第4章 その2
ガタンと椅子が倒れるようなけたたましい音がして、思わずぴたりと動きを止める。間を置かず響いたのは「嘘つけよ! あいつの裁判止めてんのあんただろ!?」というレドリーのがなり声だった。
「……はあ」
うんざりしながらモモは後方を振り返り、隣室に続く扉の施錠を確かめる。今日もまたあの従兄は荒れ狂っているようだ。十人委員会がいつまで経ってもアルフレッドを裁判にかけられないのはアニークが止めているせいなのだが、彼はどうしてもブラッドリーの贔屓ということにしたいらしい。そういう理由にしておけば日頃の鬱憤を好きなだけぶつけられるからだろう。荒む気持ちはわからないではないけれど、どうしようもない雑魚である。
「ほんとクソ……」
「モモ、しっ!」
ぼそりと本音を零したら次兄に指を立てられた。うっかり隣室に聞こえたらどうするのだとアンブローズはびくびくしている。レドリーに吠えられた程度で縮こまってしまうのだから、こっちも残念な小魚だ。
(まあアン兄が気にするのは仕方ないか。機嫌損ねて追い出されたらモモたち行くとこなくなっちゃうし)
やれやれとドアを離れつつ肩をすくめる。
ハートフィールド一家に一時の居室としてあてがわれた客間では母ローズが無言でソファにかけていた。いたずらにレドリーを刺激しないようにとは母も気をつけているのだろう。長い足を組み、スカートの裾までぴたりと静止させ、完全な沈黙を保っている。
そうこうするうちに隣室の口論が途切れた。レドリーが海軍の集まりに赴く時刻になったらしい。感情が乱れると自分のことしか見えなくなる性格のよく表れた足音が玄関に向かって遠くなっていく。
「……ふう、もう平気かな」
屋敷の中から従兄の気配がなくなると部屋の真ん中で石像のごとく固まっていた次兄が全身の力を抜いた。アンブローズは母の隣にくたびれきった様子で腰を落ち着ける。モモも二人の座したソファに寄り、ローテーブルのすぐ横に置かれた小椅子に腰かけた。
「そろそろここを出たときのことを考えないといけなさそうね」
と、ぽつりと母が言う。いつも言葉の重い人だが今日は殊更重々しく。
ずっとウォード家の世話になるわけにはいかない。それはモモにもわかっていた。レドリーがあの調子ではブラッドリーとてそのうち抑えられなくなる。今はほかの従弟たちもこちらを守ってくれているが、できれば暴力沙汰になる前に物理的距離を取ったほうが良さそうだった。
「薬局は畳まなきゃだよなあ」
丹精込めて手入れしていた薬草園を思ってか次兄が暗く目を伏せる。確かにアルフレッドが減刑されても家業の再開は厳しいな、とモモも唇を尖らせた。薬品関係は需要があるから客が一人も来ないことはなかろうが、海軍に傷薬の納品を続けるのはもはや絶望的である。暴徒に荒らされた店の品も戻ってくるとは思えない。
「そもそもこのままアクアレイアに留まれるかわからないものね」
母はごく冷静に告げる。「出て行くならどこがいい?」と続いた問いが現実を突きつけた。
「ど、どこがって……」
アンブローズは赤とピンクの中間色の毛髪に手をやって震える。この色じゃ古王国やマルゴーへは移れないよと言外に訴える次兄を見やってモモはしばし黙考した。
己も一緒にアクアレイアを出なければと言われると困る。防衛隊が委員会の密命を受けることはもうなかろうが、ジーアン乗っ取りが済むまではルディアの力になろうとは決めているのだ。アンバーやバジルもまだ自由の身ではないわけだし、中途半端に放り出せない。引っ越すならば仲間と連携できる場所に引っ越さなければ。
「……モモはドナかな。こないだ行ってきた感じだと住み心地もそんなに悪くなさそうだったし」
「ドナ?」
母と次兄は意外そうにこちらを見つめる。頷いて「探せば仕事もあるんじゃないかな?」と続ければ二人は対岸の自由都市について真面目に検討し始めたようだった。
「ド、ドナってジーアンの退役兵がうろうろしてるんだろ? 怖いところなんじゃないの?」
「砦に寄らなきゃ全然平気。バジルが住めてるくらいだもん」
「あ、そっか。ドナってバジル君がいるんだっけ」
「彼はなんのお仕事を?」
「弟子取ってガラス工房やってるよ。アン兄もあそこの雑用だったら手伝えると思うなあ」
「そ、そうなんだ。バジル君、自分の工房持ててるんだ」
先人がいてくれるならと拳を握り、アンブローズは勇気を奮い立たせている。アクアレイアの脳蟲が中枢にいるあの街でなら、己も家族二人くらいなんとか守ってやれるだろう。
(薬局は無理かもだけど、計算も代書もできるし生活していけるよね?)
