第2章 その1
駆け足で急に何もかも動き始めたようだった。ずっと閉ざされた檻の中、外で何が起こっているか知る由もなく安穏と過ごしてきた、その帳尻を合わせるようにすべてが目まぐるしく変化していく。
ドナの街を守る砦の一室でバジルは苦い息を殺した。目の前には狐に宿ったアンバーと聖預言者に宿ったブルーノ。ここまで順調に計画が進んでいるのを確かめ合って二人は真剣な表情をしている。
「次はいよいよ十将を狙うわよ。段取りはもう頭に入ったわね?」
「う、うん。大丈夫」
女優に問われたブルーノが不安そうに頷いた。状況に応じて打つ手を変えていけるように、ここ数日バジルたちは度々こうして話し込んでいる。ラオタオ捕縛の虚偽報告に釣られて来たのが誰であればどう動く、どんな形で連携するかといったことを。
入念な打ち合わせが必要なのは十将を迎えた際、狐の肉体を空けておかねばならないからだ。中に誰か入っていれば「取り出せ」と命じられたとき困る。アンバーの身の安全のため、帝国幹部の接合及び入れ替えはバジルとブルーノ、退役兵に成り代わったマルコムやオーベド、新人小間使いたちのみで行うことに決まっていた。
「本当に大丈夫? ブルーノ君、顔真っ青よ?」
「ううっ、言わないで……! 頑張らなきゃって言い聞かせてるところだから……!」
最も場慣れしたアンバーなしで作戦を実行せねばならないなど不安しかない。切り替えの早いマルコムが「概要はわかりました。それじゃ俺たちは怪しまれないように中庭でいつも通りやっておきます」と引き揚げたのとは対照的に、ラオタオのねぐらに入り浸って不自然でないブルーノはいつまでも聖預言者の白い頬を引きつらせたままでいた。胃が痛いのは迷宮のメンテナンスと偽って何度も寝所に足を運ぶバジル自身もであったが。
(姫様は本気でジーアン帝国を乗っ取るつもりなんだな……)
一つ一つ又聞きの事実が実感を帯びて迫ってきている。王国の名が消えた後、主君らに降りかかった災難。帝国に残された爪痕。考えなくてはならないのはアクアレイアのこれからなのに、脳裏にはタルバの苦笑いがよぎってつらい。もうすぐ病気で死ぬんだと悲しげに目を伏せた。
本物のハイランバオスはコナーとの接合を経て寿命を百年延ばしたという。頭には延命措置という単語がぐるぐると踊っていた。──最近毎日考えている。どうしたら誰にもばれずにタルバに接合させられるか。
「一人で戦うわけじゃないから落ち着いて。バジル君もいるんだし、ね」
突然こちらに話を振られ、バジルは「はい!?」と声を裏返した。その勢いに面食らったアンバーにぱちくりと瞬かれ、大慌てで「あっ、いや! 僕だってついていますよ、ブルーノさん!」と取り繕う。
「マルコムさんも頭の回る人ですしね、その、ええと、皆で力を合わせれば、姫様の期待にも応えられるかと」
しどろもどろにバジルは弱気な幼馴染を励ました。ブルーノは「聖預言者の器に入ったウェイシャンのふりをする」という繊細な演技を求められる立場にある。十将とも直接対峙しなければならないだろうし、しっかりサポートしていかねば。
「ありがとう、バジル君。本当によろしくだよ」
「ええ、もちろんです」
にこにこ笑顔で応じつつバジルは内心の陰鬱をひた隠す。
昨日は晩酌に誘ってみた。しかしタルバは滅法酒に強かった。もう寝るかという段になってもケロリとして、とても不意をつける感じではなくて。
酔っているのは確かなのに隣のベッドでバジルが起き上がっただけで即座に覚醒してしまう。さすがは元天帝宮の衛兵だ。寝込みを襲うのは極めて困難に思えた。とは言えこの街でまともな睡眠薬など入手はできまい。一人では──協力者がいなければ──道を拓ける気がしなかった。
「…………」
頼んでみようかどうしようか。まだ打ち合わせを続けているブルーノたちを順に見やって逡巡する。気の優しい幼馴染なら同情してくれるかもしれない。アンバーだって深い悩みを一蹴はしないだろう。親身になってそうかそうかと聞いてくれるはずである。
