第3章 その9
ざざあ、ざざあ。どこか間延びした波の音だけが耳に響く。海を臨む小さな神殿の地下倉庫は先刻訪れた際とさして変わった様子はなかった。ただ乙女像の積まれた舟に亜麻布の大袋が一つ増え、片隅に置かれた棺が空になっていただけだ。
「偽物の腕だけ一緒にお入れしました。重石としては十分なので、万が一にも浮き上がってはこないでしょう」
桟橋に立つ老巫女は大袋に目をやって「水底深く沈めていただけますか」と頼んでくる。これくらいなら男二人もいれば持ち上がるはずだから、と。
「……石像の残りは?」
努めて心を鈍らせながらルディアは祭司に問いかけた。曰くそちらは島民のほうで処分してくれるらしい。しかし王の骨だけは触れたがる者がいないのでお願いしたいとのことだった。
「わかった」
ルディアが舟に乗り込むとレイモンドもすぐ後に続く。櫂を握る彼の双眸は悲痛な光に満ちていて、それが少し苦しかった。
油性インクの製法については既に伝達済みである。残る大仕事は一つ、軍港に泊めた帆船にアンディーン像を運び込むのみだった。
「世話になった」
老巫女に礼を述べる。改めてその英断に感謝した。よく聖像を持ち出す許可などくれたものだ。波の乙女がアクアレイアに帰還したのがカーリス人の耳に入れば一番に疑われるのは彼女なのに。
「我々の命を賭す以上、必ずお役立てください」
重い言葉に重い頷きをもって返す。ルディアも櫂を手にして海に漕ぎ出した。
神殿の外から入り込む日差しは暗く翳り始めている。短い水路を抜けた先の漁港には半日出番の来なかった漁船だけが並んでいた。古龍の命じた一時封鎖はとっくに解除されており、カーリス兵が巡視している気配もない。
載せた荷物が重いのでルディアたちは苦心しながら進まねばならなかった。舟と言っても石像を積める程度には大きくどっしりしているから、本来は四人くらいで漕ぐべき代物なのだろう。
四人か、と父やアルフレッドと参加したレガッタを思い出す。あのときの波に比べればコリフォの海はまだ大人しい。二人欠けてはいるにせよ、なんとか沖まで出られそうだ。
(──あ)
そのとき突然腕が軽くなり、ルディアはぱちくり瞬きした。前に立っていたレイモンドが「引き潮かな」と月を見上げる。ちょうどいい、このまま流れに乗せてもらおうと。
「陛下が見ててくれてんのかなあ……」
掠れ声の囁きにルディアはわずか目を伏せた。だったらいいなと返すことも、偶然だと言い切ることもできなくて。だがもし本当にあの人が見ていてくれているのなら、最後までしっかりしなくては。
しばらくすると舟は島の沿岸からかなり離れた沖のほうまで流された。海の色は青く深く、この辺りなら老巫女の希望に添えそうだ。
沈めてしまえばもう二度と遺骨を取り戻すことはできないだろう。ルディアにもそれはわかっていた。だとしても骸を祖国に持ち帰る選択はない。
(お父様──)
帝国自由都市派になる。そう決めたのは己自身だ。アクアレイアの不利益となる可能性が高いものならここで処理しておかなくては。
意を決めてルディアは大袋に手を伸ばした。レイモンドも隣に並び、揺れる船上に膝をつく。
これが本当に最後なのだな。力をこめても震える指で袋の口をそっと開く。隙間から覗いたのは作り物めいた頭蓋骨。生きていた頃より更に白くなった父が無言でそこに佇んでいる。
別れの言葉はとても思いつかなかった。この光景を忘れずにいることしか、できる弔いはきっとなかった。
「一緒にやる」
袋の口を縛り直したルディアの指をレイモンドが強く握りしめてくる。少しでも痛みを分かち合おうというのだろう。大袋を放り捨てる段になっても彼はずっとルディアの手を離さなかった。
──ドボン。
重い荷が水に落ちる音。そんな異音は打ち寄せる波がすぐに掻き消し、海はまたいつもの澄まし顔に戻る。
波濤によって砕かれた岩が小さな砂粒となるように、父もまた波間に揺れる小さき存在となるのだろうか。そうしたら北へ北へと向かうこの潮流は、あの人の一部だけでも祖国へ導いてくれるだろうか。
