瞼が開く。
「────」
棺の中で目を覚ましたアルフレッドは最初しばらくぼんやりしていた。彼はまず隣のアニークを見上げ、逆隣のダレエンを見上げ、ドア前に立つウァーリを見上げ、押し黙るモモを見上げ、無言で震えるレイモンドを見上げ、最後にルディアを赤い瞳に映し出した。
瞬間、何かに弾かれたように騎士が身を起こそうとする。生まれたばかりで肉体の扱い方も知らぬまま、それでも必死にルディアのほうへ近づこうと。
「あ──」
不格好な忠誠のポーズだった。くぐもった声は名前など呼ばなかった。
半分棺に入ったまま、ただ腕だけをまっすぐこちらに伸ばしてくる。それですべてを理解する。
「あ、あ──」
言葉も紡げぬアルフレッドを前にして、崩れるように膝をついた。
震えるのを抑えられない。こんなことは頼んでいないと叫びだしそうだった。
視界が滲む。胸が痛い。
教えてはいけなかったのだ。どんな困難も乗り越えて進んでしまうこの男に、誰も信じられないなんてことは。
また私が間違えた。
見くびって、本気にしないで、理解からも信頼からも逃げたから。
「……馬鹿なやつ……」
掠れた声で呟いてルディアは騎士の首を抱きしめた。ほかにどうしてやればいいのかわからなかったから。
別の姫に仕えてもきっと平気だったのに。
お前はお前のことだけを考えていれば良かったのに。
(私が私でなくても同じだなんて言ったから──)
いつも、いつも、己のほうに覚悟が足りない。誰かの心を引き受ける覚悟。だから悲劇を招いてしまう。
「……なんで……?」
レイモンドが呟いた。
乾いた問いへの返事はなく、晩秋の長く冷たい夜を告げる鐘の音だけが遠く遠く響いていた。




