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第4章 その1

 物語というのは不思議だ。そこに書かれた文章はなんら変わっていないのに、時の経過で、読み手の置かれた状況で、まったく印象を変えてしまう。今までなんとも思わずに読み飛ばしていた一文が唐突に深い意味を持ち始める。心の奥へと踏み込んで、癒えない傷を(うず)かせるほど深い意味を。


「──……」


 静かに長い息を吐き、アルフレッドは膝に広げた騎士物語から目を上げた。固まりかけていた肩の筋肉を回しほぐす。向かいのソファでは女帝が書き物の最中なので動作はなるべく控えめに。

 特別やるほどのこともなく、サロンに移ってからはずっと本を読むか新聞を読むかの二択だった。あるいは読書のふりをして終わりのない沈思に耽るか。

 皮肉なことに自己反省の時間だけは山ほどある。やり直したい瞬間は二度と巡ってはこないのに。

 記憶は風化するという。だが今は少しもそんな気はしなかった。受け止めた剣の重みも、呪いじみた声の響きも、いつまでも生々しい。

 息を詰め、アルフレッドは再び視線をページに戻した。

 左隣はずっと空席のままである。あれから誰が座るでもなく、酷く空虚な穴として存在している。

 わからなかった。考えても、考えても。

 納得いく答えを見つけたからといって何か取り戻せるわけではない。だからもう、主君や部隊やアクアレイアのこれからを考えたほうがいいと思うのに、気がつけばまたあの黄昏の塔に引き戻されている。

 何を間違えたのだろう。自分の何がああまで彼を激昂させ、身を投げるほど嘆かせたのだろう。


 ──私のことはどうなるんだ?


 同じ問いを何度も何度も繰り返す。

 答える相手を喪った問いを。


「どうしたの? アルフレッド」


 と、不意に正面で声が響いた。書物を繰る手を長く止めすぎていたせいか、顔を上げるとアニークの心配そうな目と目が合う。


「いえ、なんでもありません。ちょっと疲れただけですよ。ここ最近目を酷使しているので」


 咄嗟の言い訳に彼女は一応納得してくれたようだ。しかし放っておく気にはなれなかったらしく「じゃあ休憩がてらお喋りしない?」と持ちかけられる。


「どのあたりを読んでいたの?」

「プリンセス・オプリガーティオとサー・セドクティオの章です」


 問われてアルフレッドは目に入った人物名を拾い上げた。章ごとに来訪先の変わるパトリア騎士物語では誰の登場する回か説明するのがわかりやすい。が、病弱ながら賢明なプリンセス・オプリガーティオと、軽薄ながら意外に一途なサー・セドクティオに関しては人気が高く独立した章がいくつかあるためもう少し具体的に補足しなければならなかった。

 ここでは二人が緊迫の中、忠誠と情愛について各々の立場から語っている。オプリガーティオは小国の主として、セドクティオは主に恋する男として。


「第三部の山場ですね。遠国の姫と王子が駆け落ちに失敗したという報告に、珍しく騎士が取り乱して帰ってくる……」

「ああ、あそこ」


 アニークは「好きな章だし何百回と読んだわ」と得意げだ。特にお気に入りだというセドクティオの独白は一言一句違わず暗唱できるという。

 二人きりではどうしても静かになりがちなサロンを活気づけるためだろう。頼みもしないのに彼女は高く腕を掲げ、情感たっぷりに一人朗読劇を始めた。なんの悪意も他意もなく。


「『ずっと、ずっと、あなたをお慕いしておりました。そう言えればどんなにかこの胸が楽になるかわからない。それなのにあなたは私に杯の酒を漏らすなと仰せなのですね。ああ、あなたへの愛が憎しみに変わりそうです! どうして一番側にいる私に一番酷いことをなさるのです? 我が姫よ!』」


「こんな感じ?」とにこやかに笑いかけられてアルフレッドは息を飲んだ。

 張られた声の大きさに圧倒されたわけではない。普段ならアニークの達者な芝居に拍手すら送っていたことだろう。だがまさに読むのを中断したきっかけの台詞をぽんとぶつけられ、動じぬわけにいかなかった。

