第4章 その3
タルバは一体何を考えているのだろう。どうして急にドナを出る気になったのだろう。打てば響く関係と言えるくらい仲良くなって、彼の人柄をすっかりわかった気になっていたけれど、今はもう以前と同じ自信は持てない。
アクアレイアに向かう間、バジルはずっと不安だった。これからどんな悪いことが起きるのか、自分たちの友情はどうなってしまうのか。
けれど眼下に広がる海が懐かしいエメラルド色を帯び始めると、悩みは全部頭から綺麗に消し飛んでしまった。
「……っ!」
ああ、とバジルは胸熱くする。水盤の上に乗った街、美しきアクアレイアを遠目に映して。
きらきらと波は輝く。冬が迫り、日照の分だけ控えめになっているものの、ドキドキするほどの眩しさで。
砂州の間の海門には少なからぬ船が行き交い、内湾にはゴンドラが横切る姿も見えた。あの風変わりな鉄飾りのある黒い小舟を目にするとバジルの胸にも「本当に帰ってきたんだ」という実感が湧いてくる。
「すごいな。これがアクアレイアか……」
船縁では同じくタルバが海に直接生えたような街を見つめて頬を紅潮させていた。こんな国見たことない、と彼は純粋に感動している風だ。
もしかしたらタルバは真実バジルを故郷に帰したい一心で「女帝に鏡を献上したい」なんて言い出したのかもしれない。祖国の情景を眼前にすると明るい希望が満ちてくる。
(いや、本当にそうかもな。僕も長いこと帰りたい帰りたいって喚いてたし、家族の話なんかもしてたし、タルバさんだって延命のお礼だとはちょっと言い出しにくかっただけで)
近づく宮殿や神殿、大鐘楼や税関岬を前にしてバジルは心弾ませる。視界に見慣れた建物があるだけでこれほど浮かれ心地になると思わなかった。
今度の帰還で会うのは難しいだろうが、街には愛するモモもいるのだ。彼女と同じ空気を吸っていると考えるだけで幸せだった。
「よし、行くか。えっと、レーギア宮だっけ? ああ、そうだ、鏡もちゃんと持ってかねえと」
帆船が商港に入るとタルバはさっそく行動を開始した。ジーアン人が降りてきて目玉を剥く役人に荷の内容と来訪理由を申告し、バジルもアクアレイアの地に降り立つ。
一年何ヶ月ぶりだろうか。あまりにもご無沙汰すぎて大運河で辻ゴンドラを捕まえるのにも挙動不審になってしまう。それでもバジルが手を振れば小舟はすぐに寄ってきて、バジルたちを税関岬から対岸の国民広場に移してくれた。
(──あれ? アンディーン神殿の鉄柱が出てる)
と、突っ切ろうとした広場で見つけた黒にバジルは我知らず息を飲む。今は誰の刑罰も実行中ではないようだが、鈍い光を反射する二本の柱はどう見ても重罪人を吊るすためのものだった。
「バジル? どうした?」
足を止めたこちらに気づき、タルバが肩越しに振り返る。「あ、いえ」と首を振ってバジルは無理やり歩を速めた。
今のは一体なんだろう。ひょっとして囚われの身だという騎士と関係あるのだろうか。
ざわつく胸にかかったもやを散らすように目を逸らす。ここまで来れば宮殿はもうすぐだ。各自大小の鏡を脇にバジルたちは門へと急いだ。
******
珍しいこともあるもので、今日はアニークがペンにもインクにも触らない。詩を作るようになって以来、彼女は毎日飽きもせず亜麻紙に何やら書きつけているのに。詩人に送る便箋を吟味するでもなく、空中に騎士やら姫を幻視して百面相するでもなく、女帝はただ静かに本のページを捲っている。
「詩作はなさらないのですか?」
気になってアルフレッドが尋ねるとアニークは読みかけの騎士物語から顔を上げて頷いた。彼女曰く、今日明日あたり来客があるそうで、筆が乗っているときに手を止めるのが嫌だから読書しながら待つということである。
「えっ? 来客?」
アルフレッドは驚いて問い返した。するとすぐに詳しい説明がなされる。
「そう。ドナからね、退役兵でガラス工房に弟子入りした子がいるんだけど、その子が私に献上品を持ってきてくれるんですって」