これからの暮らしを思い、小さくない溜め息をつく。まったく余計な苦労をさせてと脳裏に浮かべた長兄に渾身の手刀を食らわせた。
本当に憎らしいのは馬鹿な兄でも雑魚すぎる従兄でもなく、何もかも承知でやったとしか思えない白銀の騎士であったが。
(アル兄から全部取り上げるつもりじゃなきゃ、あんな死に方しないよね)
執念深さに恐れ入る。死んだからには彼ももう何もできはしないだろうが。
「ねえ、モモ、ドナって一般庶民は今どんな風に暮らしてるの?」
ドナについてあれこれ質問を受けながら、モモは「とにかくこれ以上まずい問題が発生しませんように」と祈った。
ここ最近どうも嫌な胸騒ぎがして落ち着かない。海軍やレドリーに目立った動きは見られないし、パーキンの新聞だって事件を煽りはしていないのに。
(聖像が手に入ったかわかんないからこんなにソワソワするのかなあ?)
早く皆がアクアレイアに戻るといい。アルフレッドが釈放されたらいつもの面々で集まって、お疲れ会でも開きたい。
希望はそこに見えているのだ。あともう少しで届くところに。
******
こんなにあっさりアクアレイアへの渡航許可が下りるとは考えていなかった。まずは今、誰があの街に滞在中かわかれば十分と思っていたのに。
西へと進む船の上でタルバはどうしたものか悩む。まだこれからどんな形で動いていくか、どうすれば事を穏便に済ませられるか、考えはまとまりきっていなかった。
寿命を延ばす方法があるらしいこと。それをジーアン上層部に伝える決意は変わっていない。しかし「誰に」明かすかは熟慮が必要な問題だ。
ラオタオには打ち明ける気になれなかった。あれは気性が残酷だし、バジルに何をするかわからない。アクアレイアに到着したら接見予定のアニークにも下手に詳細を知らせたくなかった。あの娘は数年前に初めて器を得たところで判断力が育っているとは思えない節がある。それに話せばすぐ天帝に筒抜けになりそうだった。
明かすならある程度の地位があり、確実にタルバの事情を汲んでくれる者でなければ。万が一のときバジルを守ってやれるように。
(つっても熊さんは今バオゾにいるんだよな……)
眉間に濃いしわを刻んでも穏やかさを隠しきれない男の顔を思い浮かべた。ジーアン十将の最重鎮、通称「大熊」はタルバにとって七代前の親に当たる。人格者の彼に相談できればなんとか恩人を保護できるのではと思うのだが。
(結局まだアクアレイアに誰がいるかもわかんねえままだしな)
タルバは重く嘆息する。その仕草が少々大きすぎたせいか、帆船の水夫たちがびくりと一斉に肩をすくめた。
(おっと、ビビらせちまったか?)
