第3章 その1
正しさなんてその瞬間には証明されない。己の行いがどんな形で報いられるかなんてことは。「あのときああしていて良かった」と確信できるようになるのは大抵ずっと後の話だ。「あんなことしなければ良かった」と心底悔いる羽目になるのも。
大きな決断であればあるほど変化する未来の総量は大きい。この先は想像もしなかった事態だって起こり得る。だがどんな結果になったとしてもタルバが死んでいなくなるよりずっといい未来のはずだ。己はそう信じている。信じているのだけれども──。
「バジル」
背後から名を呼ばれ、びくりとバジルは肩を跳ねさせた。狩人の矢に驚いた小さく哀れな子鹿のように。
「なっ、なっ、なんでしょう……?」
極力なんでもないふりで異国の友人を振り返る。
窓を開いて光を入れた工房一階の作業場ではいつも通りにタルバが床を掃き清めていた。図面やら何やらで散らかった広い机に向かいつつバジルは肩越しに彼を見上げる。
「そろそろ砦に顔出しに行かないか?」
「アッ、ハ、ハイ」
「じゃあ俺用意してくるから」
投げかけられたのが日常的なやり取りの一種でホッとした。箒を壁に吊るすタルバの表情は今も強張ったままであるが、ひとまず返答に窮する類の厳しい問いかけではなくて。
(うう……っ、ど、どうしてこんな雰囲気になっちゃったんだ……)
彼に「接合」を施してから約十日、バジルは絶え間ない気まずさの中にいた。必死の泣き落としによって当初の目的は果たしたものの、次はまた別の難題に直面することになってしまって。
当然ながら内外で何が起きようと生活というものは続く。目覚めたタルバは最初の数日「どうやって寿命なんて延ばしたんだ」「知っていることがあるなら教えてくれ」としつこかった。わけもわからず自分だけ助かるなんてあまりに仲間に申し訳ないと。バジルには「砦の退役兵なら急死の心配はありません」と答える以外どうしようもなかった。そうしてぽろぽろ、秘しておくべきことまで口にしそうになり、今はもうだんまりを決め込んでいるのである。
「やめてください、本当にこれ以上僕に何も聞かないでください」そうバジルが懇願するに至り、タルバはようやく質問攻めをやめてくれた。代わりに以前よりも会話は少なく、空気は重く、二人の距離は遠くなってしまったが。
やり方を間違えたのではという不安は日に日に大きく膨らんでいく。今からでもブルーノやアンバーに相談するべきではないかと。悩んだけれど結局何も言えずじまいだった。だってもしタルバがほかの退役兵と同じガラス瓶住まいなんかになったとしたら、それこそ本末転倒だろう。自分は彼に幸せに生きてほしくて「接合」という道を選んだのだから。
「……おい。おい、バジル」
呼びかけてくる声に気づいてバジルはハッと目を上げた。見れば己の向かう机の傍らに帽子を被って外出準備を整えた友人が立っている。
「それまだ終わらないのか?」
問われてバジルは慌てて椅子から立ち上がった。「あ、いや、これは後回しで大丈夫です」と新しく取りかかっていた仕事を机の端に寄せる。すると長身の友人が上から紙面を覗き込んだ。
「あなたの生活を豊かにする新時代の工芸品?」
「えっと、これは宣伝広告なんです。アクアレイアに活版印刷機が導入されたそうなので、製品カタログなんか作れたら販路確保に役立つかなと」
水銀鏡にせよ、レースガラスにせよ、まず認知されないことには商売も何も始まらないのでと続ける。タルバは「そうか」とだけ呟き、足早に玄関のほうへ消えていった。
「…………」
話題の広がらなさにハハ、と頬が引きつる。彼の戸惑いはわからなくもないけれど、ここまで露骨に態度を変えずともいいではないか。前はもっと打てば響く返答があったのに。彼にしてみれば敵か味方か、隠れて何をしているのか、判別不能な人間相手にどう接するか決めかねているのだろうが。
「……はあ……」
玄関扉の開く音に嘆息する。今のところタルバは誰にもこの件を漏らしてはいない様子だった。「恩人の頼み」というのは彼の中で非常に重く作用するものらしい。
取り消したいと願っても接合はもはや取り消せない。バジルとしては友人の律義な性格を信じる以外できることは何もなかった。もとより彼なら大丈夫と踏み切ったのは己である。陰鬱を振り払うようにバジルも玄関へと向かう。
タルバは表で待ってくれていた。「待たせてすみません」と隣に並び、心境に反して明るい昼下がりの小道を二人で歩き出す。
目を見ないのはそこに猜疑を感じ取りたくないからだ。
わかっていた。急速にすべてが歪みだしたこと。
(それでも約束したんだから、黙っていてはくれるはず……)
二人の間の秘密であれば何も起きることはないのだ。彼も己も、どうか平穏無事でいられますように。
