第5章 その2
船がヴラシィ港を出たのは当初の予定とさして変わらぬ十一月十六日のことだった。この時期は北へ北へと吹きつける冬風が多くなるから一週間もすればドナに到着するはずだ。アンバーたちと状況の擦り合わせをしたいからすぐに砦を出るのは難しいかもしれないが、ドナからアクアレイアまではいつも二日もかからない。秋の間になんとか帰国できるだろう。
(やれやれ、これでようやく大きな仕事は片付いたか。あとは波の乙女の像を神殿に納めるだけだな)
すっかり落ち着いた船内を見回してルディアは軽い息をつく。
ジーアン兵で蟲とわかる者は皆ハイランバオス手持ちの脳蟲と入れ替えた。ドナの退役兵に続き、これでまた帝国に対する有利なカードを増やせたことになる。彼らは身内を大事にするからガラス瓶に封じた本体を二つ三つ見せれば動揺させられる。天帝が十将に招集をかけているのも渡りに船だ。今なら一気に幹部全員を狙える可能性もあった。
「あっ、やっぱりこっちにいた」
と、薄暗く細い通路の先に槍兵が現れる。倉庫方面から歩いてきたルディアを見やって彼は「あいつと話してきたの?」と声を潜めた。
あいつとは第二倉庫をねぐらにするエセ預言者にほかならない。今後の計画をスムーズに実行に移すため、ルディアは足繁く彼やラオタオのもとに通って話し合いを続けていた。昨日まではファンスウ配下と脳蟲の入れ替えについて。今日からはジーアン帝国乗っ取りについて。
「ああ。我が君にまみえる日が楽しみですと喜んでいたよ」
アクアレイア奪還に向け、まずは帝国自由都市を目指すつもりでいることはコリフォ島を発った日にも聞かせていた。周辺諸国に呼びかけて再独立戦争を仕掛けるのではなく、裏で一手ずつ詰めていくと。派手好きな詩人には物足りない作戦かもなと危ぶんでいたけれど、特に不満は生じなかったようである。ハイランバオスは「わあ、それはとっても名案ですね!」と笑顔を弾けさせていた。
「そっか。じゃあこのまま普通に協力してくれそうなんだな」
胸を撫で下ろしたレイモンドにこくりと頷く。嫌がられるどころかこちらが一瞬たじろいだほどだ。「心から信じていた同胞が誰一人本物の味方でなかったなんてことになれば、あの方はどんな顔をなさるでしょう?」と陶酔しきった彼の台詞に。
ヘウンバオスも厄介な男に好かれたものだ。だからと言って憐れむつもりは毛頭ないが。
「ひとまずあの二人にはドナで降りてもらおうと思う。一緒にアクアレイアに戻ると引き渡しがややこしくなりそうだしな。兵士もまとめて砦に待機させる予定だ。ダレエンとウァーリは後日ファンスウの名でドナに呼び出す」
「うん、うん」
有利な戦場を選択するのは兵法の基本である。退役兵たちの街を制圧できたのはやはり大きい。一切が滞りなく運んでいるという実感に恋人も喜ばしそうだった。
「早くアルにも色々手伝ってもらわねーとな」
役目があればあいつは頑張れるからと幼馴染について語るレイモンドの目は往路に比べて遥かに明るい。己も早くアクアレイアに戻りたかった。聖像さえ持ち帰れば苦境は大きく変えられるのだ。生真面目に過ぎるあの騎士はそれを良しとはしないかもしれないけれど、それでも。
(待っていろよ、アルフレッド)
胸中で呼びかける。もうすぐ迎えにいくからと。
そうしたら我々はもう少しましな主従になろう。
いつか終わりが来るとしても、また笑い合えるように。
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ジーアンの蟲がどんな価値観で動いているか、少しはわかっているつもりだ。彼らが天帝の名を出してアルフレッドを殺すのが取るべき責任だと言った以上、決断は曲げられないのだろう。彼らにとってそれは背信と同義だから。
やはりそういう巡り合わせなのだなとひとりごちる。薄まらない影にずっと足首を掴まれている感触があったから、逃げられないのは悟っていた。たとえ彼の気配がなくとも逃げようなどとは考えもしなかったろうが。
最初から己の意志は決まっていた。
主君のための最善を取ると。
「ここで斬り捨てるんじゃなく、正式な裁判の後に殺してくれ」
誰も何も言わないのでアルフレッドは別の言い方で繰り返す。
最初に「……何を言っているの?」と震えながら聞き返したのは思った通りアニークだった。
「こうなったときの覚悟は決めて人質役になったつもりだ。不都合を秘匿した言い逃れをする気もない。だが最初の約束に従うのなら俺以外の人間には手を出さないと誓ってほしい。モモにも、ほかの誰にもだ」
こちらを仰ぐ女帝の視線には気づかぬふりでダレエンとウァーリに告げる。二人は突然の要望に面食らっている様子だった。
