第3章 その6
湾港の封鎖命令なんて出たからだろう。戻ってきたコリフォの街の中心部は物々しい雰囲気だった。レイモンドは円形広場をぐるりと見渡す。公会堂の前にはたくさんのカーリス兵。彼らは羽振り良さそうな同国の商人たちに「風が良くてもしばらくコリフォ島を出られないぞ」と告げている。状況を耳にしたコットン膨れの男どもはさも不服げに高慢な顔を歪めていた。
そりゃそうだ。ライバル都市が撤退してどこへ行っても稼げる今、もうじき海の大荒れする冬になるのにこんな小さな島に留まりたくはあるまい。「本当に今日明日で済む話なのか?」「待つ間に風が変わったらどうする」ぶつくさ呟く彼らの苛立ちの矛先がどこに向くかはあまりにわかりやすかった。
気温的には脱いでも良かったケープのフードをルディアがそっと被り直す。順当な判断だ。ジュリアンが一緒とは言え積極的に絡まれたくない。兵と商人が散り散りになるまでレイモンドたちは建物の陰に退避した。
(しっかしホントに生活感なくなってんなー)
何度通りに目をやってもコリフォ島民の姿はない。以前は朝網や昼網の市が立っていた場所はカーリス人にすっかり占拠されている。慎ましやかな家々の門戸は開くこともなく誰もが気配を押し殺しているようだ。
だがずっと隠れたままで暮らしていけるわけもない。漁民は漁に出なければならないし、農夫は作物を加工して冬に備えねばならないはずだ。コリフォ島の気候ならそこまで過酷な季節ではないのかもしれないが。
「いっつもこんなに人いねーのか?」
小声で問うとジュリアンは「いえ」と首を横に振った。砦から一斉に兵士が出てきたせいか、いつにも増して今日は島民が外を出歩いていないそうだ。
「この辺りはどうしてもカーリス人が多いですしね。南のオリーブ畑なら誰かいるかもしれません。行ってみますか?」
ふむ、とレイモンドは思案する。方策を立てるのに無人の街だけ見ていても仕方ない。そこに住む人間の生の声を聞かなくては。神殿の石工とはまた別の意見が出てくるかもしれないし、島民とはもう少し話をしてみたかった。
「うん、そうする。待ってても誰も出てきそうにねーからな」
広場には見切りをつけて南方へと歩き出す。カーリス人の姿はかなり減っていたが、それでもなるべく近寄りすぎないように注意した。
皆毎日怖い思いをしているのだろうなと思う。頼れる者もいない中で。
生命を脅かす恐怖が解消されない間は保身以外の決断などできない。人間に備わった自己防衛本能についてはレイモンドもよく知っていた。コリフォ島民が快く乙女像を引き渡してくれるとしたら、それは島からカーリス人がいなくなったときだけだろう。
だが現状そんなことは不可能だ。ジーアンを乗っ取った後ならともかく今は妥協点を探るしかない。幸いジュリアンはこちらに好意を持ってくれているし、取れる手立てがあるはずだ。
(オリーブ畑か……)
緑豊かな林の奥に目をやりつつ曲がりくねった小道を行く。いつしか石畳は途切れ、足元は均された土の道に変わっていた。
ところどころ不自然に足跡が乱れているのが気にかかる。住民に手入れする余裕がないせいもあるだろうが、小道にはわざと抉られたのではと思うような箇所もあった。嫌な感じだとレイモンドは眉をしかめる。
小さな街なので目指す果樹畑にはすぐ着いた。最初に目に入ったのは広々と乾いた土壌に整然と並ぶ採集用のオリーブの樹々。どの木も大人の背丈ほどの高さで、まっすぐ枝葉を天に向け、多くの実をつけている。オリーブは水はけの良い土地で育てねばすぐに痩せてしまうため、一定の間隔ごとに盛土の上に植えられていた。
(おお、人がいる)
ここは一応労働の場として機能しているようだ。畑には少なくない島民の姿が見えた。収穫期なのか働き手は皆大きな布袋を手にしている。実を摘む傍ら果汁も搾っているらしい。積み上がった樽の側には圧搾機を扱う数名の男たちが集まっていた。
「あっ、これはこれは、ジュリアンお坊ちゃん」
足音に気づいた年配の男がくるりと振り返る。こちらを見やった農夫たちに一瞬ぎょっと目を剥かれたがルディアがフードを下ろして紺碧の髪を見せると彼らはいくらか緊張を緩めた。レイモンドも胸を張り、衣装のどこにも余分な綿は詰まっていないことを示す。なぜこんなところに本国の人間がという顔はされたが。
「えっ? あれ? お前ひょっとしてレイモンドか?」