 杯の酒。飲み干したくせにと白銀の騎士が責める。

 あれは確かに誓いであった。決して互いを裏切らぬという。


「ここ、いつも余裕たっぷりでちっとも本心を見せないサー・セドクティオがどんなに深くオプリガーティオを想っているかわかって胸を打たれるわよね。私もこの台詞は何度かユリシーズに読み上げてもらって──」


 そこまで言ってハッとアニークが口を閉じた。「ご、ごめんなさい」と慌てて詫びられてアルフレッドはしばしその場に硬直する。


「……いえ、大丈夫です」


 なんとかそう返事して表面を取り繕った。しばらく耳にしなかった彼の名にどきりと跳ねた心臓を宥めて。


「ま、まあとにかく、名場面よね! うん、うん」


 焦った様子でアニークは強引に話題を戻す。別に気にしなくてもいいのに、失態を誤魔化すように口の滑るまま彼女は早口で喋り続けた。


「それにしてもこう、なんていうか、オプリガーティオもなかなか無慈悲な女よねえ? この章を読んでいると私、どうしてもセドクティオの肩を持ちたくなっちゃうわ」


 思いもよらないひと言が飛び出したのはそのときだ。えっとアルフレッドは瞠目した。敬愛の対象である小国の姫にあんまりな評価を下されて。

 オプリガーティオが無慈悲? 不治の病に喘いでも民のため、領地のために力を尽くす彼女のどこが? 正直にそう思った。

 全登場人物中、最も己を削っているのがプリンセス・オプリガーティオだ。褒められこそすれ(けな)される点があるとは思えない。それに彼女は彼女の騎士を誰よりも認めている。サー・セドクティオは有能だが、同時に不遜とも言える男なのに。

 ぱちくり瞬くこちらを置いてアニークは自分用のパトリア騎士物語を開く。該当箇所を見つけると女帝は「やっぱりねえ」と深く嘆息した。


「この姫わかっていてやっているでしょう、セドクティオのつらい心を……! 気づかないふりを続けるなんて卑怯じゃない? セドクティオは彼女のために頑張っているんだから、口づけの一つもしてあげればいいのに!」

「ええっ!?」


 当惑はついに声に出る。さすがにそれは主従の一線を越える行為だ。人目につけばただではすまない。事によってはセドクティオがオプリガーティオから引き離される可能性もある。


「確かに俺も彼女のこれは見て見ぬふりと思いますが、オプリガーティオには騎士としての彼が必要なのだから仕方ないのではないですか?」


 病気で動けぬ王女にとって唯一の手足となるのがセドクティオだ。道ならぬ恋に溺れて四肢を失えば彼女は国を守れなくなる。そこはセドクティオが主君のため、私情を滅して耐えるべきところではと思わざるを得なかった。

 だがアニークは、アルフレッドとはまったく別の見解を示す。


「セドクティオが騎士であることに誇りを持っているならそれでもいいわよ。だけど彼ってオプリガーティオを愛しているだけじゃない? 騎士でいるしか側にいる術がないからそうしているのよ。なのにオプリガーティオは恋なんて諦めてただ忠実であれって言うんですもの! そんなのあんまりにもあんまりだわ!」


 女帝はオプリガーティオがセドクティオの愛情を軽視しすぎだと憤慨する。騎士道なんて本当はどうだっていい人間に役目ばかり押しつけて、申し訳なく感じないのかと。


「────」


 アルフレッドは再び目を見開いた。今何か、無関係だと思っていた点と点が突然繋がった気がして。

 それが一体なんなのか最初はよくわからなかった。わからなかったがとても大切なことに思えた。

 騎士である自分に誇りを持っているから騎士をしているのではない。騎士でいるしか術がないからそうしている──。言われてみれば納得のセドクティオ解釈がなぜなのか胸に重く響く。


「……で、ですがそれでも口づけというのは無理があるのではないですか? 不仲な主従ではないとは言え、オプリガーティオに恋愛感情はないでしょう。噂が立てば誰のためにもなりませんし、好きでもない相手にそんな、よほどのことがなかったらできませんよ」