自分の言葉で本音を伝えられるのはこれが最後かもしれない。意を決めて、アルフレッドは静かに彼らに語りかける。
「……本当は今すぐやり方を教えたいよ。バジルが我慢できなかった気持ちが俺にもよくわかる。ダレエンにもウァーリにもアニーク陛下にも世話になった。なりすぎたなと思うくらいだ。皆には長生きしてほしいし、延命措置の施せる環境が整っていれば俺もバジルと同じことをしたかもしれない」
アルフレッドは今一度長身の青年に目を向けた。タルバはバジルだけでなくモモや自分のことまで守ろうとしてくれた。きっといい関係を築いているのだ。己がこのサロンにいるときは確かな安らぎを得られたように。
「だが口を割る気はないのだろう? くだらない戯言はよせ」
と、ダレエンが刺々しい口ぶりで言う。彼はまだ怒りを手放そうとはせず、吠える声にも「そんなことでほだされるか」という響きが強く滲んでいた。
「何もできないことは申し訳なく思っている。でももし俺の願いを聞き届けてくれるなら、俺から姫様にどうにかならないか頼んでみるよ」
アルフレッドは訴える。多分そのほうがダレエンたちにとってもいいと。
「闇雲に調べようとして姫様と決裂したら二度と延命を望めなくなってしまう。俺はこのまま三人を放ってはおけない」
あまり直截に告げたからかダレエンが鋭い目を丸くした。
「尋問や拷問よりも交渉のほうが道は拓ける。助けられるなら助けたいんだ」
そう続けると彼はなお複雑そうに眉間に深いしわを刻む。
「俺が遺言しておけば姫様だって──」
「もういい、やめろ。ちょっと黙れ」
ぶんぶん腕を振る仕草で発言を止められたのでアルフレッドは素直に黙した。ダレエンは「なんでお前が俺たちの心配をしているんだ」と呆れ果てている。
「アルフレッド君って、ほんとアルフレッド君よねえ」
似たような顔で彼の隣に並ぶウァーリもなんだか毒気を抜かれた風だ。ただ一人、アニークだけがアルフレッドに抗議するように目を瞠り、じっと沈黙を保っていた。
「お前がどんなにいい奴でも俺はお前を殺さなければならんのだぞ?」
「けど逆に、俺が人質の務めを果たせばもう一度姫様と話し合う余地ができるじゃないか。前の約束は前の約束、次の約束は次の約束として」
戸惑うダレエンに「いいよ」と小さく笑みを浮かべる。それでいい。むしろそのほうがいいのだと。
「俺はやっぱり死ぬべきなんだ。国のためにも、姫様のためにも」
何度考え直しても変わらなかった思いを告げる。
生き延びるだけで民衆の憎悪を育て、部隊を孤立させるなら、幕を引くのは早いほうが賢明だ。未練はない。一つだけ最後に遺せるものがあれば。
「アニーク陛下」
アルフレッドは己の胸にしがみつく女帝に呼びかけた。黒い瞳にいっぱいの涙を溜めてこちらを見上げている彼女に。
本物じゃないと否定したこともあった。身勝手な苛立ちをぶつけて傷つけたことも。だが振り返ればいつも彼女が暗い道を照らしてくれたように思う。
「いつか仰っていましたね。俺にもお返しをくださると」
成したことはどれほど時が流れても巡り巡っていつか自分を助けてくれる。アニークがパディに慰めの詩を捧げていたとき述べた言葉だ。あのとき己にも彼女からの返礼が約束された。
「何……?」
聞きたくないと拒むようにアニークは首を振る。実際それは拒絶であったが彼女にしか頼めなかった。騎士という生き方を理解してくれる者にしか。
この人と決めた主君にどこまでもついていく。それだけが騎士であることの証明だ。形ある勲章は望まない。何を失くしても構わない。ずっとルディアに仕え続けられるなら。
「──俺が死んだら俺の死体に脳蟲を入れてもらえますか?」
女帝の頬がひくりと引きつる。アニークは今にも「嫌よ」と叫び出しそうに見えた。彼女の華奢な肩に手をやり、なるべく優しく己から引き剥がしながらアルフレッドは丁重に願い出る。
「……蟲は最初に取りついた宿主の一番強い思いを核にして人格を作る、ですよね? 俺はそれさえ残ればいい。だからお願いできますか」
重い沈黙がサロンを満たした。誰も彼もアルフレッドが何を言っているのかわからないという顔で立ち呆けている。
最初に怒りを表明したのはやはりというかアニークだった。
「そんなの頷けるはずないでしょう!?」
大声で彼女は喚く。そんなに泣いて喉が潰れやしないかと心配になるほどに。
「なんのために私があなたを守ってきたと思っているの!?」
か弱い拳が胸や腕を叩くのを受け止めながらアルフレッドは「すみません」と詫びるしかなかった。せっかく生かそうとしてくれたのに、応えられなくてすみませんと。