けれど結局バジルには何一つ言い出せなかった。二人に相談してみたところで「姫様の判断を仰ごう」と諭されるのは目に見えている。そしてルディアがわかったと頷くところはバジルには到底想像できないのだった。
袋小路の行き止まりだ。これならまだケイトに協力を頼んだほうが現実的とさえ思える。「タルバの死病を治すために首を絞めるのを手伝ってくれないか」なんてどう伝えればいいのかもわからないけれど。
もう諦めたほうがいいのかな。不可能を思い知るたび気が沈む。国や仲間のためにならないと承知しているから尚更。
考えるのをやめようとしても心のどこかに「友人を見殺しにするのか?」と自問が引っかかったままだった。そうしてまた同じ思考を繰り返すのだ。
(ああ、もう、モモならきっと迷ったりしないんだろうな)
瞼の裏で想い人は「バッカじゃない?」と眉をしかめた。彼女に思い馳せた後もまるで心が静まらないなど初めてだ。
──と、そのとき、カーンカーンと砦外から高い鐘の音が響いた。どこぞの船が港に入ってきたらしい。
「十将の誰かかしら?」
「だだ、出した手紙の返事もまだだし、どうかな!?」
「でも一応、もう来てもおかしくはないんですよね……?」
びくびくと震えつつ手旗信号による続報を待った。間もなく入港した船団はジーアン旗を掲げていることが知れる。
「……!」
互いに顔を見合わせてバジルたちはごくりと息を飲み込んだ。
「それじゃ皆、任せたわよ」
言ってアンバーは細い腰紐をするりと解く。
慣れたとはいえ決して良い気持ちにはなれない「取り出し」を済ませると、バジルたちは予定通りに狐の寝所を後にした。
******
通せんぼをするようにぐるりと周りを取り囲まれ、ルディアはきつく眉根を寄せる。腰の曲刀に手をかけた兵士たちはいつでも抜刀できる構えでこちらと向かい合っていた。
「なんだこれは?」
厳しい口調で問いただすも人壁の向こう側に立つ老人はどこ吹く風だ。
「砦に赴くのは我々だけで良い。おぬしらは出航までこの船に留まっておれ」
そんなひと言が返されて内心チッと舌打ちする。
予想通りの命令だった。上陸許可はやらんと言われれば従うほか術はない。丘に聳える石の砦をちらと見上げてルディアは下唇を噛んだ。
「荷の揚げ降ろしくらいはしてもいいんだろうな?」
問えば古龍は「監視のもとでなら許そう。ただしおぬしら三人はドナの地に立つのでないぞ」と釘を刺してくる。警戒は明らかで、微塵の信用もないのがまざまざと窺えた。
「では行こう」
三十名いた兵の半数を甲板に残し、ファンスウはさっさと下船してしまう。傍らのレイモンドもアイリーンも「どうしよう?」と尋ねたそうにルディアに視線を送ってくる。
周囲には依然変わらず武装したジーアン兵。古龍が戻ってくるまではとても出歩けそうにない。歯痒いが、砦のことは砦の者に任せるしかなさそうだ。
「レイモンド、アイリーン」
顎で二人を促すとルディアは船倉へと歩き出す。さすがに中までついてくる兵士はおらず、ほっとした。おそらく船に残されたほうが蟲ではない人間の兵なのだろう。
「ドナでの交易分だけ下にやってくれ」
「あっ、は、はい!」
倉庫の奥で縮こまっていた水夫たちに仕事を与えると各所で人が動き出す。その喧騒に紛れるようにルディアはぽそりと肩越しに呟いた。
「最悪の事態に備え、一応いつでも船は出せるようにしておこう」
潜めた声にレイモンドたちの表情が張りつめる。
最悪の事態。間違いなくそれは「聖預言者や退役兵の肉体にアクアレイアの脳蟲が入っていると知られること」だ。古龍はほかの船の兵たちも砦へ連れて行ったかもしれない。アンバーたちに何かあったとき、武力でやり込められる可能性は高かった。
古龍の防御を解けぬ限り、接合を試みるのは不可能だろう。とにかく正体がばれないでくれと祈る。功を焦らなくていい。まずは我が身を守ってくれと。