 アルフレッドは思考に半分気を取られたままそう言った。褒賞を不埒な形で与えるのはいかがなものかと顔をしかめれば女帝はもごもご口ごもる。


「まあそれはそうだけど、オプリガーティオもセドクティオを嫌いでないなら一度くらい……」


 薄っすらと期待のこもった目と目が合ってアルフレッドは思わず斜めに顔を逸らした。急に恋慕が燃えている様を見せられて狼狽する。彼女の「核」たる情熱が薄らぐことが決してないのは知っていたはずなのだが。


「いや、ですが、親しみや感謝の念をそういったものと混同するのは良くないかと……」


 (いさ)めたつもりの言葉だったのに響きは酷く言い訳がましい。アニークがすぐ「そうね、あなたの言う通りね」と聞き分けてくれなければもっと無様に喉を詰まらせていたかもしれなかった。


「……だけどオプリガーティオは病身で、いつ死んでもおかしくなかったわけでしょう? セドクティオはその前に、ほんのわずかでも自分が愛されていたことを知りたかったのではないかしら……」


 ぽつりと頼りなげな呟きが落ちる。言われて振り返ってみれば、かの騎士は求めても求めても望むものを得られない気の毒な男だった。

 セドクティオは嘆く。あなたは私を何もわかってくださらないと。以前このエピソードに触れたときは、ずっと私の騎士でいてと望まれる彼を羨んだほどなのに、今はとてもそんな風には思えない。ただ彼の悲嘆が別の騎士の悲嘆と重なって響くのみだ。


 ──わからないのか。


 夢の底の暗闇で乾ききった声が(わら)う。

 多くを知っているわけではない。けれど彼が抱いていた深い怒りや悲しみをまったく知らぬわけでもない。


 ──どうして一番側にいる私に一番酷いことをなさるのです?


 心が妙にざわめいた。今まで理解の彼方だったセドクティオが急に近しい男に思えて。

 グローリア一行が彼の住まう小国を訪ねたとき、憧れを追って真摯に騎士の道を行くユスティティアにセドクティオはこう零している。「私もお前のような騎士になりたかった」と。それはいつか大鐘楼で打ち明けられたユリシーズの言葉に似ていた。




 ******




 ドキン、ドキン。

 心臓が嫌な音を立てている。背中は汗でぐっしょりだ。平静を装っていたいのに、そう簡単には休ませてくれない現状にバジルは痛む胃を押さえる。


「アクアレイアに水銀鏡を持って行きたい?」


 怪訝に眉を歪めたのは聖預言者の器に入って駄犬を演じるブルーノだった。砦の主館の最上階、長椅子とテーブルと寝台以外は家具らしい家具もない狐の寝所でタルバが「ああ」と堂々頷く。


「この間ファンスウが『探し物をしている』とか言って鏡の迷宮を勝手に解体しちまっただろ? 幸い全部割られずに残っちゃいるけど、苦労して組み立て直してもまたバラされるかもしれねえし。だったら女帝陛下に献上して喜んでもらったほうがいいと思って」

「な、なるほど?」


 突然出てきた要望になんと応じるべきかわからないという表情でブルーノは肩をすくめた。

 長椅子に座した彼の隣に(アンバー)の姿はない。表向きラオタオは器を管理されていることになっているため退役兵とはなるべく接触させないと決めてあるのだ。だから今、アクアレイアに出向きたいと言い出したタルバの相手に困っているのはバジルとブルーノだけだった。


「天帝宮にいた頃は新しいものができるとしょっちゅうお渡ししてたんだよ。ほら、レースガラスとかさ」


 タルバは偽預言者(ウェイシャン)に決定権がないのは把握しているようで「アクアレイアにいる奴に聞いといてほしい」とだけ頼む。「退役兵がドナを出るのがまずいなら鏡を送るだけでいいから」と続いた台詞に少しだけ安堵した。

 ──友人から今後の展望について語られたのは昨夜のことだ。せっかく寿命が延びたのだし、これからはもっと色々な物作りに励みたいと。女帝に頼めば職人を増やしてもらえるかもしれないし、工房も大きくできると思う。そんな風に説きつけられてバジルは激しい不安に駆られた。もしや彼は理由をつけてジーアン上層部の誰かに秘密を打ち明けようとしているのではないのかと。


