第5章 その6
物語が終わるとき、幕は一体どんな風に下りるのだろう。
まだ少しも想像がつかない。ここにある意識がどうやって途切れるのか。
「準備はいいか」
独房まで迎えにきたのはダレエンとモモだった。アニークは先にウァーリに連れられて広場へと向かったらしい。
いつもノウァパトリア風の上等な服を着ているのに今日のダレエンは刑吏に扮して地味な黒装束を纏っている。アルフレッドも「これを着ろ」と首回りの広く開いた新しい上衣を渡された。
首斬り役になってくれたのは「下手な奴がやると刃が通らずに長く苦しむ」からだそうだ。確かに彼の腕ならば痛みなど感じる暇もないかもしれない。
着替えの前にはモモが散髪してくれた。「髪が長いと刃が引っかかるでしょ」と鋏を向けてくる彼女はこちらがやっぱりやめたと言うのを待っているかのようだった。
この一週間、妹からは何度も考え直すべきだと諭された。帝国の乗っ取りが進めば状況はいくらでも変わる、一人で全部背負いすぎだと。それはそうかもしれないが、首を縦には振れなかった。
逃げられないのだ。こうしたいと願う己の心からは。
取れる責任は取りたかった。ルディアが検討してくれるならアニークたちを死の運命から救いたかった。十将との仕切り直しが必要で、人質が命をもって贖えば話が次へ進むとしたら、いいと言わざるを得ないだろう。そうして主君に純粋な忠義だけを遺せるなら。
「……終わったよ」
シャキン、シャキンと響いていた音が止む。鋏を置いた妹に「ありがとう」と礼を述べ、アルフレッドは貰った服に袖を通した。
「いいんだね?」
牢の外へと出る前にもう一度念を押される。小さく頷くと先導のダレエンに続き、監獄塔の狭い通路を歩き出した。
石積みの塔は三階部分がレーギア宮と繋がっている。屋根付きの橋と言えば大運河の中央に架かる真珠橋もそうだけれど、壁と窓とで完全に塞がれているのはここだけだ。罪人と兵士以外は行き来もない短い石の橋を過ぎ、いくらか慣れた景色に戻る。
閑散とした宮殿内には使用人の姿もなかった。王国が斃れてからは最低限の下男下女しか見かけなくなっていたが、今日はまったく人間の気配がしない。全員広場に出ているのかもしれなかった。少なくとも十人委員会はそうだろう。きっと街中の人々がユリシーズを悼むために集まっている。
「────」
アルフレッドが腰の曲がった人影に気がついたのはいくつかの部屋を抜け、中庭へ続く大階段を下っているときだった。囚人がここを通ると事前に知っていたからか、老詩人が手すりの陰から暗い眼光を覗かせる。
「ほれ、やはり騎士などろくな生き物ではない」
勝ち誇ったかのような笑み。歪んだその表情を見ても、悲しみや憤りはもう湧いてこなかった。
なんだこいつと言わんばかりの渋面を作るダレエンとモモの横で立ち止まり、アルフレッドはパディと向き合う。彼にも伝えたいことがあるのを思い出したから。
脳裏に甦ったのは幼い情景。夢中で読みふけった写本。誰かに剣を捧げたいという願い。胸に抱いた星の輝き。
言葉を綴った者の真意がどうであれ、物語はきっと誰かと出会うためにある。
追いかけた憧れは間違いだったかもしれない。彼の言う通り騎士というのは世界一の愚か者なのかもしれない。それでも。
「……ありがとう、騎士物語を書いてくれて」
ひと言だけ感謝を告げてアルフレッドは目を細めた。
憧れが、夢が己を育ててきた。それだけは真実だ。
「あなたと同じ時代を生きられて良かった」
歩き出す。背後でパディが息を飲む音がした。
回廊と衛兵控室を抜ければ正門はすぐそこだ。耳を澄ませばたくさんの人のざわめきと息遣いが感じ取れた。
──鐘が鳴る。時の巡り、戦いの始まり、祝福されし夫婦の門出も、罪人の死も、すべてを知らせる鐘の音が。
晴れやかな空に高く響いている。
人々の放つ怨嗟の声を掻き消して。
******
一睡もできないまま朝を迎え、次第に高く昇っていく太陽に焦燥を募らせた。
風がもっと強く吹くように、波がもっと速く駆けるように、無力に祈るしかできない。
海門を越え、視界にアクアレイアの街並みが映ったのは正午の鐘とほぼ同時だった。
ルディアは見る。広場いっぱいに集まった群衆を。彼らにぐるりと囲まれた罪人と首斬り人を。そこでこれから何が行われようとしているか。
「……ッ! お行儀良く商港に錨を下ろしている時間はない! このまま直接乗り込むぞ!」
国民広場に船が横付けするのは珍しい話ではない。特別な荷を積んでいればそちらで下ろすのがむしろ普通だ。レイモンドも「わかった!」と船長に指示を出す。刑はまだ執行されないと信じたかった。
この先は弁舌で延期を訴えるしかあるまい。アンディーンがアクアレイアに帰ってきたのに血なまぐさい真似はよせと。そのためには力づくでも処刑台の前に割り込まねばならなかった。
広場はひと目で海軍とわかる武装兵が監視している。単独では突破するのも厳しそうだ。
「倉庫の聖像を持ってきてくれ! 私が下で時間を稼ぐ。お前は甲板から皆に守護精霊の帰還を知らしめろ!」
「了解!」
ルディアが叫ぶとレイモンドも手早く船首で準備を始めた。朗報を華々しく演出するべく彼はまず衣服から整える。
(間に合うか……!?)