(本物のラオタオがいないと露見すればどうなるか……。アンバーなら上手くやってくれると思うが……)
耳を澄ませば桟橋に隊列を成すジーアン兵と思しき足音がいくつも重なって響いてくる。長い待機になりそうだった。
******
やはり己の知らぬ間に皆に何かあったのでは。疑念は日増しに色濃くなる。
退役兵がラオタオに直談判すると言って鏡の間に押しかけてきたあの日からタルバには砦の空気が一変したように感じられた。若狐が滞在中にも関わらずゴジャたちはのびのびしているくらいだし、ラオタオもまるで表に出てこない。見張り役のウェイシャンと主館の私室にこもったきりだ。
おかしいのはバジルもだった。探るような目でたびたびこちらを見やるのにタルバが気づくと顔を背ける。昨日だって好きなわけでもない馬乳酒をしきりに飲もうと誘ってきて。どういう風の吹き回しだと尋ねたら「べ、別に。特になんでもありませんよ?」と見え見えの嘘をつかれた。
絶対に何かあったのだ。しかしそれがなんなのか皆目見当もつかない。
数日溜め込んだもどかしさをぶつけるようにタルバは低い声で唸った。
「おい、言えよ。お前ら何か隠してるだろ」
壁に押しつけた黒髪の男を眼光鋭く睨みつける。立襟装束の胸倉を掴まれたウヤは眉をしかめ、逃げ場を求めて視線を左右にさまよわせた。
だがあいにく厨房棟の裏口にほかの退役兵の姿はない。昼食後のこの時間は小間使いたちも屋内での雑用に従事していた。邪魔の入らないうちに聞くべきことを聞いてしまおうとタルバは拳に力をこめる。
「わかってんだぞ。お前らが陰でこそこそなんかやってたのは」
「……ッ」
凄んでもウヤは何一つ白状しようともしない。どころか彼は「一体なんの話です?」としらばっくれようとした。タルバ相手なら言い逃れできると踏んだのだろう。ふざけた男だ。同胞が真剣に事情を尋ねているというのに。
「誤魔化すんじゃねえ。お前らあの日ラオタオのところで──」
途中で言葉が切れたのは身内への非難を言い淀んだからではなかった。
カーン、カーンと高く大きく鐘の音がこだまする。昼下がりの港のほうで。
「……ッ!」
一瞬気を取られた隙をつき、ウヤが腕を振りほどいた。拘束から逃れた彼はそのまま中庭へと駆け出す。
「あっ、おい!」
「話ならまた後で! 今は急ぎますので!」
追いかけようとしたけれど、ちょうどそのとき裏口が開いて立ち止まらざるを得なくなった。厨房棟から飛び出てきたのがケイトだったからである。
「あっ、タルバ! 来てたのね、良かったわ。悪いのだけど少し中を手伝ってもらえない?」
彼女はタルバを認めると申し訳なさそうに頼んできた。これでもうタルバは完全に裏口に留まることになる。憎からず思う女を置いてよそへ行くなどまだ青い己にはできぬことだった。
「急ぎなの。昨日までって言われていた地下貯蔵庫の整理がまだ全然終わっていなくて」
「貯蔵庫の?」
普段聞かない仕事内容にやや首を傾げるとケイトは「ええ」と困り眉のまま話し始めた。
「昨日急に大きな水がめがいくつも増えたのは知っている? それで私たち、棚から何から模様替えしなきゃならなくなって。だけどドナ人は女子供ばかりでしょう? 重いものを動かすのには時間がかかるの。新入りは皆よく働いてくれるけど鏡の間に取られてばかりだし、今は冬に向けて保存食も作らなきゃいけないから、どうしても手が回らなくて」
鐘が鳴ったということは港に着いた船から物資が届くはず。その到着よりも先に片付けを済ませなくてはとケイトが早口に捲くし立てる。彼女がこんなに焦っているのは珍しい。ひょっとすると若狐から直接命じられたことなのかもしれなかった。
「わかった」
即答してタルバはさっと歩き出す。少しでも早く手を貸せるように厨房棟の地下へと急いだ。
言いつけを守れなかったと知られたらラオタオに何をされるかわからない。うっかり見つかったとき酷い懲らしめを受けないように、下働きの者の側には自分がいたほうが良さそうだ。
