第2章 その4
高かった熱も下がってふらつかなくなったので「そろそろ牢に戻ります」と申し出たら「駄目に決まっているでしょう!?」と盛大に怒鳴られた。結局そのままサロンに居残ることになり、アルフレッドはいつもの席でいつもの日々の延長のごとき非日常を過ごしている。
モモの持ってきてくれた新聞を膝に広げ、見出しに目を走らせた。「印刷商、ファンスウ将軍とコリフォ島へ」の文字列が並ぶのは今日の日付の号である。ルディアたちがアクアレイアを発ったのは昨日の昼だそうだから、今頃はもうドナに着いているだろう。皆無事でいるかなと対岸の街に思い馳せる。案じたところで今の己にできることなどないのだが。
(俺が考えるべきなのは俺自身の進退だな……)
アルフレッドはふうと小さく溜め息をついた。
乙女像を奪還してくる。ルディアがそう宣言したのなら必ず持ち帰ってくるだろう。そうして多分、己はアニークの後押しで市井に戻ることになる。
はたしてそれがいいことなのかアルフレッドにはわからなかった。
ゴールドワーカータイムスのどの号を見ても民衆の悲憤と悲嘆、犯人に厳罰を与えたいという衝動が読み取れる。己が生き延びたところで防衛隊や主君のためにならないのではなかろうか。今はまだアルフレッド個人に向かっている憎悪も、今後どう飛び火していくか想像はあまりにたやすい。無論ルディアは百も承知でコリフォ島へ向かってくれたのだと思うが。
「ねえ、もう、そんな辛気くさいの読むのやめたら?」
と、考え込むアルフレッドに向かいの席からアニークが問うてくる。よほど難しい顔をしていたのかこちらを見やる女帝の眼差しは気遣わしげだ。
新聞の語るアクアレイアの騒動とは裏腹に王女の寝所は静かである。今日はダレエンとウァーリもおらず、アニークは書き物に集中していた。
詩を作る元気が出たのはいいことだ。アンディーン像の話が出るまで動揺のあまり彼女はとても平常心に戻れそうになかったのだから。
「別のにしておいたほうがいいわよ。情報収集も大事だけれど、まずは英気を養わなくちゃでしょう?」
言ってアニークはローテーブルに積み上がった本の中から気分転換できそうなものを見繕い始める。とにかく新聞はもう駄目と咎められたので、ならばと『パトリア騎士物語』の第一巻を手に取った。続編ではなく子供の頃から身に馴染む冒険活劇のほうである。これからしばらくこの部屋を出られそうもないし、頭から読み返すにはいい機会だと思ったのだ。アニークはそれを選ぶかと困惑しきった様子だったが。
「まあ、うん、没頭できるかもしれないわね……」
余計なことは何も言わず、アニークは再び書き物に戻った。彼女がパディに「民衆の心を宥める詩を書いてくれ」とせがんでいるのは知っている。詩人が快諾の返事など絶対にしないだろうことも。
彼女を見ていると本当に自分に素直だなと思う。迷いなく向けられる好意がアルフレッドには時々苦しい。
ルディアもこんなだったのだろうか。重すぎる忠誠心にたじろいで、自分は何も返せないのにと遠ざかろうとしたのだろうか。
思えば故郷に帰ってから他者の心を思いやり、想像力を働かせるということをずっと怠っていた気がする。考える余裕がなかったのは事実だが、無意識に考えるのを避けてもいたのもあるだろう。おそらく己は、誰に対しても。
左隣の静けさにアルフレッドは目を伏せる。すぐ正面ではさらさらと女帝がペンを走らせている。
パディが罵倒で返してきてもアニークはまた同じように「お願い」と必死に綴るのではなかろうか。アルフレッドの裁判がいつまで経っても始まらないのも彼女が十人委員会に圧力をかけてくれているおかげである。
恩恵に預かったままでいいのかなと悩まないわけではない。己はアニークに随分な態度を取ってきたのに気づけばこちらの借りばかりだ。せめて少しでも返せるものがあればいいのだが。
「…………」
