第4章 その4
潮の香りの風に紛れてミャア、ミャア、と声が重なる。海の広がる西方から心地良い音楽のように。ドナで迎える朝は意外に静かだった。街外れの工房に響くのはカモメたちの猫によく似た鳴き声だけ。日が昇っても通りを歩く住人は少ない。
アンバーとの約束通り再訪した砦にも活気らしい活気はなかった。夜通しの宴を終えた退役兵は各々の幕屋で眠りに就いているようだ。中庭を通過する際に絡まれたら厄介だなと案じていたが、ルディアたちが足止めを食らう心配はなさそうだった。
(やはりこちらの情報は彼らに渡っていないらしい。『ラオタオ』のおまけ程度に見なしてくれているようだ)
それならそれで都合がいい。内心薄笑みを浮かべつつ幕屋の群れを通り抜け、ルディアは中庭の一角に鎮座する主館の扉を押し開く。城砦唯一の居住空間は街のどこよりも人の気配に溢れていた。
「こっちです!」
ドナ人らしき小間使いたちがホールの掃除に励む横を弓兵が慣れた足取りで歩いていく。ホール脇の階段を上り始めたバジルに続き、ルディアたちも上階へ向かった。細い通路を進む途中、布を被せた薄板をあくせく運ぶ下女たちに追い抜かれる。それが鏡だと気づいたのは目的地に着く頃だった。
「あっ、あれです。あそこが鏡の迷宮ですよ!」
バジルの指が示す先には一見なんの変哲もない木製の扉があった。変わった点があるとすれば扉の前に海軍兵士がずらりと並んでいたことだろう。付近に砦の主人がいるのは誰の目にも明らかだった。
「はん、やっとおでましか」
睡眠不足の露わな顔でレドリーがこちらを睨む。
極力刺激しないように「将軍は?」と尋ねると海軍少尉──今の階級は不明だが──は無愛想に顎を扉のほうへ向けた。
どうやらアンバーは中で待っているようだ。さっそくルディアは扉をノックしようとする。が、伸ばした指は寸前で不躾な声に止められた。
「お前ら粗相してくれるなよ? ラオタオ将軍は二日酔いの聖預言者殿を奥の寝室で看病してる。用が済んだらとっとと出ていけ」
これくらいは正当な主張だとでも言うようにレドリーは「これ以上防衛隊の不始末を押しつけられるのはごめんだぜ」と吐き捨てる。どう反応したものか少し悩んでルディアはひと言だけ返した。
「大丈夫だ。わきまえている」
従弟によく似た赤髪の少尉はこちらの返事をせせら笑う。もっと面倒な因縁をつけられる前にルディアはさっさとこの場を離れることにした。
「あ、ノックはいりませんよ。中もまだ最後の大仕上げでバタバタしていると思いますし」
と、木扉を叩こうとした矢先、今度はバジルが割り込んでくる。弓兵は肩を入れて重いドアを押し開けた。するとそこには見たこともない光景が広がっていたのだった。
******
なるほど確かに鏡の迷宮はひと言で表せないほど稀有な創作物だった。昨夜タルバが「見ればわかる」と告げた意味をようやくルディアも理解する。
扉を開けてすぐ正面に置かれていたのは一枚の大きな姿見。だしぬけに己の像と対面させられ、モモやアイリーンも面食らった様子だった。
薄暗い室内を埋め尽くす水銀鏡──これはバジルが開発したものらしい──は表面を研磨しただけの金属鏡とは比較にならぬ明瞭さで周囲の光景を映している。鏡と聞いて当初想像したものと今目の前にあるそれは次元の異なる代物だった。鏡とは普通もっと薄ぼんやりと曇っていて、これほどはっきり輪郭を描けるようなものではない。
(うっ……!)