「まあ別に、無理なら無理で構わねえしさ」


 だが淡白な態度を示す彼を見るに、一応そういった心配はなさそうだ。懸念のあまりここまでついてきてしまったが、タルバは要求を通そうと変にごねることもなくさっさと部屋を去ろうとする。


「そんじゃ返事が来たらまた教えてくれ」


 これは一緒に出て行くのが自然かな、とバジルも彼の後に続いた。腰はまだびくびくと引けたまま。

 今日も今日とて砦は静かだ。鏡が全部取り払われて広々とした前室を抜け、吹き抜けの階段を下りながら息をつく。距離感が狂ったせいで全然突っ込んだことを聞けない。タルバは無言で前を歩くのみである。

 本当はどういう意図があるのだときちんと問いただすべきなのだろう。だがバジルにはできなかった。信じると決めた相手を疑いたくなかったから。疑うことでこれ以上後ろめたさを増やしたくなかったから。己はもう己一人の愚行だけで手いっぱいだったのだ。


(ブルーノさん、ちゃんと断ってくれるよな……?)


 厨房棟へ向かいながら、女帝との接見など設定されないように念じる。ないとは思うが今はすべてが不安だった。

 今頃寝所ではブルーノと、別室に隠れていたアンバーが対応を検討しているところだろう。ひょっとしたら二人は「水銀鏡という新技術をアクアレイアに伝えるいい機会では」「ついでに軽い偵察や情報収集もできるのでは」と考えるかもしれないが、今はファンスウの動きも知れず、デリケートな時期である。余計な行動は控えてくれると信じたい。


(ううっ、やっぱり昨夜のうちにちゃんと止めておくんだった)


 なんでもないふりをするために成り行き任せにするしかない己を嘆く。胃の痛みはキリキリと強くなる一方だった。

 とにかくジーアンの蟲をすべてアクアレイアの脳蟲と入れ替えるまでは持ち堪えねば。そこまで行けばタルバのことも主君に相談できるようになっているはずなのだから。


(何も起きない、大丈夫、何も起きない、大丈夫……)


 すうはあと息を吸って吐く。不安を軽減させるためにモモの笑顔を瞼の裏に思い浮かべる。

 だがしかし悲しいほどに効果はなかった。彼女に一連の経緯を話せば普通に「マジ……?」と引かれそうな気しかしない。既に冷たい表情になりつつある幻覚をバジルはぶんぶんかぶりを振って掻き消した。


(一番心配なのはタルバさんが僕も一緒にアクアレイアに連れて行きたいって頼んでることなんだよな……)


 女帝には水銀鏡についてよく知ってほしいから、という理由はごく真っ当なものである。それにブルーノもアンバーも優しいので「バジル君を帰国させてあげよう」とタルバの要望を通してしまうのでは思えた。


(本当にいい……! 今そういうのは本当にいらない……!)


 叫び出したい衝動を堪えてバジルは毎日が平穏無事に過ぎることだけを祈願する。

 だが運気というのは下がるときにはどこまでも下がるものらしい。悪い予感は的中し、同日夕刻にはバジルはもう親切な二人から「久しぶりの帰国だし、楽しんできてね!」と祝われる羽目になっていた。

 こうなればタルバが本当に女帝のために、工房とこれからの自分のために、ただ鏡を献上したいだけなのだと信じる以外仕方ない。

 ドキンドキンと心臓が嫌な音を立てていた。平静を装っていたいのに、道を間違えたまま進んでいるという感覚はいつまでも去ってくれなかった。




 ******




 ──お前のような騎士になりたい。そう言ったら笑うか?