本当は波の上を駆ける船で石像なんて重い荷を出し入れするべきではない。しかし時は一刻を争う。海軍も、民衆も、船の存在に気づいていた。こちらが介入しようとする気配も見て察しているだろう。何しろ船は水先案内の誘導を無視して広場へ直行している。
「おい、止まれ! そこの商船! 荷揚げのスペースなんかないのが見えねえのか!?」
大鐘楼の麓では海軍兵士が群がってこちらに退けとジェスチャーしていた。だが船は彼らを無視して前進する。橋板を渡す時間も惜しく、ゴンドラ溜まりの真横を通過した際にルディアは船縁を跳び越えた。
小舟の一艘に着地すると高く波飛沫が上がる。傾きすぎたゴンドラから次のゴンドラへと移り、足を縺れさせながらもなんとか広場の一角に辿り着いた。そのときにはもうレドリーが壁を作って立ちはだかっていたけれど。
「ったく防衛隊はこれだからよ……! 騒乱罪で逮捕されたくなきゃ大人しくしてろよ……!」
一、二、三──どう見ても十人は引き連れている。多勢に無勢だ。ルディアは犯罪行為に及ぶ意志がないことを示すべく両手を上げる。そうしてゆっくり横歩きして少しずつ二本の鉄柱に近づいた。
けれどまだ柱の間に立たされた罪人まではほど遠い。赤髪は見えているのに兵がどんどん集まってきてますます壁が厚くなる。レイモンドもコリフォ島でアンディーン像を取り返したと演説を始めたが、まだ御神体は引っ張り出せていなかった。
「アルフレッド!」
こちらへ来いと命じる代わりにルディアは騎士に呼びかける。名を呼ぶ以外は具体的に何も言えないのが歯痒かった。アルフレッドはいまだ重罪人なのだ。逃亡幇助と受け取られれば今後に響く。
「アルフレッド! 聞こえたなら返事をしろ!」
騎士の頭がこちらを向いたように見えた。前方を塞ぐ何人もの兵士のせいであまりはっきり目視はできなかったけれど。
「おい、これ以上近づくな! 死刑を妨害するつもりか!?」
肩を掴む男を突き飛ばしたかったが、堪えて睨みつけるに留める。「側に行くくらい構わんだろう!?」とレドリーの指を剥がして無理やりに歩を進めた。
なんでもいい。少しでも斬首を遅らせることができたなら。
海軍と派手に揉み合いながらルディアは広場に打ち立てられた黒い鉄の柱を目指す。いつも一分とかからない距離が今は果てしなく遠かった。かわしてもかわしても伸びてくる腕は減らない。押し返そうとする堅牢な人壁は破れず、踏みとどまるのが精いっぱいだ。
「アルフレッド!」
ルディアは叫んだ。声の限りに。
どうしても助けてやらねばならなかった。全部己の不甲斐なさのせいだから。
騎士の誓いを立てさせたくせに彼の人生を引き受ける覚悟がなかった。己のその忌むべき弱さがすべての元凶だったのだから。
「アルフレッド……っ!」
無我夢中で手を伸ばす。前へ出ようと人波を掻く。
もう一度やり直すために。
歓声は不意のタイミングで沸き起こった。
それが何を意味するものなのか、しばらくルディアにはわからなかった。
******
──運命も妙な計らいをするものだ。何もかも終わった後の帰国になるかと思ったのに、最後の最後に彼女に会わせてくれるとは。
(姫様……)
重罪人の席である二本の柱の中央でアルフレッドは顔を上げた。そうすると海軍兵士に押し戻されまいと踏ん張るルディアがよく見えた。
主君が従者のためになど身体を張らなくてもいいのに。
もっと大きなもののために彼女は力を使うべきなのに。
(なんだかんだ言ってあの人も優しいな)
くすりと笑う。やはり自分は主君がルディアだからこそ側にいたい、ずっと支えていきたいと思うのだと。
見物人が囃し立てる声は聞こえていなかった。傍らで曲刀を握るダレエンも、大鐘楼の前に陣取るアニークも、女帝をしかと支えるウァーリも、鉄柱のすぐ傍らに控える母や弟妹も、今巻き起こった騒ぎよりアルフレッドをじっと見ている。