「そう言えばバジル君は?」
問われてタルバは隣接する主館のあるほうを見上げる。親切な異郷の友人も今は鏡の間にいるはずだ。ラオタオの寝所の隣で落ち着いてメンテナンスなどできるのかと朝にも確認はしたけれど。
「あっちの上」
それだけでケイトには伝わったらしい。「そう」とどこか心配そうな声が返る。彼女もまたあのガラス工を案じているのだ。酷薄な若狐に酷い仕打ちを受けていやしないかと。
(やっぱり止めりゃ良かったかな)
ウヤとも話したかったし、大丈夫だと言い張るから一人で行かせてしまったが、不安は大いに不安である。バジルは平気なのだろうか? ラオタオの名を耳にするだけであんなに怯えていたくせに。
(貯蔵庫がなんとかなったらちょっと様子見に行くか)
嘆息を一つ吐き零し、タルバはケイトと地下へ続く階段を下りた。
冷たい石の地下房では女たちが大わらわで穀物袋や酒樽を移動させていた。
******
大型船舶の入港制限はドナが自由都市になった際いくらか緩和されたものの、今なおずっと続いている。ドナに錨を下ろせるのは特別な許可を受けた船だけだ。だから港で鐘が鳴ったということは、アクアレイアの商人かジーアン人の誰かが来たという意味にほかならなかった。
マルコムは大急ぎで中庭の仲間のもとへ舞い戻る。まだ少し馴染みきらない大人の男の長い足を駆けさせて。
主館の前には退役兵の肉体と記憶を得た患者たちが集まっていた。ゴジャの姿のオーベドが不安げな目を向けてくるので視線で「しっかりしろ」と伝える。打ち合わせなら何十回としてきたじゃないか。本番だって練習通りにやるだけだ。
「よし、皆こっちに」
マルコムはまず戦力となる同胞だけで輪を固めた。第二グループの──己がアクアレイアの脳蟲だという自覚のない──退役兵とは距離を取り、彼らとは異なる動きを取りやすいようにする。
ウヤの記憶を持つマルコムには「今ドナの港に降りたのはファンスウだ」という確信があった。アークやハイランバオスの情報を求めてやまないあの男が捕らえた狐を長々と放っておくはずがない。知らせの返事を書く間も惜しんできっと来る、と。
主館からは間もなくブルーノも出てきた。愛らしい猫の姿で記憶喪失患者を励ましてくれた彼は今、駄犬の役を引き継いで聖預言者のなりをしている。
本物のラオタオがドナのどこにもいないことを隠すため、狐の器を空にする第一準備は済んだらしい。麗しき顔をこちらに向けてブルーノは静かに親指を立ててみせた。
果樹の間に小さな幕屋の林立する中庭の喧騒はいつも通りだ。退役兵が偽者と見抜かれることはまずあるまい。惰眠と美酒と快楽とを貪る彼らがわざわざこちらの行動を妨げることも。
後は古龍が到着次第、護衛がいれば適当に言いくるめて引き離し、密談には持ってこいだが悲鳴も漏れぬ奥部屋で首を絞めるだけである。
どきどきと早くも心臓は早鐘を打っていた。胸を押さえて鼓動を落ち着け、マルコムはファンスウの到着を待つ。──だが。
「えっ?」
マルコムは耳を疑った。開かれた城門から響いてくる多すぎる足音に。
ざっ、ざっ、ざっ。十人や二十人どころではない人の気配が一定のリズムを保って中庭に近づいてくる。
古龍が来るという推測の半分は当たっていた。だが彼は一人ではなかった。
来るとすれば退役兵を刺激しない少人数で──想定していたのとは正反対の状況に思わずごくりと息を飲む。
「邪魔するぞ」
五十人近い兵を引き連れたファンスウがひと声放つと酒を手に硬直していた退役兵らは我先に幕屋の中へ逃げ込んだ。将軍の相手などという面倒はしたくないという意思表示だ。「ラオタオ捕縛に関する交渉はこっちでやる」と伝えているので別に構わないけれど。
今はむしろ古龍を取り巻くジーアン兵のほうが問題だった。なぜこれほどの配下を従えてドナに来たのか理由が掴めずに困惑する。ファンスウが厳戒態勢を敷くほどの脅威はここにはないはずだ。
(な、なんで……?)