と、痩せっぽちの農夫の一人に問いかけられる。顔を見れば名前はすぐさま思い出せた。随分やつれてしまっているが、島で一番親しくしていた同い年の友人だ。
「わっ、フレディ! 良かった、生きてたのか!」
再会の喜びを示して両手を広げるとフレディは遠慮がちに片方の手を握ってくる。二年前、コリフォ島から脱出するための漁船を用意してくれたのが彼だ。「ごめんな、あのときの船借りっぱなしで」と謝ると曖昧な笑みが返された。
「ていうかやけに立派な服着てるけど何? なんでまたこの島に?」
当然の疑問に対し、レイモンドは空気を読みつつ慎重に答える。農夫たちの眼差しからまだ警戒の色は消えていない。なるべく反発を招かぬように簡単な事実だけを述べた。
「コリフォ島を出た後に始めた商売が当たってさ。今じゃ俺、アクアレイアで一番の注目集める事業主なんだぜ。まあそれで『お前の船団を貸し出せ』ってジーアンのお偉いさんの足にされてるとこなんだけど」
現在の地位の説明は彼らにはピンと来なかったようだ。もっとわかりやすく言わなきゃ駄目かと「事業関連のこと話すのに十人委員会にもよく呼ばれてる」と権力中枢の名前を出す。ついでに活版印刷機や騎士物語続編の話にも触れ、本国では経済の立て直しが始まっている旨を伝えた。
「そっか。アクアレイアはそれなりにやっていけてるんだな」
安堵よりは羨望の滲む声に気づかぬふりで「うん」と頷く。まずは農夫らの信用を獲得するべくレイモンドは有力な商人として彼らに接した。
「ところでここのオリーブって全部冬越し用? 交易に回せる分とかある?」
陽光を受けて輝く樹々を見回しながら商談を持ちかける。「船の礼もあるし、色付けて買い取るぜ。商品積んできてっから物々交換でもいいし。そんな程度じゃあんたらの不足分の埋め合わせにもならないとは思うけど」と歩み寄ればフレディたちは戸惑いながら互いに顔を見合わせた。
コリフォ島がまだアクアレイア領だった頃、オリーブは特産品として盛んに売買されてきた。流通経路が確保されれば島にはまた外貨が入るようになる。わかってるぜという顔でレイモンドは話を続けた。
「まだ定期商船団を派遣ってわけにはいかねーけどさ、島のことは十人委員会にも報告するつもりだし、困り事とかあれば俺に教えてくれよ。もしなんとかできそうだったらなんとかしてから帰るから」
はいと銀行証書を出して取引の具体的な予算を見せる。その額に農夫たちは動転して「いや、こんな、」としきりに口をパクパクさせた。
コリフォ島民も王国人には違いないので大金を動かせる者には弱い。社会的信用というやつだ。彼らがこちらに向ける眼差しはこれで劇的に変化した。
「ほ、本当にこの金額で買ってくれるならありがたいことこの上ないが──」
「あの、レイモンドさん! オリーブのお代って僕に出させてもらってもいいですか!?」
と、そこに脇で見ていたジュリアンが財布を片手に割り込んでくる。少年が会話に加わるや、急にまた場の空気が澱み、レイモンドはぱちくり瞬いた。
何かまずそうな雰囲気だ。直感的にそう察し、レイモンドは申し出を断る。
「いや、いいよ。気持ちだけ貰っとく」
「で、ですが、父が迷惑をかけ通しなのに──」
「いやいや、本当にいいって。さっきもちらっと言ったけど、俺こいつの漁船借りたままトリナクリア島で失くしちまってんだよ。俺が出さなきゃ意味ねーからさ」
やんわりジュリアンを退けると農夫たちが小さく息をついたのが聞こえた。明らかに「こいつが絡まなくて良かった」という安堵の息だ。もしかしてこれはあれか。思案したのちレイモンドは隣のルディアを振り返った。
「なあ、俺ちょっとここで皆の話聞いてるから、悪いけどあんたジュリアンと二人で畑の様子見てきてくんねー?」
「ああ、わかった。そのほうが効率良さそうだ」
彼女は即座にこちらの意を汲み「行こう」とジュリアンを連れ出してくれる。いくら少年が好意的でも被支配民が支配民のカーリス人にわだかまりを持っていないわけがなく、思った通り二人が木立の向こうに消えるとフレディたちはレイモンドを囲んで一気に表情を険しくした。
「困り事を聞いてくれるって言ったな?」
「いつになったらカーリス人は島を出てってくれるんだ?」
「俺たちゃもう限界だ。これ以上奴らのご機嫌取りなんかできねえ」
