第1章 その1
困ったことになったなとルディアは秘かに眉をしかめる。
甲板から見下ろす桟橋には大量のジーアン兵。揃いの立襟装束に身を包み、腰帯に曲刀を挟んだ高帽子の男どもがあちこちで輪をなしている。
整列せず十数人ごとの塊になっているのはレイモンドの用意した三隻の船に誰がどうやって乗り込むか最終調整しているからだ。何度数え直しても彼らはきっちり百と一名立っており、否応なしに溜め息が出た。
対ハイランバオスならジーアンはもっと隠密に──、それこそ十将が単独で動くはずと読んだのに、完全に当てが外れてしまった。すぐ横でアイリーンも神妙な顔をしている。良くない流れだと悩ましげに。
「やっぱりずっと固まって動く気みたいねえ」
彼女の視線は一番大きな輪の中心、細い龍髭を撫でつける老人に向けられていた。
単純計算で三十三人、少なくとも三十人は帝国の将の周りをうろつくことになるだろう。現時点で既にファンスウは十数名の精鋭に囲まれている。
頭だけでアイリーンを振り返り、ルディアは無言で肩をすくめる。
本当に困ったことになった。古龍がドナに赴いてくれるのはありがたいが、これほどの兵を引き連れてとはまったく想定していなかった。
はたして上手くファンスウの「本体」を手に入れることができるだろうか。古龍を配下から引き離すのはなかなか骨が折れそうだ。さすがに彼が例の鏡の迷宮で遊びたがるとも思えない。
いや、それよりももっと大きな問題がある。ドナに着けば間違いなく古龍はウヤに「ラオタオの中身」を要求してくるだろう。まさか狐の正体はアンバーでしたと明かすわけにもいかないし、誤魔化し方を考えなければ。患者たちと入れ替えた瓶詰めの退役兵を発見されても一大事だ。またしても砦での綱渡りは確定したようである。
(せめてこのジーアン兵が全員蟲なら良かったんだがな)
商船の高い船縁から兵士の群れを見やって唸る。
アンバーによれば「アクアレイアへ来ている蟲兵は五十人」とのことだから今視界にいる半分はおそらくただの人間だ。誤って手にかければ蟲のようには復活しないしジーアンとの更なる面倒を引き起こすのは想像にかたくない。
だからと言って何もせずに乗り切れる状況ではなかった。なんとかして隙を見つけ、ファンスウの記憶と器を奪わなければ。指揮権さえ強奪できれば兵が何人いようともどうとでもできるのだから。
「よーし、板階段渡してくれー!」
見下ろせば桟橋で大きく腕を振るレイモンドの姿が映る。
どうやら乗船が始まったらしい。ルディアの乗る帆船にも次々と兵士たちが上がってくる。船長直々にもてなされつつファンスウも甲板に現れた。
眼光鋭い二つの目が一瞬ちらとこちらを覗く。古龍はすぐに彼のために用意された船室へと消えていった。
この旅の目的は二つきりだ。
あの老人の肉体を乗っ取って、乙女の像を持ち帰る。
成し遂げるべきことはそれだけ。
******
風を孕んだ白帆が膨れ、どっしりした船体が波打つ海をぐんぐんと進み出すと、レイモンドはひとまずほっと息をついた。
急な出発だったけれど風向きが良くて助かった。この調子でコリフォ島まで好天候に恵まれたい。早く帰ってこられれば早く帰ってこられただけ幼馴染の負った荷を軽くしてやれるのだから。
(さあ、頑張らなきゃな)
船上を見渡してきょろきょろと船団長を探す。船の所有者は己だが、実際に各船の船長や水夫たちを取り仕切るのは彼の仕事だ。どこの所属のなんという兵がどの船に何人乗ったか、拵えた名簿を片手に船首へと足を向けた。
船団長はすぐにこちらに気がついて「おお、おお、ありがとうございます」と書類を受け取る。硬直気味の男の肩をレイモンドはぽんと叩いた。
「困り事が起きたら全部俺に言ってくれりゃいいから」
ジーアンの将を乗せているという重圧でへまが出る前にフォローしておく。船団長は低姿勢に「ええ、ええ、お願いします。私どもも無事コリフォ島まで到着できるように善処します」と頭を下げた。
「そう硬くなるなって。あいつらだって海の上じゃ足は俺らしかいねーんだ。ちょっとの不興で命取ったりしねーって」
「ま、まあ確かに」
冗談めかした軽いやり取りを続けると男の緊張は多少ほぐれたようである。じゃあと笑顔で手を振ってレイモンドは次に水夫らの持ち場を回った。
「どうだ、お前ら? 変わったことはねーか?」
「あっ、レイモンドさん! 今のとこ問題ないです!」
「倉庫の連中もちゃんと休憩取れそうだな?」
「はい、俺らは大丈夫です!」
帆船のさほど多くない船員たちに一人ずつ声をかけていく。「しばらく窮屈な思いさせるかもしんねーけど、礼は弾むからよろしくな」と。先程の船団長と同じように彼らもはにかんで頷いてくれた。
これでまあ当面船内は大丈夫だろう。守ってやるつもりがあると示すだけで雇われ人は心の余裕を持てるものだ。操船に関しても手慣れた者ばかりだし、いつも通り快い船旅を提供してくれるに違いない。