慣れぬ視界に立ち眩み、ルディアはぎゅっと瞼を閉じた。薄目を開けて己を囲む幾多の面を見渡せば更に足元が不安になる。
ブルーノの青い頭がそこかしこで存在を主張して、道の先に己を映さぬ鏡があればほっとした。腕や足を動かすと鏡像まで釣られてなんだか落ち着かない。好奇心旺盛なアイリーンや怖いもの知らずのモモは「詳しい製法が知りたいわ」「しっかり自分の顔見るの初めて!」などと目を輝かせていたが。
バジルによれば最初この迷路は主館の一階ホールに建設されていたらしい。それをアンバーが三階の私室に作り直させたそうである。
思惑はおそらくこちらと似たり寄ったりなのだろう。記憶喪失患者の身柄をしつこく求めてきたことも、退役兵を分断し得る迷宮を管理下に置こうとしたことも、同じ目的を暗示している。
彼女もまた考えたのだ。アクアレイアの脳蟲に退役兵のふりをさせようと。
(早く直接話をしたいな)
逸る心を抑えてルディアは先頭を行くバジルに続いた。寝室にはゴールからしか入れない構造になっているらしく、到着までには今しばらくかかりそうである。
悪酔いしないようになるべく鏡面を見ないで歩く。それでも鮮明すぎる像は大いに視覚を惑わしたけれど。
(それにしてもものすごい技術だ)
合わせ鏡は多重に像を映し合い、存在しない奥行までも錯覚させた。天井と床のほかは鏡に挟まれた通路ばかりで角を曲がるたびに方向感覚が失われる。どれが鏡に映る仲間でどれが本物の人間なのか判別に迷うほどだ。
迷路自体も複雑だった。道が分かれている以外にも段差があり、くぐらねばならぬ穴があり、作り手の性格が出た様々な趣向が凝らされている。鈍い者が一人で攻略しようとすれば何十分とかかるのではなかろうか。
(アクアレイアにも同じ遊具があれば──いや、この水銀鏡が数枚あるだけで諸外国から注文が殺到するぞ)
そっくりそのままの姿を映す鏡を見やって改めて驚嘆する。科学の最先端であるジーアンにたった一年半暮らしただけでこんなものを作ってしまうとは、恐るべき才能だ。
構造が頭に入っているらしいバジルはすいすい先へ進んだ。一度通ったのとまったく同じに見える道でも弓兵は迷いなく最短距離を選択する。
複雑に反射し合う鏡には時折内部で働いている小間使いたちの姿が映った。設計図を手に彼らを指揮するタルバの背中や、オーベドにマルコムたちもだ。患者らは先達混じって真面目に汗しているようである。
「あっ、ゴールが見えましたよ」
と、バジルが正面の姿見を指差す。どう見てもそこは行き止まりの袋小路であったのだが、弓兵は事もなげに奥の鏡をスライドした。するとたちまち道が開かれ、寝所の入口が出現する。
「ええっ!? それは迷路としてどうなの!?」
斧兵の突っ込みにバジルは「違うんです! これには理由があるんです!」と大慌てで言い訳した。
「こうしておかないと『先越されてムカつく』とか『あいつズルをしたんじゃないか』とか文句つけてくる人がいるんですよ!」
そう聞いてなるほどと納得する。誰をゴールさせて誰をゴールさせないか、運営側で調整可能にしておけば対人トラブルを回避できるというわけだ。
通り過ぎるとき確かめると仕掛け鏡は死角から操作できるようになっていた。退役兵を遊ばせる際は物陰に隠れた弓兵が姿見を出したり引っ込めたりするのだろう。上手いこと考えたものである。
「ふう、着きましたよ。それじゃノックしますね」
寝室の扉を前にバジルがこちらを振り返る。アイリーンが息を飲み、モモが頬を熱くする横でルディアは小さく頷いた。いよいよだ。このドアの向こうにアンバーがいる。
コンコンと弓兵が硬質な音を響かせると中から「はあい」と間延びした狐の声が返された。
「あ、バジル・グリーンウッドです。そろそろ工事が終わりそうなので報告に参りました!」
「入って入ってー」
名乗ればただちに入室するよう促される。扉に鍵はかかっておらず、バジルが押すとすぐに開いた。普通一人はいるだろう衛兵の気配もない。
「あ、皆揃ってる? 待ってたよー」
西方式の天蓋付きベッドが一つと東方風の長椅子が一つ、いくつかの衝立とキャビネット。必要な調度品がある以外、広い寝室はがらんとしていた。
腕を広げて女優は歓迎の意を告げる。その傍らには具合悪そうな偽預言者がかろうじてといった様相で立っていた。