祈りとともにルディアは五芒星を切る。
海の国の君主には相応しい水葬だ、などと言うのは欺瞞だろう。こんな結末誰も望んではいなかった。
「……行かねばな。ぼんやりしていたら日が落ちる」
左手に絡む恋人の指をほどいてルディアは櫂を握り直す。
無駄にはするまい。ここまでして持ち帰る聖像を。
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──パトリア騎士物語ってすごい。想像以上の掌返しにジュリアンは感動を禁じ得なかった。いつもなら横を通りがかっただけで舌打ちしてくるヘクターも、何度言っても島民への不遜な態度を改めなかったマーティンも「読んだら貸してやろうか」のひと言ですっかり大人しくなってしまった。
父ローガンの私兵には読み書きできる者が多い。ある程度商売のわかる人間のほうが指示しやすいという理由で商家の三男四男をメインに雇っているからだ。屋敷の警備やボディガードの仕事を任せる一方で、見込みがあれば父は様々なことを教える。海における慣習法や取引の際の交渉術、どこの宮廷では何が流行中かなども。
だから彼らはパトリア中の貴族が騎士物語を夢中で読みふけっていることも、小説自体の面白さも、そこらの傭兵よりよほど詳しく知っているのだ。当人が熱狂的なファンであることも珍しくない。
──そんなわけで砦中の兵士たちから一年分はちやほやされ、ジュリアンは却ってぐったりしたほどだった。
「ねえ父様、そろそろユスティティアの後輩騎士はプリンセス・グローリアと隠密デートに出かけました?」
「いやッ! まだだ。まだだからシーッだぞ! ジュリアン!」
司令官室の大きな机にかじりついて読書する父に横から問いかける。太陽が落ちてしばらく経つのに手提げランプを三つも灯してローガンは必死にページを繰っていた。兵士らに貸し出しを始める前にまずこちらかと訪ねてきたのはいいけれど、はっきり言って手持ち無沙汰だ。
することもなく椅子の上で腕を組みつつ今後のことを考える。立ち回り方を変えろと親身に諭してくれたあの二人に自分ができる恩返しを。
「ジュ、ジュリアン。この展開、あまりに不穏ではないか? 怖いから父様の手を握っていてくれないか?」
懇願に黙考の邪魔をされ、ジュリアンは眉をしかめる。「そこまで怯える必要あります?」と問えば「父様は若い頃から読んでいるんだ! 思い入れが強いんだ!」と涙目で吠えられた。
「はいはい、かしこまりました」
求められるままジュリアンはぶるぶると震える手を握り返す。
手始めに決めたのは父と仲直りすることだった。この人がカーリスで多くの支持を集める理由を己は知らねばならないと思ったから。父の姑息なやり方がはたしてどこまで参考になるかはわからない。それでもやはりこの人が、一番身近でカーリス的な手本には違いなかった。
「待て、頼む、待ってくれ……。グローリアとユスティティアが結ばれるのが難しいのは私にもわかる。だがなんなんだこの男は……!? 百万ウェルスやるからどこかへ消え失せてくれないか……!?」
「感情移入しすぎですよ、父様」
借り物ではない力が欲しい。人を束ねられる男になりたい。それがいつの日かあの二人と繋がる道になるのなら。
恩人を乗せた船団は日没を前にヴラシィへ発っていた。どうせすぐそこらに錨を下ろすことになるのだし、一晩くらいゆっくりすれば良かったのに。相当急ぐ旅らしい。
(でも島のこと、僕に任せてくれたのは嬉しかったな)
騎士物語に話題を逸らせばもう二、三週、父や兵士たちの目から本物の像が持ち去られたことを誤魔化せそうだった。その後に訪れる波乱を乗り切れるか否かはこれからの己次第だ。
「ジュリアン……! 手を、手をぉ……ッ!」
「はいはい、ちゃんと握っていますよ」
半ば呆れつつジュリアンはローガンの手を擦ってやる。
とりあえず今はこの人がこちらの腹に気づかずにいてくれれば上々だ。