狭い通路でひと息ついてレイモンドはふと我に返る。付き合いの浅い船員の気持ちならわかるのに、友人が何を考えているかはなぜわかってやれなかったのだろうなと。
(アル……)
油断すると耳の奥に騎士の声が甦ってつらくなる。もう構わないでくれと、逃げ込むように家の中へ消えていった。
──お前といると、何も手にできなかった自分が惨めで仕方なくなる。
劣等感は己にも覚えのある感情だ。何度も願った。金より大切に思うものが欲しい、せめて彼のように夢があればと。
いつから捩じれていたのだろう? こんな風になるまで気づきもしなかった。
アルフレッドは真面目だから仕える主君に恋焦がれるなど有り得ない、彼はむしろこちらに苦言してくるかもと考えていたくらいで。己の無思慮な態度や言葉がどれほど幼馴染を傷つけたか、想像するだに胸が痛む。
兆候はあったはずなのに見逃した。気をつけて見ていればそれと悟れたはずなのに、自分のことにばかりかまけて。アルフレッドが悩みも何も打ち明けてくれなくて当然だ。
(本当に頑張らねーと、俺)
追い立てられるようにしてレイモンドは船内を歩き出した。
手でも口でも頭でも動かしていなければ息が詰まりそうだった。
******
埠頭に積まれた荷箱の陰で目立たぬようにこっそりと、遠ざかっていく船影を見送る。潮風に捲れかかったフードを慌てて押さえつけ、モモはふうと息をついた。
主君らを乗せた船団はこれからアレイア海東岸──、ドナとヴラシィを回る定番ルートでコリフォ島を目指すそうだ。帰国予定は約一ケ月後。それまではなんとか兄への批判と攻撃をやり過ごさなければならない。
(とにかくまずはアル兄に聖像のこと知らせなきゃね)
税関岬の向かいに聳える薔薇色の宮殿を仰ぎ、モモは漕いできたゴンドラに乗り込む。舳先を向けたのは壮麗なるレーギア宮ではなく、大運河沿いに並ぶ貴族の邸宅──その一つであるブラッドリーの屋敷だった。
アルフレッドが女帝のサロンで看病されているということは、先日のように秘密裏に二人で会える算段はつけられないということである。面会には公的な許可が必要だろう。幸い伯父は十人委員会の一員だ。
そういうわけでモモはウォード邸に舞い戻った。ほかは無理でも誰より兄に目をかけてきたブラッドリーなら泣き落とせると踏んだのだ。
目算は正しかったようである。書斎で休んでいた伯父は「お願いがあるの」とモモが告げるや「アルフレッドのことか?」と尋ね返した。ここ最近の心労でげっそりこけたブラッドリーの渋面を見上げ、こくりと頷く。
「半地下牢からは出してもらったんでしょ? 今なら会えるんじゃないかなと思って」
モモの要求に最初ブラッドリーは首を振った。だがこちらも快諾は期待していない。「家族との面会、許可してもしなくても変わらないよ。アル兄の立場、これ以上悪くしようがないもん」ともう一段声を強める。
「…………」
苦々しく嘆息し、ブラッドリーは椅子に腰かけたまま項垂れた。そうすると彫りの深い目元の影がいっそう濃くなる。机の端に積み上げられた騎士物語に寄りかかる彼の姿に往年の力強さはなかった。
どうにも心が安らがないとき、伯父はいつもこの部屋にいる。好きな小説を読むことが気分転換になるのだろう。今は手元の本を開いて現実逃避する力もなさそうだけれども。
「……聞き出せそうなら聞いてくれるか? ユリシーズと何があったのか」
絞り出された悲痛な声にモモは「うん」と小さく答える。真相を共有できぬ気まずさを誤魔化すように視線を落とした。
「女帝陛下やジーアン兵の目があるから、どこまで喋ってくれるかわからないけど……」
「アクアレイアの不利益になりそうな話なら聞かなくていい」
軍人らしくブラッドリーはきっぱり言う。だが彼の言動は明らかに矛盾していて内心の惑乱が見て取れた。不利益な話が出るかもと思うなら最後まで非情に徹すればいい。面会なんて許可せずに駄目だと首を横に振れば。
胸中でごめんねと詫びる。せめて身内には会わせてやりたい。そんな情けに付け入るような真似をして。
ルディアたちがアンディーン神殿の聖なる像を取り戻そうとしていることは十人委員会にも秘密だった。ジーアンとの裏取引などもとより明かせるはずもない。レイモンドはただ船団と水夫を徴発されただけという形になっている。教えてやれれば伯父も少しは楽になれるのだとは思うが。
(もうちょっとだけ待っててね。聖像が返ってきたらアル兄のこと助けられるから……)
アクアレイアのためではなくアルフレッドのためだけに宮殿への立入許可を与えてくれたブラッドリーはモモに書状を持たせると書斎の扉を押し開いた。
行けと無言で促される。人に見つかる前に、と。
ぺこりと小さく一礼し、ケープのフードを被り直し、モモは館を後にした。