バジルは脳裏にアクアレイアの民を守護する女神の威容を思い浮かべた。
心の中で五芒星を切って祈る。嵐の中でも微笑んでいる波の乙女に。
******
これで寿命が百年延びた。そう言われても少しもピンと来ないまま現実味のない現実を形だけ続けている。
状況はタルバの理解の範疇を超えつつあった。百歩譲ってバジルがこちらの正体に勘付いたのはいいとして、十将や天帝も把握していない延命手段をなぜ彼が知っているのか。
何度問うても友人は口を割らなかった。砦の退役兵たちなら心配いらないと言っただけだ。砦外の──街でドナ人と所帯を持つ者はどうなのかと尋ねたらすっかり口をつぐんでしまって。
(絶対誰にも言わないでくれ……か)
無茶な約束をさせられたこと、タルバはずっと悩んでいた。それはバジルがジーアンに漏れると困る重要機密を有している何よりの証拠だったから。多分己は彼を捕らえて洗いざらい白状させるべきなのだろう。ゴジャでもウヤでもきっとそうする。一瞬だって迷うことなく。
だがバジルは師であり恩人だ。狼藉を働くわけにいかなかった。まして彼が少なくない危険を冒して秘密の一部を明かしてくれたことを思えば。
と同時に「バジルが何を知っているのかわかれば仲間を助けられる」という考えももたげてくる。友人の反応を窺うに、延命措置を受けられたのは一部の退役兵だけなのだ。せめて彼の取った方法だけでも探りたい。生き延びるなら全員で生き延びなければ意味がないから。
(こいつはあの日、俺の『本体』に何をした?)
隣を歩く緑の頭をちらと見やる。砦を目指して長い坂を上るバジルは黙ったまま半歩遅れでついてきていた。雑草の伸びる石畳を踏みしめながらタルバは記憶を呼び覚ます。
覚えているのは細い縄を手にこちらに迫ったバジルの顔。据わった目つきと震える腕、用意された水桶だけだ。蟲は器の外にいる間、意識と呼べる意識を持たない。なんらかの処置を施されたとしたら十中八九そのときだった。
(あのときバジルは俺に何を……)
だがいつも思考はそこで止まってしまう。当然だ。絶対に覚えていない時間のことを思い出すなどできないのだから。
更に言えばもう一つ、紛れ込んで邪魔をしてくる記憶があった。心肺停止の仮死状態にあった間見ていたなんだか変な夢だ。どんな器に乗り換えるときもこれまでは真っ暗闇から目を覚ますだけだった。それなのにあの日は無意識が働いていたのだ。
鳴いている。コケッコッコーと鶏の声で。そして見慣れた厨房棟で俺は随分低い位置からケイトの背中を見上げている。
──絞めるのを手伝ってくれるの? ありがとう。
俺の後ろにいる誰かに礼を言う彼女の姿は鮮明だ。アレイア語もはっきりと聞き取れる。気になるのはこの夢が退役兵の間で流行った「鏡の間の白昼夢」と似通っていることだった。
このところめっきり大人しくなった同胞はタルバが「最近砦で変わったことはないか?」と聞くと決まって例の幻について語る。まるでそれが慈しむべきかけがえない思い出でもあるかのごとく。
はっきり言って不気味だった。何がどうとは言葉にできないところが特に。
一体ドナに何が起こっているのだろう。どんなに頭をひねってもタルバにはすべてが謎のままだった。わかるのは、今この街が見かけ通りの平穏にはないということだけだ。
(誰かに知らせるべきなんだろうな)
またちらと、揺れる三つ編みを盗み見る。なるべく平静を保ちながら。
ファンスウは兵を集めてコリフォ島へ発ったらしいがアクアレイアにはまだアニークがいるはずだ。古龍が彼女を一人にしておくわけがないからほかにも数人宮殿に留まっているのは間違いない。たとえば十将の誰かとか。
砦に出入りする商人の船に乗ればアクアレイアはおよそ一日の距離である。上層部に問題を報告するのはそう難しい話ではない。
だがそれはバジルを帝国の敵として突き出すのと同義だった。彼の持つ情報が有益なものであるほど尋問は過酷になる。わかっているからタルバも迂闊に動けなかった。
敵だとか、味方だとか、そんなことお構いなしに技術を伝授し、不治の病を癒してくれた男だ。そんな相手との約束を破り、秘密を口外するなんてしてはならない不義に思える。
(けどこのままじゃジーアンが……)
千年の記憶は「同胞のためにこそ駆けよ」とタルバの胸に迫ってくる。
どうすればいいのだろう。言えば恩人を窮地に追いやり、言わねば裏切り者になる。どちらも傷つけたくないのに。
(どうすりゃいい?)
いつの間にか長い坂道は終わっていた。タルバは押し黙ったまま石の砦の門をくぐる。
「じゃ、じゃあ、厨房棟のお手伝いから行きましょうか……」
己がこんな態度だからかバジルは所在なさそうだった。
それでも今日も答えは出せそうになかった。