警戒心を持たせたとしたら先日の報告である。狐を取り押さえたという嘘を古龍に書き送ったのはマルコムだ。その中にまずい文言でもあっただろうか。考えても理由はわからずじまいだったが。
「狐っ子は今どこに?」
問われたブルーノがびくびくしながら主館の入口を振り仰いだ。「中だな」とファンスウが低く呟く。古龍が兵士を連れたまま一階広間に踏み入ったので、マルコムは慌てて彼の後を追った。
中庭からついてきたのはブルーノ一人だけだった。オーベドたちは一旦待機、鏡の間に小間使いとして潜り込んだほかの仲間が呼びにきたら加勢する手筈になっている。まずは己とブルーノがファンスウを一人にさせねばならなかった。護衛兵との分断を図るべく歩を早め、階段を上る古龍に並ぶ。
「あの、この大所帯はどういうことです?」
率直な疑問をぶつけるとファンスウは息子と信じて疑わない男に端的に説明した。
「コリフォ島にハイランバオスがおるらしい。あれを確実に取り押さえるのに兵は積めるだけ積んできた」
「えっ!?」
「それに道中何が起きても不思議ではないからのう。なるべく単独行動はせんことにしたのだ」
「な、なるほど……」
答えながら思わぬ展開に目を瞠る。聞けば防衛隊のもとに聖預言者の手紙が届いていたらしく、古龍はレイモンド・オルブライトの船でアレイア海を南下するところらしかった。同乗のルディア、レイモンド、アイリーンは現在船に留め置いているという。近くにはいても王女一行の助力は得られなさそうで、マルコムはわずか眉をしかめた。
(いや、まあ、元々俺たちだけでやる予定だったわけだしな)
ホール横の階段を上りきり、吹き抜けの廊下を歩む間にこそりと兵士の数を数える。
顔ぶれを見るに全員ジーアンの蟲兵ではありそうだが接合に持ち込める人数ではない。しかも古龍は彼らを側から離す気はないと宣言したばかりである。中庭に兵士らを送り返す妙案はさっぱり思いつかなかった。将軍の逆隣を行くブルーノも困り果てた顔で行軍に付き添っている。
どうしよう、とマルコムは大いに頭を悩ませた。「内密の話がありまして」とファンスウ一人を呼び出すのはおそらく可能だ。しかしそれでも護衛は近くに陣取るだろう。四、五人ならいざ知らず、四十人も五十人もオーベドたちとて捌ききれまい。「歓迎します」と宴に誘うのも浅はかだ。裏切り者を警戒しつつの道中で彼らが酒など飲むはずない。怪しまれておしまいだ。
(護衛を引き離す方法、護衛を引き離す方法……)
閃きが降りてくるまで歩調くらいは緩めたかったが違和感を持たれると厄介なので早足ぎみに歩き続ける。二階の階段も三階の階段も終わり、一団は鏡の迷宮に近づきつつあった。
(いや、これ、今日は無理なんじゃないかな?)
そうして出てきた結論にマルコムは歯噛みする。逃せぬ好機が到来したのにろくな手出しもできないなんて。
実はアンバーには「最終的なゴーサインはマルコム君が出してちょうだい」と頼まれている。退役兵と偽預言者、どちらとも連携しやすい位置にいる己が状況判断と情報の伝達をせよと。
ファンスウの乗っ取りはさっさと済ませてしまいたい。しかし鏡の間で待つ仲間たちと中庭のオーベドたちが揃っても古龍をどうこうするのは不可能ではと思えた。迷宮を上手く使えば短時間の分断は図れるかもしれないが、いかんせん蟲兵のこの人数だ。誰か一人に不審な動きを察知されればすべてが水泡に帰してしまう。
「なんだこの奇怪な部屋は?」
思考をまとめる暇もなくマルコムは迷宮入口に到着した。立ち並ぶ水銀鏡に困惑するファンスウに「良ければお楽しみになられますか?」と問おうとして口をつぐむ。単独行動を控えたい古龍相手にウヤならそんなことは言わない。
(ああ、くそ! 欲を出すな欲を!)
舞台がきっちり整うまでは絶対に動いてはいけないと狐面の女優から厳命を受けたことを思い出し、マルコムは苦い思いで古龍を招いた。「どうぞこちらへ。案内します」と先導すればファンスウは疑いもせずついてくる。
(こんなにうじゃうじゃ兵士がいなきゃ今すぐだってやれるのに……)
獲物を目の前に飛びかかれないのがただ歯痒い。だがこの来訪が往路のものなら復路も当然ドナに立ち寄るということだ。今回は古龍を見送って、蟲兵をどうするかの対策を練り、コリフォ島帰りの老将軍を待つほうが賢明なのではなかろうか。マルコムはそう思い直す。
切り替えた後は多少落ち着き、ドナの砦の現状維持に注力するのが最善だと頭を冷やせた。発覚するとまずいのは、本当は狐を捕まえてなどいないこと、そしてアクアレイアの蟲が退役兵と入れ替わっていることだ。今日はとにかくこの場を上手く誤魔化さなくては。
(大丈夫。練習通り、脚本通りやればいい)
迷宮の最後の曲がり角を曲がり、マルコムは寝所のドアをノックした。回数はきっちり三回。これは鏡の裏側に潜む仲間に向けた「決行せず」の合図でもある。
頭に入れていたパターンの応用ができたのはここまでだった。静まり返った奥部屋でマルコムは更なる難題を突きつけられることになる。