 燃えるような夕暮れの光の中で彼は尋ねた。あのひと言に一体どんな意味があったか自分は何も考えていなかったのではなかろうか。彼もまた己と同じに「騎士でありたい」男なのだと額面通りに受け取るばかりで。


 ──騎士でいるしか側にいる術がないからそうしているのよ。


 思い上がりかもしれない。だがユリシーズがセドクティオと同様の行動原理で動いていたと仮定すると、縺れていた思考の糸がするするほどけていく気がした。

 彼とルディアの間の亀裂は深かった。多少歩み寄った程度では関係修復など不可能だと思うくらいに。ユリシーズは国王暗殺未遂事件すら起こしていて、防衛隊への敵意を隠しもしなかった。

 それでも彼は帝国自由都市派から王国再独立派になっていいと言ってくれたのだ。おそらくは酒場でのあの安らぎを守るために。

 離れがたさは己にもあった。けれどアルフレッドは振り切った。ルディアの騎士でいたかったから。

 ではユリシーズは? 彼もルディアの騎士に戻りたかったのか?

 答えは否だ。きっと否だ。


 ──お前は馬鹿にされたんだ!

 ──そう言えば折れる程度の思いしか持ち合わせていないと見下されたんだ!


 白い頬に流れた涙を思い出す。ユリシーズが苛烈な怒りを見せるのは、いつだってルディアに対してのみだった。

 忘れられていなかったのだ。水に流そうとした怨恨を。それなのに己が彼を焚きつけてしまった。(くすぶ)っていた火を煽り、首を絞めて中身を抜いてやろうだなんて提案をさせてしまった。

 そのくせ己は己の悩みと苦しみ以外何を見る余裕もなかったのだから始末に負えない。ユリシーズがどんな思いで杯に酒を注いだのか、少しは考えるべきだったのに。

 彼はただアルフレッドのためだけに手を汚す覚悟をしてくれた。それを己はどうしてああも尊大に踏み散らすことができたのだろう。


 ──落ち着けだと? 二人で決めて、誓いまで立てた約束を一方的に破っておいて何をほざく!?

 ──損も得も私は考えなかったのに! お前のこと以外何も!


 後から後から彼の言葉が追いついてくる。献身を無視された人間の、悲しく痛ましい嘆きが。

 馬鹿なのは己だった。偽りのない言葉で訴えれば彼が剣を引っ込めてくれると信じていた。ユリシーズが怒っていたのはその無理解だと気づかぬまま。

 最初は主君の敵として警戒していたはずである。それがなぜ、一体いつから彼だけは自分の味方でいてくれると錯覚するようになったのか。


 ──このやり方じゃ俺は前に進めないって思ったんだ。


 あの瞬間、なんなら己は彼が祝福してくれるとさえ期待したのではなかろうか。騎士としてお前は正しい決断をした、本当に良かったなと。ユリシーズが心を砕いて用意してくれた一切をあっさり捨てようとしたくせに。


 ──お前にとって私はその程度なのか?


 重い誓いを破ったという実感すらきっとなかった。ユリシーズならわかってくれると軽く見ていた。彼とて同じ騎士なのだからと。

 そうだ。自分はずっと思い違いをしていたのだ。いつでもどんな話にも彼は頷いてくれたから。

 ユリシーズは優しかった。行き場のなかったアルフレッドに慰めと励ましを与えて側にいてくれた。アルフレッドが騎士の道から滑り落ち、最低な一人の男になったときも。

 いつの間にかすっかり勘違いしていた。彼は自分という人間のすべてを受け入れてくれるのだと。ルディアに対する思いの差を彼のほうでは察していて、だから誓いまで立てさせたのに。


「──……」


 アルフレッドは暗闇に目を凝らし、寝台の天蓋を見つめた。頭が動きすぎるせいで今夜は少しも眠れない。睡魔は訪れる気配もなかった。

 自分が何を選んで何を選ばなかったのか、今更に理解する。

 お前も騎士ならわかってくれと言ったこと。あれがどんな意味を持ったか。


 ──私のことはどうなるんだ?


 問いの続きが聞こえる気がする。


 ──お前にはあの女さえいればいいのか?


 本の中の騎士もまた同じように嘆いていた。国さえ守れればあなたはそれでいいのでしょうと。

 夜の静寂に身を浸し、開いていた瞼を閉じる。

 耳を澄ませても誰の声ももう聞こえない。代わりのように夜明けが近いことを告げる大鐘楼の鐘が鳴った。

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