それはこのサロンに来るということだろうか。囚人が同席するのはまずいのではとソファから腰を浮かせる。だがアニークのほうは意に介した様子もなく「早かったらそろそろかしらね?」などと壁掛け時計を見やっていた。
「……あの、別室で接見なさるんですよね?」
おそるおそる問いかける。しかし女帝はきょとんと瞬くばかりだった。
「ウァーリもダレエンもこの部屋にいればいいと言っていたわよ?」
頭の痛くなる返答だ。退役兵ということはジーアンの蟲なのは間違いないし気にしなくていいのかな、と少し悩む。
聞けば客人が来訪するのは「技術者を増やしてほしい」という嘆願のためだという。新技術で生み出した水銀鏡なるものを見せてくれるのだと告げられ、ますます自分が場違いでないか気になった。サロンの客としているならいいが、今の己は獄中にあるべき犯罪者なのだから。
「俺がいたらおかしな話になりませんか?」
一応突っ込んで尋ねてみる。が、その直後コンコンとノック音が響いた。
「アニーク陛下、タルバが到着しました」
「ああ、もう来たの。入れていいわよ」
わずかに開いた扉から顔を覗かせた衛兵にアニークが入室の許可を与える。次の瞬間アルフレッドは驚愕とともに立ち上がった。
「バ、バジル!?」
「えっ!? あっ!? アルフレッドさん!?」
ダレエンとウァーリ、遊牧民の立襟装束を着た青年に続いてサロンに現れたのは、紛うことなき防衛隊の少年弓兵バジル・グリーンウッドだった。捕虜としてドナに住んでいることは知っていたが、まさかこのレーギア宮で再会するとは思ってもみなかった。ジーアン風の衣装に身を包んではいるものの、以前より背も伸びて、健康そうでほっとする。
「あら、知り合い?」
と、アニークが尋ねてくる。「あ、防衛隊の隊員なんです。ええと、二年ほど前にジーアン軍にバオゾに連れて行かれてからずっと会えていなかったんですが」とかいつまんで説明すると彼女は「ふうん?」と頷いた。
「もしかしてレースガラスを作ってくれていた奥宮の職人かしら? あなたの部下だったのね、アルフレッド」
女帝は朗らかにバジルにおいでおいでする。しかし宮廷での勝手がわからず弓兵はその場に硬直してしまい、結果ウァーリとダレエンがアニークの両隣を占領することとなった。
「まあまあ、まずはその子とタルバに献上品を見せてもらいましょうよ」
「楽しみだ。解説は俺にもわかるように頼むぞ」
二人が女帝と同じソファに腰かけるとは珍しい。なんだか守りを固めるような位置取りですらある。
「それもそうね。じゃあタルバ、お願いするわ」
タルバと呼ばれた背の高い三白眼の青年は「お久しぶりです」とアニークに会釈してまずは近況報告を始めた。天帝宮の衛兵を辞めてドナへ赴き、そこでバジルの弟子になったという話を聞いてアルフレッドは目を瞠る。
座り直した自席から弓兵を見上げればバジルは少々照れくさそうにこめかみを掻いた。初弟子を取る喜びは職人にとって無上のものだと言うけれど、彼も例外ではなさそうだ。
「へえ? アクアレイア人とジーアン人なのに、随分仲良さそうじゃない?」
口紅をたっぷり引いた唇に妖しげな笑みを浮かべてウァーリが言う。続いて彼女に自己紹介を命じられたバジルが改めてジーアン語で名を名乗った。
「ぼ、僕はバジル・グリーンウッドと申します。アルフレッドさんが隊長職を務めていらした防衛隊の弓兵で、今はドナで、砦に工芸品を納めるガラス工をしています。今日はその、女帝陛下に僕らの作った水銀鏡をご覧に入れたいと思いまして、海を越えてレーギア宮までやって来た次第です」
モモからは遠回しに「ドナでは全部上手く行った」としか聞けなかったのでこういう形で情報を得られるのはありがたい。とはいえ今読み取れるのは弓兵が元気に生きているという事実だけだが。
(このタルバという退役兵にはどっちの蟲が入っているんだろう? 師弟なら中身がジーアン人のままでも味方寄りではあるのかな?)
