第5章 その4
中での話は終わったらしい。衛兵用の前室で待っていたモモが開かれた扉を見やると将軍二人と彼らに寄りかかるように歩く女帝が寝所から出てきた。
「しばらく中にいていいわよ」
すれ違いざまウァーリがそう告げてくる。この状況で身内とゆっくりさせてやろうなど殺すと決めた男相手に随分と甘いことだ。アルフレッドは逃げないという確信があるのだろう。
ダレエンが「宮殿からは出すなよ」と外の衛兵に命じているのも聞こえた。とりあえずウォード邸にはまだまだ帰れなさそうである。
ふうと短い息をつき、モモは寝所の扉を開いた。最初タルバがついて来ようとしたけれど「ちょっと二人で話させて」と頼むと彼の足が止まる。
事を大きくした罪悪感とジーアンの秘密を知る敵に対する警戒心、その両方が見て取れる顔で青年はモモを見つめた。
視線を無視して一人でさっさと寝所に入る。今は馬鹿の相手などしている暇なんてない。もっとどうしようもない大馬鹿者の相手をしなければならないのだから。
「……アル兄」
呼びかけると兄はこちらを振り向いた。いやにすっきりした顔で、腹の底がむかむかする。
「裁判を始めてもらうように頼んだよ」
そんなことをのたまうのでますます胃の腑が熱くなった。どれくらいの力で殴れば目が覚めるだろうかと本気で思案してしまう。
「姫様はこれから普通の人間よりもずっと長い生を歩むことになるだろう? 俺もそれについていきたいと思っている」
百年でも、二百年でも、千年でもと語るアルフレッドは早くも異界の生物になったようだ。正気ではない。そのために死を選ぶなんて。
「姫様にはブルーノだってアンバーだっているじゃん」
怒りをこめてそう告げた。放っておいてもルディアは一人になどならない。アクアレイア湾にはほかの個体もいるのだし、アークだって稼働しているし、増やしたければ仲間くらい彼女の好きに増やせると。
「俺でなきゃ駄目な理由があるんだ」
けれど兄は譲らなかった。一番強い思いでなければ届かないとでも言うように、ただ眩しげに目を細める。
「一応聞くけどそれって何? さっき話してた蟲の人格の核とかいうのと関係あるの?」
返答は「うん」と小さく頷かれただけ。ほかにはなんの説明もない。さすがに抑えきれなくなる。勝手に全部決めようとするアルフレッドへの憤りを。
「……誰もそんなこと望んでないよ。皆アル兄を助けようとして頑張ってんだよ? なんで台無しにするようなこと言うわけ?」
モモは歩を詰め、兄の胸倉を掴んで己に引き寄せた。表に聞こえない声量で「入れ替わりは順調に進んでる。姫様が帰ってきたらこんな状況いくらだって引っ繰り返せる」と耳打ちするが、兄はやはり首を横に振る。
「これが一番いいんだ。俺が生きているとどうしても禍根が残る。街の人も、海軍も、十人委員会も防衛隊を良く思わないよ。俺が一人で引き受けるんじゃなかったら」
悟りきった言い分に腸が煮え繰り返りそうだった。「それくらい姫様が考えてないと思う? アル兄を助けた後のこと、あの人が考えてないと思うの?」と掴んだままの胸倉を揺さぶる。
頼むから妙な気遣いをしないでほしい。アルフレッドに生きてほしいという皆の心をこれ以上無視するのは。たとえそれが騎士として歩むべき道ではないのだとしても。
「姫様が無策じゃないのはわかっている。あの人なら数年あれば部隊の不名誉くらい巻き返してみせるだろう」
「じゃあいいじゃん! 死んだほうがいいなんて言うのやめて、もっと真剣に生き残ること考えたら!?」
「……考えたよ。姫様がアンディーン像を取りに行くと聞いてから俺はずっと考えていた。どんな風に自分が牢獄を出ることになるか。どんな風にあの人が俺の名前についた傷を回復しようと試みるか」