アルフレッドはわずか目を上げてアニークの顔を盗み見た。若く健康そうに見える彼女もいつ世を去ってもおかしくないのだ。
(接合か……)
マルゴーから帰国した主君の話していたことをそっと脳裏に思い浮かべる。記憶を共有することになるが寿命も百年延びるらしいとのあの言を。
大きすぎる借りは作りたくないという思いとは別に、溌溂としたアニークの生がぷつりと途切れてしまうのを悲しく思う気持ちもあった。彼女にはもっと多くの喜びが訪れるべきだろう、と。
(姫様に頼んでも、こればかりは頷いてくれないだろうな)
ぱらりと手元の本を開く。そこにはまだ長い道を歩み始めたばかりの騎士と姫がいる。待ち受ける運命など何も知らない二人の姿はあまりに眩しい。
アルフレッドはページを繰った。真実がどうであれ、いつも己の心にあった物語の。
怨恨に囚われた詩人も、道を外れてしまった騎士も、ただ悲しい。
どうして人は間違わずに生きてはいけないのだろう。
******
わけのわからない一日がやっと終わったと思ったら、またわけのわからない一日が新たにやって来たようである。いい加減にしてくれと、皆して一体なんなのだと、回らぬ頭の片隅で惑う。
そう、昨日はわけのわからない一日だった。突然ファンスウが部隊を率いてやって来るし、遺失物がどうとか言って砦中荒らしまくるし、落ち着いてからも後片付けが大変だった。もう一度ウヤを問いただそうとした頃にはとっぷり日が暮れていて、眠りたいから帰ってくれと幕屋を追い出されそうになって。
砦に起きている異変について尋ねても「そんなものはありません。あなたの単なる妄想です」と否定されてあっさり終わった。納得できず食い下がったら怯えたバジルに「もうやめましょう」と止められて。
師でもある恩人に諫められればタルバとしては帰るしかない。ガラス工房に戻っても心はまったく晴れなかったが。
自分だけ何も知らない。確信はむくむく育ち、今や喉を食い破らん勢いだ。
今朝方ファンスウがコリフォ島へ旅立ったこともタルバは一切知らなかった。教えてくれたのも近所のお喋り好きの主婦で、同胞の誰かではない。
ドナで何かが起きている。それは間違いないことだ。
だがさすがに、この展開は己も考えていなかった。
「ごめんなさい、何も聞かずに僕の言う通りにしてください……!」
顔面蒼白の恩人にそう迫られてタルバはごくりと息を飲む。友人と認識している相手からロープを持って詰め寄られたら誰だって動転するだろう。
火のない溶鉱炉の隣、厨房に押し込まれるようにタルバは後ずさりする。
「バジル、何、」
問いかけに彼は答えてくれなかった。いや、声を発してはくれたのだ。ただそれがまともな答えになっていなかったというだけで。
「タルバさん、蟲なんでしょう? だからもうすぐ死ぬんでしょう?」
「は?」
被せられた言葉にまたもや頭が真っ白になる。誰から話が漏れたのか見当もつけられなかった。
酔っ払った退役兵が何か冗談を吹っかけたのか? それともウェイシャンかラオタオが? あるいはファンスウ一行に不可解な面でもあったのか──。
なんと二の句を継ぐべきかわからずタルバはバジルの丸い瞳を見つめ返す。迷いと悔いを振り切ろうともがくような双眸を。
「あなたの寿命を延ばす方法、一つだけ知っているんです」
タルバは三度声を失くした。まったく予期せぬ彼の言葉に。
本当にわけのわからないことだらけだ。自分もきっと大きな流れの中にいるのに、溺れているのか泳げているのかそれさえもわからない。
「絶対誰にも言わないでください……」
暗にバジルは共犯になれと言っていた。細い喉を震わせて。
のんびりとした昼下がり、普段なら「そろそろ砦へ行こう」と準備している頃合いだ。だが今日は、激震に次ぐ激震に立ち尽くすことしかできない。
「約束してください。僕たちだけの秘密にしていてくれるって。僕はやっぱりどうしても、あなたを助けたいんです──」