機嫌が悪いわけではないと示すべく、ごほんと一つ咳払いする。しかし海を見渡す甲板の緊張はそんなことでは解けてくれず、困ったなとひとりごちた。バジルの故郷の人間に無礼をする気はないのだが、ジーアン人を乗せているというだけで彼らは構えてしまうようだ。
「タルバさん、どうしました? 船酔いですか?」
と、隣のバジルがこちらを見上げる。どうも彼は慣れぬ船旅でタルバが具合を悪くしたのではと案じてくれたものらしい。ろくに話もしないまま海の上に連れ出され、彼のほうがよほど青い顔をしているくせに。
「や、別に船酔いってわけじゃ……」
ない、と首を振ろうとしてタルバは「いや、これ船酔いかも」と言い直した。どこかの部屋で横になっていたほうが周りの者もこちらを気にしなくていいかと思ったのだ。
「休んだほうがいいですよ」
ハンモックを使っていいか聞いてきます、とバジルが船縁を離れる。いい奴だなと思うと同時、罪悪感がちくりと小さく胸を刺した。タルバの真の目的を知ったら彼はどんな顔をするだろう。
(いや、まあ、アクアレイアにファンスウの部下しかいなかったら何も言わずにドナに引き返すことになると思うけど……)
古龍も甘いのは身内までである。バジルのことは話せない。話せるとしたら己に近い、古い記憶を同じくする「親」の系譜にだけだろう。
(許してくれよ。お前のことは絶対傷つけさせないから……)
揺れる甲板で薄灰色の空を見上げる。
アクアレイアまで長い一日になりそうだった。
******
吐く気になったか、と問う。しかし男は縦にも横にも首を振らない。言葉の代わりに血を流し、人形のように横たわり、解放されるときをただ待っているだけのように見える。
実際それはそうだったろう。ファンスウから「鷹の中身」の尋問を任されたダレエンがいくら彼らを痛めつけても反応に変わりはなかった。手を変え品を変え使えなくなった器を変え、なぜラオタオに飼われていたのか、元々そこに入っていたジーアンの蟲はどこへ行ったのか、何度も問いかけてみた。鞭打ちや爪剥ぎが効かぬならウァーリに手厚く介抱させて懐柔を試みようとも。
しかし彼らは何も吐かない。十匹も捕らえた中の一匹もだ。一つだけ彼らが揃って口にしたのは「喋ればもっと恐ろしい目に遭わされる」のひと言。狐はよほど上手く彼らを躾けたらしい。どんなに肉体をいたぶられても「本体」が殺されることはないと脳蟲たちは理解していて、要するに尋問も拷問も互いの徒労に終わるのみだった。
「ちっ……また動かなくなった」
失血しすぎたらしい男の頭を水桶に突っ込み、ダレエンは片膝をついていた石床から立ち上がる。アルフレッドがサロンに移り、空きが出た半地下牢には動物と人間の死骸がいくつも転がっていた。
ここのいいところは潮が満ちれば勝手に血が洗われてくれるところだな、と息をつく。耳の穴から這い出してきた脳蟲を瓶に回収し、ひとまずダレエンは牢獄を後にした。
意外に手こずらされるものだ。ラオタオ造反の証拠が出たとわかったときはハイランバオスやアークのこともすぐに判明するだろうと喜んだのに。普通の人間相手なら間違いなく必要な情報収集は済んでいる。脳蟲にものを聞くのがまさかこれほど面倒だとは。
(十匹全員が同じ情報を持っているなら何匹か殺してみせてもいいんだが)
監獄塔の螺旋階段を上りつつ今日何度目かの舌打ちをする。アクアレイアが絡むと酷くやりにくい。今までは簡単に通じていた手が彼らには通じないのである。こちらの正体が知られているのも状況の悪さに拍車をかけていた。
進んでいるはずの話が進んでいると思えない。ファンスウがコリフォ島からハイランバオスを連れ帰ればさすがに前進を感じられると思うけれど。
(気になるのはラオタオ本体が行方不明という話だな)