アルフレッドは静かに語る。
ルディアはおそらく聖像奪還の偉業を喧伝しようとしてアンディーン神殿にジーアンの黄金馬像を持ち込んだ者を腐すだろうと。神殿の関係者には聖域を侵した英雄を快く思わない人物が多いから、きっとそこから取り込もうとするはずだと。
新聞を渡したのはそんな結論を聞きたかったからではない。牢を出た後どう立ち回るか考えるのに情報が必要だろうと何号も掻き集めたのだ。死に向かう理由を見出させるためではない。はたしてこの愚か者はそれをわかっているのだろうか。
「自分が平穏にやっていくためにユリシーズを貶めることは俺にはできない。こういう形になったこと、却って良かったと思っているんだ。アニーク陛下やダレエンたちに感謝しているのは本当だし、姫様とジーアンの関係が少しでもいいものになればと願っている」
天帝の身体を奪って終わりじゃないだろうと囁かれる。ジーアンの蟲のその先も、あの人だったら考えてくれるだろうと。
何を言っているのだろう。この兄は、本当に何を。
「……姫様も、レイモンドも、バジルも皆傷つくよ? わかってんの?」
肩が震える。知らず拳に力がこもる。
ああ、とアルフレッドが頷いた。それでもう我慢ならなくなった。
「わかってる。全部俺のわがままだ」
「……ッ!」
思いきり左の頬を殴り飛ばすとモモはもう一発殴りつけたい衝動を堪えた。拳の代わりに「馬ッ鹿じゃないの!?」と罵倒する。
「……うん。多分馬鹿なんだ」
赤くなった口の端を押さえて騎士は苦笑いしている。己の最期とこれからをすっかり決めてしまった顔で。
どこまでも人の話を聞かない男だ。ただ前へ、目指すものだけ見つめて一人で走っていく。
助かるはずだったのに。
皆また元に戻れるはずだったのに。
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ニコラス・ファーマーの第一声にブラッドリーは狼狽を隠しきれなかった。突然の委員会招集に嫌な予感がしなかったわけではない。だがいくらなんでもこれはあんまりではないか。
「それではアルフレッド・ハートフィールドに判決を言い渡す」
開かれたのは会議ではなく裁判だった。そのうえ被告本人は不在の欠席裁判だ。ろくな証拠検分もなく、公式文書に弁明を残すことすら許されず、罪人は闇に葬られるのだ。
「有罪。海軍提督を殺害し、国家転覆を謀った罪で死刑とする」
レイモンド・オルブライトがアクアレイアを留守にしている間に始末しようと言うのだろう。ニコラスは手際良くアルフレッドの処刑日まで決定した。
「では三日後、執行は国民広場で」
早すぎると抗議しなければ本当にその日に決まっていたかもしれない。自分以外の全員が厄介の芽をさっさと摘み取ろうとする中で、ブラッドリーは甥のためになんとか一週間の猶予をもぎ取った。
せめて遺言をゆっくりと記す時間が必要だろう。彼だけではなく彼の一家も別れを受け入れる期間を持たねば。
「しかしアニーク陛下も急にどうなさったんでしょうね」
「サロンに匿われていたんだろう? 迂闊に触れでもしたんじゃないのか?」
だとしたら天帝の耳に入る前に尚更早く手を打たなければと小会議室に声が響く。当日の警備は海軍にとか、囚人はそれまで監獄塔にとか、耳に入る言葉はどこまでも冷たかった。誰もアルフレッドを保護するべきアクアレイア人と見なさなくなったようである。
これまであの子を守っていた鎧はすべて剥がれ落ちたのだ。突きつけられた現実にブラッドリーは眩暈を堪えた。
堰を切った流れはもはや止められまい。ブラッドリーにできたのは、せめて騎士が騎士らしく死ねるように斬首にしてくれと頼むことだけだった。