帝国の青年ガラス工はバジルの隣に半歩下がり、バジルが持つより重そうな献上品を携えている。彼が弓兵を師と仰いでいることは態度で十分伝わった。
接合済みの脳蟲なのか、そうでないジーアンの蟲なのか、アルフレッドには判別できそうもない。しかし彼がドナに移った当初からバジルと行動をともにしているということは、純粋なジーアン人なのかなという気がした。
接合は両者に記憶を共有させる。となればジーアンの蟲は肉体に戻せない。バジルなら弟子の中身を取り替えるなんてとんでもないと言いそうだ。それに中身が別人なら、弟子の紹介ももっと曖昧に濁したのではないかと思えた。
「ねえ、早くその水銀鏡っていうのを見せて。レースガラスとどっちが素敵か知りたいわ」
「は、はい。ただいま!」
アニークの声に急かされてバジルとタルバは献上品を包んでいた布を取る。現れたのは美しい細工の施された手鏡と、同じく細かな飾り縁のついた大きな姿見だった。
「わあ……! 水銀鏡ってこんなにはっきり映るものなの!?」
歓声が室内に満ちる。予想以上に周囲の景色や人物を鮮やかに映し出す鏡に対し、女帝だけでなくウァーリやダレエンも驚きを隠せぬ様子だ。バジルから差し出された手鏡を奪い合うように楽しむと彼らは「なるほど」「これは工房の増員を考えて当然ね」と合点した。
「どうでしょう? ドナに五人か十人か、アクアレイアのガラス職人を呼んで技術指導をしても構わないでしょうか?」
アルフレッドの存在をいくらか気にする素振りを見せつつタルバがアニークに問いかける。彼からすれば「なんだこいつは」という警戒対象なのだろう。女帝の部屋でごく軽装のアクアレイア人が寛いでいるのだから仕方ない。
「そうね、私はいいと思うけど。あなたたち二人はどう? そもそもこれって私に決定権のあることかしら?」
話を振られたダレエンとウァーリが互いに目を見合わせる。先に答えたのはウァーリのほうだ。「ま、いいんじゃない? 後で龍爺にも聞かなきゃだけど、今はその方向で」と彼女はにこやかに微笑んだ。そうしてなんだか奇妙な間を置き、ウァーリがタルバに問い直す。
「技術者ってガラス工なら誰だっていいのよね?」
「ああ、人選も任せるよ。若くても年寄りでもなんでもいい」
「うんうん、こっちで決めちゃっていいわけね」
返答に彼女はほっとしたように見えた。「?」とアルフレッドは違和感に首を傾げる。だがその正体は最後まで掴めないままだった。
「ねえねえ、ところであなた防衛隊の人なのよね? 良ければ書見台の椅子をこっちまで持ってきてお喋りしない? アルフレッドの気晴らしになると思うから!」
明るい笑顔を綻ばせ、アニークがそう催促するのでその後は謁見というよりも歓談の流れになる。命じられるまま小椅子を運んで隣にやって来たバジルに「アルフレッドさん! お元気そうで良かった!」と半泣きで抱きつかれ、久々に胸が温まる心地がした。
「俺も無事な姿を見られて良かった。なかなか迎えに行けずにすまない」
「いえいえそんな!」
詫びればバジルは顔を上げ、ぶんぶん首を横に振る。ダレエンやウァーリの目があって重要な話は一切できなかったけれど、今どんな暮らしをしているか語り合うのはほっとするひとときだった。
話の弾みでアニークが「アンディーン像が戻ってくればアルフレッドも外に出られるの」と教えたこともバジルを安心させたらしい。「そうなんですね! 良かったですね! モモも喜んでますね!」としきりに手を握られる。そんなバジルの隣ではタルバがこちらのやり取りにじっと耳を傾けていた。
「そっか。あんたあの子の兄貴なのか」
どうやらバジルは好きな女性の話まで彼に打ち明けているらしい。ぽそりと呟かれた言葉が深く印象に残った。