先日ドナから秘密裏に届いた一報。事故による消失の可能性もあるが、まだ断定はできないとファンスウは言っていた。全容が掴めるまでこちらも油断はしないほうが良さそうだ。
「あっ、ダレエン」
慌ただしくウァーリが声をかけてきたのはレーギア宮の中庭まで戻ってきたときだった。
「ちょうど良かった。今探しに行くとこだったのよ」
そう腕を引かれ、いつも会議に使っている大きな幕屋に連れ込まれる。
「何かあったか?」
「手紙が来たの。またドナから」
ほら、と渡された書簡には愉快なほど汚らしい字で記された預言者の聖名。どう見てもウェイシャンの筆跡だ。一体なんだと思ったら「近く女帝に貢物をするために、タルバとバジル・グリーンウッドの二名が向かいます。よろしくお願いします」とある。
「?? なんだこれは?」
詳しい説明を求めるとウァーリは渋面で肩をすくめた。曰く、どうも駄犬が判断に困ってやらかしたかもとのことである。
「今ドナってごたついてるじゃない? 退役兵が砦を占拠するわ、ラオタオの本体までなくなるわ、あの子一人でどうすればいいかわかんなくなって途方に暮れてるみたいなの。そこでタルバにアクアレイア行きを頼まれたみたいで」
「ああ、なるほど。頭がボンと破裂して俺たちに投げてきたというわけか」
ウァーリはやや疲れ気味に「龍爺が寄ってくれたからゴジャたちも大人しくなったと思ったのにねえ」とぼやく。貢物は何かと問えば「水銀鏡ですって」と返された。
「水銀鏡?」
初めて聞く名前にぱちくり瞬きする。ウァーリにもどんな品かは不明らしく、それ以上は語られなかった。彼女としてはわざわざ今のあのドナから、退役兵が防衛隊の男を伴って訪ねてくるということのほうがよほど気にかかるようである。「何もないとは思うけど一応気をつけておきましょ」と囁かれた。
「女帝陛下に会いたい理由、どうもドナに技術者を増やしたいからみたいなの」
「ふむ?」
「なんかさ、前にラオタオがやたら小間使いを増やしたがってたこと思い出しちゃって。あれも結局なんだったのかうやむやのままだし」
「ああ、脳蟲で実験するとか言っていたやつか。まあ実行に移す前に退役兵に襲われたんじゃないのか」
「タルバはラオタオやハイランバオスとつるむタイプに思えないし、何か裏があるかもなんて疑うの失礼よねとも思うんだけど……」
はあ、とウァーリが肩を落とす。仲間の誰かを怪しまなければならぬ現状に彼女は明らかに疲弊していた。
ハイランバオス一人でも耐えがたいところ、ラオタオも黒らしいと判明し、しかもドナでは彼らの協力者がいるのではと思える状況が続いている。優しい性分のウァーリでは病むなと言うほうが無理だろう。
ダレエンとしても最近の流れにはうんざりだった。敵なら敵、味方なら味方と札でもつけていてほしい。せめて思い切って殺せるように。
「で、タルバが来るのはいつなんだ?」
「明日か明後日じゃない? 手紙の届いたタイミングから考えて」
「わかった。そのときは俺も一緒にいよう」
先程の尋問で乱れた着衣を整えつつ腰に結わえたナイフの握りを確かめる。ジーアンの蟲たちは、程度の差はあれ結局皆仲間への情を捨て切れない。仮に刃を抜けるとしたらおそらく自分だけだろう。
ハイランバオスは北の地でダレエンを殺そうとした。遥か昔、最初に彼から分裂した「子」であるこの自分をだ。今ここに己が生きて立っているのは偶然あの場にアルフレッドが居合わせたからにほかならない。
あれは躊躇なく誰にでも手をかけられる男だ。彼だけでなくラオタオも。
獣脳で良かったと己の運命に感謝した。「親」に振り回されるほど記憶に支配されていたら、牙を折られていたかもしれない。
群れに仇なす裏切り者は必ず排除しなければ。
心しておこう。誰が彼らの仲間でも刃を振り下ろせるように。