「バジル君、昨夜はぐっすり眠れた? 防衛隊の皆もありがとね。出来のいい小間使いを三十人も増やしてくれて」
隣の男に構うことなくアンバーは礼を述べてくる。「おかげでドナも空気一新できそうだ」と意味ありげな微笑みが浮かべられた。
ルディアは静かに懐から雌ダチョウの羽根を取り出す。それを元の持ち主に差し出しながらなんでもないように呟いた。
「『接合』の話は彼らにも伝えてある。心構えは皆できているよ」
アンバーはわずか瞠目し「そりゃ段取りが早くて助かる」と口笛を吹く。
「じゃあ最初に何するかも説明はいらないわけ?」
「ああ、心得ているつもりだ。この状況ならやることは一つしかないしな」
ほとんど同時に偽預言者に目をやった。二日酔いの半病人はそこでようやく違和感を覚えたらしい。「え?」と間の抜けた声が響く。
アンバーが防衛隊と接触を図れなかったのは彼女が監視されていたからだ。ならば退役兵を相手取る前にその目を塞いでおかねばなるまい。実験台にする一人目も必要だったしちょうど良かった。捕らえて「中身」を取り出すには。
入口は既にバジルとアイリーンが固めていた。武器こそ構えていなかったがモモも臨戦態勢である。
「えっ? 何?」
注意を引くためルディアは腰のレイピアを抜いた。狙い通り偽預言者は一瞬こちらに気を取られ、命取りとなる隙を生む。標的の背後に回ったアンバーはあれよと言う間に偽預言者の喉を絞めた。
「……ッ!?」
何が起きたのかわからないという顔のまま実験台はもがき暴れる。剣を鞘に戻してルディアもアンバーに加勢した。
呼吸を阻む狐の腕を剥がそうと必死な両腕を上から押さえ込んで無力化する。前後から頸動脈を圧迫された偽預言者は青ざめながら身をひねった。
が、こちらに飛んできた蹴りは途中でモモに捕まって足全体を捩じられる。痛みに抵抗が弱まった隙を突き、掴んだ手首を返してしまえば制圧はたやすく完了した。
「っ……」
本調子でない身体ではそれ以上どうすることもできなかったらしい。やがてがくんと偽預言者は項垂れて、だらりと四肢を垂れ下がらせた。
目配せすればアイリーンが駆けてくる。「水差しはキャビネット、洗面用具はひきだし」とアンバーから的確な指示が飛ばされた。
「こっちの蟲は目から出るの。うん、そう、顔が浸かってれば問題ない」
念のために後ろ手に腕を拘束したまま聖預言者のご尊顔を水桶に突っ込む。ややあってふよふよと袋状の見慣れぬ蟲が泳ぎ出したのを確認し、ルディアはそっと手を放した。
「よし、次はブルーノだ」
続いて一度ハイランバオスの身体を下げ、ガラス瓶に入れてきた剣士を水中に投じる。型違いの蟲の接触で起きるという「接合」はすぐに始まった。
「…………」
固唾を飲んで皆が見守る。蟲と蟲は磁石が引き合うようにぐんぐん接近し、ぴったりとくっつくとそのまま離れなくなった。まるで糊づけでもされたかのようだ。丸みのある袋形のジーアンの蟲と、線形で繊毛の多いアクアレイアの脳蟲が、寄り添い合って水桶の中を漂っている。
見た目上のわかりやすい変化はない。いや、あると言えば一つだけあった。半透明の蟲の内部でドクン、ドクンと波打っていた球状の何かが二つに割れ、接触部から半分ずつ交換されたのだ。
まさか卵ではないだろう。どちらかと言えばそれは蟲にとっての脳や心臓に当たるものに見えた。
「……終わったわね」
アンバーの囁きと同時、くっつき合っていた蟲たちが離れる。袋虫のほうをガラス瓶に封じるとルディアは再び聖預言者の頭を水桶に浸らせた。
これでハイランバオスには「ジーアンの蟲の記憶を持ったブルーノ」が宿るはずである。アンバーが偽預言者を酔わせて弱らせてくれていたおかげで話が早く済んで良かった。相変わらず彼女は機転が利く。
「さっきまでハイランバオスに入ってたのはどんな奴なの?」
モモの問いに女優が答える。
「本当に仕方なく代役をやらせてたって感じの駄犬ね」
返答を聞いてルディアはううむと眉根を寄せた。どうせなら帝国幹部の持つ情報が欲しかったところだ。贅沢も言っていられないが。
「う、ううん……」
と、ぴくりと聖預言者が身じろぎする。くぐもった声を響かせて端正な顔が上を向いた。
「気がついたのね、ブルーノ君。皆がわかる?」