印刷機や騎士物語続編の話でもひとしきり盛り上がり、結局二人がサロンを去ったのは夕方六時の鐘が響く頃だった。バジルたちは明朝ドナに戻るそうで、今夜は中庭の幕屋に一泊させてもらうとのことである。
「おやすみなさい、アルフレッドさん! きっとまた元気で会いましょうね! モモや皆とも一緒に!」
再三に渡る握手の末にバジルはタルバに腕を引かれて退出した。ウァーリも同じタイミングで席を立つ。どうやら彼女は二人を寝床に案内してやるらしい。
そろそろアニークも囚人と別れて君主の私室に戻る時間だ。アルフレッドは女帝を見送るためにソファから立ち上がった。ダレエンもアニークに付き添うべく身を起こす。だが今日の彼女はまだ部屋を離れようとしなかった。
「ねえ、良かったわねえ。あなたの部下がこんな素晴らしい鏡を作ってくれるなんて!」
熱に浮かされたような調子でアニークが語りかけてくる。「この水銀鏡は絶対に防衛隊の名誉回復に使えるわよ!」と。
「私、バジル・グリーンウッドの名前を大々的に宣伝するわ! 鏡を大量購入すればアクアレイアのためにもなるし、任せてちょうだい!」
ソファに腰かけたまま女帝は力強く拳を握る。しばらく反応に迷ったのち、アルフレッドはこの事態が防衛隊の不始末ではなく己個人の不始末に収束するならそれでいいかと息をついた。
「……ありがとうございます。ほかの皆が悪者にならずに済むようにお気遣いいただいて」
裁かれるべきは己のみだという響きをどこかに感じたのだろう。アニークは一瞬喉を詰まらせると「あなたねえ……」と思いきり眉をしかめる。
「あなただってこんな目に遭わなくちゃいけないほど悪いことをしたわけじゃないでしょう?」
頷けるはずがなく、アルフレッドは首を振った。
「したことの責任は取らなければと思っています」
今日も誰も座らなかった左隣に目をやって告げる。
どう足掻いても清廉潔白にはなれない。何が償いになるのかまだわからないままだけれど、あの酒杯を忘れる卑怯は許せなかった。
極刑を言い渡されるだけの罪は、やはり犯したのだと思う。生きる選択肢を与えられ、今も己は戸惑っている。どうしてもそれが正しいとは思えなくて。
「アルフレッド」
呼びかけられてアルフレッドは顔を上げた。気づけば側にダレエンが立っていて、真剣な表情でこちらをじっと見つめている。
「恩というのは巡り巡ってくるものだ。お前を助けようとする誰かがいるのはお前が誰かを助けてきたからにほかならない。だからそんなに思いつめた顔をするな」
優しい言葉に我知らず苦笑した。厚意には痛み入るけれど、今この胸にある後ろ暗さはきっと一生忘れてはならないものだ。
「お前がいなければ俺もウァーリもハイランバオスに殺されていた。取引上の人質として預かってはいるが、俺の裁量の許す限り守ってやろうと考えている。だからもう少し前を向け」
ぽんと肩を叩かれる。アニークも「そうよ、そうよ」と同意を示した。
「私たちにとって恩人って特別なんだから。あなたには長生きしてもらわないと困るわ」
こちらの考えを読んだというより最悪の可能性を考えたくないという口ぶりで彼女はアルフレッドの内にあるものを否定する。ダレエンもまた親愛を隠すことなく激励を続けた。
「俺たちがお前の首に刃を突き立てることがあるとすれば、ハイランバオスやアークのことでお前の主君が嘘をついていたときだけだ。減刑にぴいぴい喚く輩がいるならいくらでも黙らせてやる。わかったな?」
それだけ言うとダレエンはアニークの手を取って部屋を出ていく。去り際に「読むなら気分の明るくなる本を読むのよ!」「というかお前はちゃんと寝ろ」と諭されてまた少し苦笑いが出た。
(前を向け、か……)
生きることに疑問を持たずに生きられる日など来るのだろうか。
アルフレッドは息をつき、静かにソファに座り直す。
見渡せば室内は随分と暗く翳っていた。テーブルに置きっぱなしの手鏡には重苦しげな男の顔が映っていた。