一つずつ、しかし途切れることもなく、不満は次々に噴出する。それはもう憎悪と呼んでも過言ではなかった。オリーブなどいくら摘んでも金にならないと彼らは言う。カーリス兵が根こそぎ強奪するのだと。それでも畑そのものを焼かれるよりはましだから従っているだけで、奴隷労働と大差ないと。
「ジュリアン坊ちゃんだけはまともに値をつけてくれるが駄目だ。坊ちゃんのいない時間を見計らって収穫物を奪いに来られるし、坊ちゃんと取引したのがバレたら後で仕返しされる。
大金払ってくれるって言ったがお前ともオリーブのやり取りはしないほうが賢明かもな。漁はまだ許してくれるが油は価値が高いから全部横取りしようとしやがる」
フレディの吐き捨てた言葉にレイモンドは顔を歪めた。カーリス商人が島の女子供を売り飛ばそうとしたことも一度や二度ではないと知り、嫌悪感は更に激しいものになる。
「乱暴狼藉は坊ちゃんが収めてはくれるんだがね……」
皆まで聞くまでもない。豪商の愛息がいないところでは常に嵐が吹き荒れているのだ。もし今ジュリアンがコリフォ島を去ることになれば島民がより重い苦境に置かれるのは間違いなかった。
「…………」
唇に指を当て、レイモンドはじっと考え込む。切れるカードはそう多くない。だが組み合わせ次第で流れは変えられるはずである。ローガンは聖像を壊した代わりの船賃を用意してやると言った。であれば彼と交渉の場は持てるのではなかろうか。
「わかった、オリーブには触らないでおく。けど島の皆がもうちょい安心して暮らせるように、俺からローガンに掛け合ってみるよ」
「へえっ!?」
レイモンドの宣言に農夫たちは焦った様子で首を振る。「いや、だから仕返しされるって!」「十人委員会に、十人委員会に頼んでくれりゃいいからよ!」と彼らは必死で止めにきた。
「大丈夫だって。あんたらの名前は出さないし、危ない目にも遭わせねーよ。印刷商レイモンド・オルブライトとしてちょっと商談するだけだ。ローガンも活版印刷機にはかなり融資してたみてーだし、話は聞いてくれると思う。俺のこと信じてくれ」
不安げなフレディたちを宥めるとレイモンドはくるりと果樹畑を振り返る。立ち並ぶオリーブの間にルディアたちの姿を探せば収穫を手伝う二人の背中が目に映った。と、そこに何やら柄の悪そうなカーリス兵の三人組が現れる。
大慌てでレイモンドは駆け出した。だが彼らはこちらが現場に到着する前にジュリアンの叱責によってあっさり降伏させられる。「鞭なんか持って農作業の監視に来るな馬鹿!」とオリーブ畑に甲高い怒号が響いた。
(うわっ、ありゃ確かに島民がやり返されるはずだわ)
レイモンドは我知らず肩をすくめる。坊ちゃん育ちが災いしてジュリアンは真正面から叱りつけるやり方しか知らないらしい。完全に圧力のかけどころを誤ってしまっている。
三人組はその場でペコペコ詫びていたが、どう見ても取り繕っているだけで誠意は感じられなかった。「面倒なのに出くわしたな」としか思っていないのがひと目で知れる。反省のなさにジュリアンが追加の小言を食らわせると彼らは我先に畑から撤退した。
なるほどな、とレイモンドは合点する。これでは島民が憂さ晴らしの標的にされるのも当然だ。立場の弱い人間は更に立場の弱い人間を虐めることで己を慰めるものなのだから。
島民は島民でどうせ後から殴られるのがわかっているのにジュリアンに礼を言わねばならないし、少年が厄介がられても致し方ない。せめて彼が親の威光を借りるのではなくローガン並みの実権を握っていれば展開はまた違っていたのだろうけれど。
だが今はそれを指摘するときではなかった。閃きを告げるべくレイモンドはルディアとジュリアンに駆け寄る。
「二人とも大丈夫か?」
「あっ、レイモンドさん! こっちは大丈夫です!」
「話はもう済んだのか? どうだった?」
二人の腕をぐいと引き、レイモンドは「いっぺん神殿に戻ろう」と提案した。その道すがら色々相談したいからと。
「あのさ、一つ聞きてーんだけどカーリス共和都市って騎士物語流行ってた?」
「へっ?」
「いや、流行ってたとは思うんだけどさ、どのくらい流行ってた?」
「ええと、あの、うちの富裕層が上着にコットンを詰めるのはセドクティオの夜会服を真似てのことらしいですけど……」
「なるほど! サンキュー!」
それだけ聞ければとりあえずは十分だ。怪訝にこちらを見つめるルディアに目をやってレイモンドは静かに切り出した。
「多分持って帰れると思う。聖像も、陛下の遺体も」