そっとブルーノを助け起こしてアンバーが問いかける。しばらく彼は「え? あれ?」とぐるぐる目を回していたが、やがて焦点が定まると今度は不審げにルディアたちを一瞥した。
「……えっ? えっ?」
「大丈夫よ、ブルーノ君。混乱するのは直近の記憶が整理されていないせい。皆の顔をよく見てちょうだい。誰が誰だかわかるわね?」
接合の経験者だと窺わせる物言いでアンバーはブルーノに呼びかける。不安いっぱいに目を泳がせていた彼も少しずつ己の置かれた状況を把握したのか「あ、せ、成功したんだ?」と長い息を吐き出した。
「……うん、うん。この人はラオタオのこと監視していたウェイシャンだね? 僕はブルーノ・ブルータス」
「そう、正解!」
落ち着いて話し始めたブルーノにほっと安堵の空気が満ちる。「記憶の区別、ちゃんとつくよ」との申告にルディアは「よし」と拳を握った。
「これで後は迷宮のゴールまで辿り着いた退役兵を一人ずつやっちゃえばいいだけね!」
沸き立つアンバーもやはりこちらと同じ考えだったらしい。彼女はもう狐を演じるのはやめにして嬉しげに微笑みかけてきた。
やっと正体を明かせた喜びと手を取り合える安心感で瞳は光に溢れている。
大丈夫。きっと何もかも上手く行く。言葉もろくに交わしていないのに心は早くも通じ合った。
「ア、アンバー……!」
我慢できなくなった斧兵が彼女の胸に飛び込んでいく。「来てくれてありがとねえ」とアンバーは少女をよしよし抱きとめた。
「あの、その絵面、僕の心臓に悪いのでほどほどでお願いできます?」
扉の側から見守っていたバジルが控えめに水を差す。また少し緊張がほどけ、皆の顔が綻んだ。
「それにしてもさすがは姫様。記憶喪失患者にどう脳蟲や接合の説明をするか悩んでたけど、滞りなくドナ乗っ取りを進められるわね」
「患者たちを寝室に入れて構わないか? ブルーノが無事入れ替わりできたとわかれば彼らも力づくだろう」
「ええ、呼んできましょう。迷路の工事も終わっている頃でしょうし」
そう言ってアンバーが部屋を出ようとしたときだった。港のほうから甲高い鐘の音が響いてきたのは。
「?」
カンカンカンと急ぎ気味の警鐘が鳴る。正午にはまだ早い。なんの知らせだと首を傾げた。灯台守と砦の海軍兵士の間で手旗信号でも交わされたのだろう。少し経って今度は迷宮の入口から複数人のどよめきが聞こえた。
「何かあったー!?」
狐の声でアンバーが尋ねる。するとレドリーらしき男がこれに返事した。
「港で火事が起きたそうです! 船に燃え移らないように俺たちも行ってきていいですか!?」
港で火事。思わぬ知らせにルディアは大きく目を瞠る。どう考えても人手を割くべき非常事態だ。忌々しげに舌打ちしてアンバーは「どうぞどうぞ!」と了承した。ばたばたと忙しない足音が遠ざかると彼女は眉間にしわを刻む。
「始まったわね」
何がだと問えばアンバーは手短に帝国幹部内で若狐が捨て置けぬ危険人物と見なされている現状を語った。マルゴーへ向かったルディア一行を見張らせていた鷹にろくな報告をさせなかったから、と。
「……!」
どうやらアンバーは「ラオタオ」として粛清を受けようとしているらしい。古龍にそそのかされた退役兵が武器を手にもうすぐここへ来ると思うと穏やかならぬ推測が告げられる。
思った以上にアンバーは逼迫した状態にあったようだ。口角に浮かべられた笑みには彼女らしくない焦りの色が滲んでいた。
「案ずるな。後はすべて私に任せろ」
これだけ心強い駒が揃っているのに指揮官の己がしくじるわけにいかない。ルディアは室内を見回すと素早く各々に指示を下した。
「アンバー、無関係なドナ人は本来の持ち場に戻せ。マルコムたちは大急ぎでこの部屋に呼ぶように。バジル、なるべく一人ずつ退役兵を迎え撃てるように仕掛け鏡を動かせるか? それとタルバを巻き添えにしたくなければ入口から離れるなと言っておけ。ブルーノはこのまま偽物の預言者らしく立っていろ。モモとアイリーンは衝立の裏に待機だ」
一気に高まった緊迫感にごくりと息を飲む音が響く。
大丈夫だ。自信を持ってルディアは皆を配置につかせた。「接合」のことも、今しがた聖預言者がこちらの味方に転じたことも、退役兵たちは知る由もない。優位に立っているのはこちらだ。
落としてみせる。蟲たちの巣食うこの砦を。




