第3章 その8
昼前には島に着いていたはずなのに気がつけば太陽が随分西に傾いていた。オリーブ茂る坂道を上りつつルディアは薄く陰り出した空を見上げる。
頭上に舞う影は一つから三つに戻っていた。然るべき報告はしたというのに古龍もなかなか心配性だ。ここまで来てあの男と逃げ出すはずがなかろうに。
「……大丈夫?」
ぽつりと声をかけられて、ルディアは己の歩みがやけにゆっくりだったのに気づく。隣を見れば気遣わしげに眉根を寄せた恋人がこちらを覗き込んでいた。
「平気だよ。そんな顔しなくていい」
上手く笑えていただろうか。歩調を戻し、ルディアは緑の坂を上る。
もう一度ここに来ることがあると思わなかった。父の心臓を貫いて、返り血も拭えぬままに逃げ出した蛍の丘。弔いができると期待してこの島に来たわけではない。コリフォでは聖像を取り戻したかっただけだ。けれど骸を棄てねばならないことになるとも考えていなかった。
(海に沈めるほかない、か)
つくづく親不孝な娘だと呆れる。それでも多分あの人は笑って許してくれるのだろうが。
──誰も信じてはいけないよ。
胸の奥に響くのは懐かしい声。これからも永遠に引きずっていく己の核心。
誰も彼もがいつまでも側にはいてくれないと感じる。側にいてくれそうだと思うと自分のほうが弱腰になって。それで何度も要らぬ亀裂を生じさせてきたというのに。
「たった一人」は見つけたはずだ。レイモンドはこちらが逃げようとするたびに手首を掴んで捕まえてくれる。それでも己は彼を信じきれていない。
きっと自分はレイモンドが普通の人間だからまだこうして耐えられているのだ。どう足掻いても蟲よりずっと短い寿命しか持たないから、そのうち終わると思うから、逆説的に側にいられるだけなのだ。
(馬鹿だな……)
感傷的になっているのを自覚してルディアは小さくかぶりを振った。坂道の頂上はすぐそこに見えている。もっとしっかりしなければ。
右手の樹幹が途切れると見下ろす街と城壁の向こうに紺碧の海が広がった。丘に生えた草は青く、当たり前だがどこにも血の跡はない。拾えなかった古いレイピアも転がってはいなかった。
「──」
祈りを捧げるべきだろうかと立ち止まる。何も言わずに槍兵も隣に並んだ。
短い静寂。
一陣の風が吹き抜ける。
「あれ?」
と、どこか間の抜けた声を発してレイモンドがすぐ脇の藪を見やった。「今蛍飛んでなかった?」と。
「蛍?」
こんな季節にいるはずなかろうと首を傾げる。大体何か光っても認識困難な程度には外も明るい。
「一匹いた気がしたんだけどなー」
レイモンドはまだきょろきょろと周辺を見渡していた。だがやはり蛍の姿は見つからず、諦めた素振りで肩をすくめる。
「蛍ってさ、コリフォ島だと死者の魂って言われてんだって」
恋人は「知ってた?」となんでもない風に尋ねた。そうして低い声で囁く。
「前に俺、陛下の夢を見たんだ。たくさんの蛍に囲まれてて、姫様のこと強情な娘だけど頼むって」
ルディアは「そうか」とだけ返した。二の句を継げずに黙っていると恋人は遠くを見たまま小さく呟く。
「……ごめんな」
謝罪はおそらく骨を持って帰れそうにない件についてだろう。代わりのように「ずっと一緒にいるから、俺」と告げられて苦笑いする。彼が気に病むことではないのに。
「ああ。ありがとう」
自分からはずっと一緒だなんて言葉、死んでも吐けそうにない。心の底ではこれっぽっちも信じていないそんな言葉。
草むらをよぎった影に気づいてルディアはふと目を上げた。上空では急かすように鷹たちが羽ばたいている。さすがにそろそろ行かなければ。
黙祷を終えるとルディアは丘のあばら家へ足を向けた。古い石の住居からはガチャガチャと大きな物音が響いていた。
******
「あっ、ちょうど良かった! 今荷物が全部まとまったところです!」
玄関を開くと同時、青年の明るい声に迎えられる。長旅用の上質なケープを羽織ったハイランバオスはパンパンに膨らんだ大きな荷袋を担いでにっこりとルディアに微笑みかけた。
あばら家には以前はなかった棚や机が増えている。ひと通り揃った調度品を眺めつつ「ここで生活を?」と聞けばエセ預言者は「はい、街から離れていたほうが動物実験はやりやすいですからね!」とウィンクした。
物騒な台詞にルディアは小さく嘆息する。実験ということは、この男はまたアクアレイアの脳蟲を使ってキメラなど生んでいたのだろうか。カチャカチャうるさい荷物の中身が瓶詰の同胞であるのはすぐ知れた。止めたところで聞くわけもない異常者に注意する気もないけれど。
「処理する時間もなさそうですし、こちらはこのままでいいですよね?」
と、ハイランバオスが暗がりに設置された大棚の戸を開ける。中に積まれた大量の獣の死骸に「うおわ!?」とレイモンドが悲鳴を上げた。
