第5章 その1
計画はこのうえなく上手く行った。退役兵は仲間が別人に成り代わったとは気づきもせず、三十人の新入り小間使いが二十人に減じたことに至っては認識すらしていなかった。
不審火を鎮めた海軍がガレー船を守りつつ放火犯を探す間、ルディアたちはなんの問題もなくドナ乗っ取り作戦の第二段階へと進んだ。即ち退役兵全員の完全なる入れ替えに。
「実験は成功よ……! 『接合』で記憶を得れば第二グループの脳蟲もすぐに活動できるみたい!」
珍しく頬を紅潮させてアイリーンが振り返る。衝立に身を隠す彼女の視線の先にはポリポリと頭を掻いて迷宮へ引き返す「退役兵」の姿があった。
中身はもちろんアクアレイアの脳蟲だ。だが接合には患者たちを使ったわけではない。アイリーンに試させたのは昨日行ったそれとは別の実験だった。
ルディアがドナに連れてきた脳蟲は二つの組に分けられる。第一グループはブルーノと療養院の患者たち、ある程度の自我を獲得済みの蟲たちだ。対して第二グループは一度も生物に寄生した経験のない蟲、つまりまだ自我と呼べる自我を持たない「海中から採取しただけの脳蟲」だった。
普通脳蟲は一人目の宿主に取りついてから言語を用いるようになるまで半年かかる。人間の赤子に比べれば恐るべき学習速度だが、それでも自己の確立に半年は必要なのだ。
しかし今、一日食用鶏に宿していただけの脳蟲は接合が完了するやすっくと立ち上がり、危うげない足取りでラオタオの私室を後にした。コケコッコーと鳴くこともなく、羽をばたつかせる動作もなく。
未成熟な脳蟲でも「接合」により人格形成を早められるのではないか。この仮説が証明されれば水入り皮袋に詰めて持ち込んだ脳蟲と退役兵を総入れ替えしてしまえる。そして結果はほぼルディアの望んだ通りとなったのだった。
「大丈夫そうです! 普通に喋って普通に皆と飲んでます!」
次に迷宮を抜けてきたのはウヤの姿のマルコムだった。先駆けて退役兵らの一員となった利発な少年が「実験体」の庭での様子を報告すると安堵の空気が寝所に満ちる。
マルコム曰く、彼は自身をジーアン人と思い込んでいるそうである。千年の長きに渡る「接合元」の記憶に比べ、一日足らずの家畜の記憶など紙より軽い。「鏡の間なんて通ったせいかなんだか妙な幻覚を見たぜ。鶏になって小間使いに飼われてんだ」と笑い話にしていたということだった。
「すごいすごい! 姫様の読み当たったね! 脳蟲いっぱい連れてきて大正解だったじゃん!」
水袋を守るモモが双眸を輝かせる。狐の身体に入り直したアンバーも斧兵の隣でうんうん頷いた。
「アクアレイアの蟲だって自覚があればなお良かったけど、退役兵の『本体』を抜き取って人質を増やせるんなら十分よね。天帝や帝国への忠誠心も薄れるでしょうし!」
彼女の言にハイランバオスの肉体を得たブルーノも、迷宮管理と偽って砦に呼び出したバジルもなるほどという表情だ。ルディアが「味方としての働きに期待できずとも邪魔にならねばそれでいい」と続けるとマルコムから頼もしい声が返った。
「退役兵は俺とオーベドで舵取りします。皆さんが動きやすいように」
彼の意気込みは本物だ。何しろもう戻る身体を処分してしまったのだから。
本当は可能なら第二グループの脳蟲は動物よりマルコムやオーベドの空いた肉体に宿らせたかった。初めはそうしようと試みたのだ。だがどうしても器に脳蟲が定着せず、遺体を使い回すのは諦めざるを得なかった。
一度でも「最初の宿主」となった者は以後「一人目」にはなれないらしい。アイリーンも過去に同じ実験をしてやはり失敗したと言っていた。
宿主に最も強く残った思いが蟲の人格の核となる──おそらくその仕組みが関連しているのだろう。「核」の残っていない脳では蟲は成虫になれないのだ。