国民広場はかつてなく混み合い、けれど自分の周りには数えるほどしか人がおらず、なんとなく円形劇場を思わせた。舞台袖は騒々しいが、そろそろ幕を引かなくては。
「どうする? 少し待つか?」
「いいや」
刃を引っ込めたほうがいいかと問われ、アルフレッドは首を振った。決心は変わらない。己がすべてを清算するべき者であるのも。
半端に曲刀を構えたままダレエンがちらと前方の海軍兵士の一団を見やる。ルディアがそこを抜け出せそうな様子はなく、彼は得物を持ち直した。そして数歩後ろに下がる。最も刎ねやすい位置から罪人の首を落とすために。
民衆が声高く叫ぶ。だがやはり「殺せ」も「死ね」もアルフレッドの耳には入ってこなかった。視覚も聴覚も一切が彼女しか追おうとしていない。
死の前の極限状態では通常起こり得ないほどの集中力が発揮されると言う。己の全神経が何を求めているのかが、一つ呼吸をするたびに、鮮明に、鮮明になっていき、そのことがただ嬉しかった。
「本当にいいのか?」
もう一度尋ねられる。待ってやってもいいんだぞと優しい響きのある声で。だからこちらも「いいんだ」ときっぱり返した。
これ以上ルディアやレイモンドを海軍と争わせるわけにいかない。二人には王国の重要機関と無用な軋轢を生じさせたくなかった。十人委員会のお歴々も今頃困っているだろう。言葉は交わしたいけれど交わさないほうがいい。
「やってくれ」
ダレエンが仕留めやすいようにアルフレッドは石畳に膝をついた。懐かしいあの日、騎士に叙せられたあのとき、主君の前に跪いた姿のままに。
誓ったのは生涯の忠誠。死しても続く主従の契り。
形式的なものだとルディアは言うかもしれない。だが己にはあれがすべての始まりだった。
──ああ俺は、この先きっとこの人のためにどんなことでもするだろう。
剣に口づけを授けられたとき、芽生えた予感を覚えている。まだ恋もせず、嫉妬もなく、単純だったあの頃の。
偽物だの本物だの思い悩むこともなかった。
悪くはあるまい。あのまっすぐさをもう一度取り戻せるのなら。
「俺には雑念が多すぎた」
笑って自己反省を述べた。一つしか手に取れないほど不器用なのに、多くを望みすぎてしまったと。ダレエンは「そうか?」と否定してくれたが。
「安心しろ。二人目のお前も俺たちが面倒を見てやる」
背後で刃が掲げられる。ちらついた光でそれを知る。
ああ、本当に終わるのだ。
二十年。長いようであまりに短い歳月だった。
これから積み重なる時はちゃんと自分を追い越してくれるだろうか。
ルディアやほかの皆にも優しく寄り添ってくれるだろうか。
(姫様──)
屈んだままルディアを見上げる。レドリーはまだ防衛隊を広場に入れまいと力を振り絞っている。
最後にひと目見られて良かった。物語の続きを知ることはできずとも、己の何が次の始まりになるのかはわかる。こんなにもはっきりと。
──隊長はあなたに任せます。
──心ばえ正しく、立派な騎士になってください。
耳の奥で響いた声に目を伏せた。
ずっとあなたの側にいる。
「たった一人」になれるように。
******
何かが跳ねる音がした。
重い何かが、固い地面に。
鼻をついた血の臭いに思考が完全停止する。頭と一緒に手足も止まり、目を瞠ったまま立ち尽くした。
「──……」
甲板から響いていたレイモンドの演説も止まっていた。民衆の興奮があまりに激しすぎたためか海軍はたちまち全員広場へと引き返す。防衛隊の妨害などもはやどうでもよさそうに。
「アルフレッド……?」
黒々と光る鉄柱の間に目をやれば頭部のない誰かが血溜まりに伏している。ドレスが汚れるのも厭わずに落ちた頭を抱え上げたのはアニークだった。
首と胴とが離れたら普通人間は生きてはいない。当たり前の事実を飲み込むことさえルディアには容易でなかった。
その後どうやって広場から離れたのか、誰に腕を引かれたのか、どうしても何も思い出せない。