鼠に猫に蛇に鳥に、一番上には例のムク犬まで。すべて頭を割られた状態で雑多に押し込められている。呆然と眺めていると「あ、すみません。これだけあなたにお願いします」と陶器の小瓶を預けられた。懐にそれを突っ込みつつルディアは彼に問いかける。
「そう言えばまだどうやってお前がコリフォ島まで来たのか聞いていなかったな」
「ああ、私はジュリアンさんの客人として同伴させていただいたんです。これでも医学の権威と名高いストーン家の跡取り息子ですからね。王侯貴族や商家の訪問医師として引く手あまたなんですよ」
ああなるほど、使い勝手がいいから器がそのままなのか。確かにディラン・ストーンならどこでも食うには困らないなと納得した。たとえ彼のうろついていたのがアクアレイアを毛嫌いするパトリア古王国であっても。
「この器は髪色も別にアクアレイア人らしくないですからね。瞳もありふれた水色ですし」
こちらの思考を読んだかのようにハイランバオスが補足する。彼はふふふと楽しげに自身のうねる黒髪を摘まんだ。
「この色はね、どうやら母親の胎の中にいる間、どの程度アクアレイア湾の魚を食べたかで出方が異なるようなんです」
急になんの話だとルディアはやや身構える。だがエセ預言者はこちらの反応など気にかける風もなくペラペラと喋り出した。
曰く「ディラン」のつけていた大昔の日記によれば、彼の母親は商用のためノウァパトリアに長期滞在をしており、かの都市で彼を出産したそうである。「だからこの身体にはアクアレイア人的特徴と言えるところがないんですよ」とハイランバオスは明るく続けた。
「他国の妊婦はなかなかアクアレイアにまで来ないので事例が見つかりませんでしたが、遺伝に見えて土地に由来する現象なのが面白くありませんか?」
にこにこと上機嫌にエセ預言者は自身の発見について語る。その勢いは堰を切った川か何かのようだった。
「海を泳ぐ魚に蟲は取りつくのか。これは過去にアイリーンも調べていたようですが、やはりなさそうですよねえ。そして脳蟲の幼体を食べた魚を食べると髪や瞳の色として現れる、これは偶然とは思えません。アークが機能停止して新しい蟲が生まれなくなった巣では奇抜な色の持ち主がいなくなるということでしょう? ふふふふふ。実は私、ストーン家の産院の記録も調べていましてねえ。ここ数年アクアレイアでは黒髪や茶髪の子供が増えているようでした。アレイアのアークは絶賛稼働中なのに妙だとは思いませんか? これはコナーが何かしたかなと、私はそう踏んでいるのですけれど」
「は、はあ……?」
ハイランバオスの言わんとすることがわからず、ルディアは困惑の眼差しを返す。だがもう詳しい解説を聞いている暇はなさそうだった。丘へ続く二本の小道を上ってくるジーアン兵の足音がここまで響いてきていたから。
「あ、そう言えば私もあなた方に一つ聞き忘れていましたね。コリフォ島にはカーリス兵が常駐しているのに、どうやって島に入れてもらったんです?」
その問いに答えたのはルディアでもレイモンドでもなかった。ノックもなしに突然開かれた玄関を見やり、ハイランバオスが端正な顔をしかめる。
戸口に現れたファンスウがわずかに顎を傾けて突入の合図を出した。するとたちまちあばら家は蟲兵たちでいっぱいになる。
「──ええっ、酷くないです!? 仲間を敵に売るなんて!」
芝居か本気か測りかねる非難にルディアは小さく肩をすくめた。「すまないな。こっちもほかにやりようがなかった」と手短に詫びる。両腕を押さえ込まれたエセ預言者は唇を尖らせて「酷い、酷い!」と喚きながら外へと引きずられていった。
大過なく目的の男を捕縛してファンスウもほっとしたようだ。胸を撫でこそしなかったが、目元の厳しさがほんのわずかやわらいでいる。
「尋問は船でするのだろう?」
「ああ、港の封鎖を解いたらすぐにもヴラシィへ発つぞ。海に出ればさすがのあやつも逃げられまい。おぬしらも船賃を回収したらさっさと戻れ」
踵を返した老将にルディアは「わかった」と頷いた。彼が出て行かないうちにもうひと言付け加える。
「後で時間をもらえるか? ハイランバオスの荷物について取引したいことがある」
尋ねるやこちらを向いた古龍の細い目が吊り上がった。だが緊迫はそう長く続かず、彼は了承の意を告げてあばら家を引き揚げていく。
狭い家屋に密集していたジーアン兵が皆去るとルディアは棚に残されていた陶器の中から蓋付きの小瓶を拝借した。それから奥の大棚を開き、砕けた獣の頭蓋から脳髄液を頂戴しておく。さっきハイランバオスに渡されたほうの小瓶は取り違えのないようにレイモンドに渡し直して。
「行こう」
外に出るとまた少し木々の影が伸びていた。入江の神殿を目指してルディアたちは歩き出した。