(ともあれ準備は整った。後は順次中身を入れ替えていくだけだ)
ルディアは改めてアンバー、ブルーノ、マルコムと顔を合わせる。「段取りはわかっているな?」と問えば三者は一様に頷いた。
「第二グループの脳蟲は小間使いに紛れた患者たちが夕食用の家畜に仕込んでくれるのよね?」
「そうしたら僕とアンバーさんは味方数人とこの部屋に待機して」
「俺かオーベドが退役兵を一人ずつ迷宮に送り込む──と」
三人は揃って首を絞める身振りをしてみせる。これだけ呼吸が合っていれば連携に問題はなさそうだ。三日も経てば砦の退役兵たちは全員瓶の中だろう。
ルディアとモモとアイリーンにはこれ以上の手伝いはできなかった。十将に怪しまれないうちにアクアレイアへ戻らなければならないからだ。
既に昨夜マルコムがウヤの字を真似てファンスウに書を送ってくれている。捕り物は無事完了した、防衛隊は海軍のガレー船で送らせる、と。
「近いうちにファンスウがドナを訪ねてくると思う。捕らえた狐を放っておく男ではないだろうからな」
狙えそうならそのときに古龍を落とせと静かに告げる。力強い声で「任せて」と答えたのはアンバーだった。
「悪知恵ならここに山ほど入ってるもの、やってみせるわ」
自らの頭を指して女優がばちんとウィンクする。「頑張って!」というモモの声援を受け取って彼女は握り拳を固めた。だがその晴れやかな表情は、長くはもたずに暗く翳る。
「姫様たちも気をつけてね。ラオタオの鷹がジーアンの鷹じゃないこと、もうバレてると思うから」
忠告には「ああ」と返した。何かあってもそこは白を切るしかない。
ルディアがコナーに会うために隣国マルゴーへ赴いたとき、秘かに尾行していたという三羽の鷹。アンバーは彼らなら重要な情報を漏らすことはまずないと言う。鷹に入っている脳蟲は肉体を得て久しく、接合によってジーアン側の状況も心得ている。アークの話もコナーの話もしてはならないとわかるはず。なんなら口裏を合わせて誤魔化してくれていると思う、と。
不安な点は多々あったが今は彼女を信じるほかなかった。それにジーアンにアークの所在を知られたとして十将がすぐに動き出せるわけではない。聖櫃は巨大であり、かつ山奥に存在するのだ。奪うためには策か人手、あるいはその両方が必要だった。
今一番肝心なのはドナの砦を落としきること。そしてできるだけ早く十将の記憶と肉体を手に入れることだ。それさえ済んでしまえばもっと多様な戦略を選べるようになるのだから。
(急がなければ。アルフレッドの刑が執行される前に)
ふうと短い息を吐く。
追いつめてしまった者には追いつめただけの責任がある。彼は決してここで死ぬべき男ではない。救い出すのが己の義務だ。
「アンバー、ブルーノ、マルコムたちもドナのことは頼んだぞ」
人払いした狐の私室で残していく仲間たちと見つめ合う。一人だけうつむき加減で目の合わなかった弓兵にも「バジル、お前も」と呼びかけた。
「あっ、は、はい!」
どもり調子の返答にルディアは思わず眉をしかめる。タルバには何もしないと約束したが、ジーアン人など弟子に持つ彼の胸中も心配だ。
「が、頑張ります。アクアレイアとアルフレッドさんのために」
バジルはそう声を震わせた。わかっているなら何も言うまい。不要な小言を連ねるのはやめにしてルディアは最終確認に入る。
「それでは私とモモとアイリーンはこれよりアクアレイアに帰還する。朗報を待っているぞ」
アンバーたちの無言の頷きを一瞥してルディアはくるりと踵を返した。
打つべき布石を打ち終えて祖国の港に降り立ったのはこの翌日、夕暮れ前のことである。帰り着いたアクアレイアではまた新たな展開が待ち受けていたのだった。




