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第4章 その5

 グレース・グレディが同乗を強く拒まなかったのは「王国にハイランバオスは害せない」と確信しているがゆえだろう。今も彼女は余裕たっぷりに笑っていた。広々とした大運河の真ん中で、孤立無援の状況でも。


「先程ユリシーズさんは戻ってこないとか仰っていましたが、彼に何かあったのですか?」

「ええ、実はレースの途中、座礁した陛下の舟に彼の舟がぶつかってきまして。幸い陛下にお怪我はなかったのですが、故意にやったのではと海軍が取り調べを」

「おや、そんなことがあったとは」


 臆面もなくグレースは驚いてみせる。だがまだレガッタの雰囲気に飲まれているのか冷静ではないようだ。異国の男の姿を借りていることも忘れ、危なげなく揺れるゴンドラに直立している。気づいた素振りを見せぬようにルディアはにこやかに話を続けた。


「彼ほどの軍人が祖国を裏切って陛下に刃を向けるわけがないのですがね」


 グレースは「はは」と嘲弄する。ハイランバオスのしたり顔で。


「わかりませんよ。こちらの王女は彼を手酷く袖にしたのでしょう? それで逆恨みしたのかも」


 舌打ちしたい気分を堪えて「まさか」とルディアは肩をすくめた。


「それだけでこの先の人生すべて棒に振れると?」

「男女の関係は一筋縄ではいきません。きっと色々あったのです」


(……なるほどな。そうして私怨で片付けて、自身やグレディ家とは無関係を装うつもりか)


 やはりユリシーズは捨て駒だったらしい。複雑な怒りがルディアの胸を燃え上がらせた。

 最初からそのつもりで仲間に引き入れたのだろう。グレディ家の娘を与えるふりをして、失意の底にあった彼を。

 こうなった今、ルディアが彼にしてやれるのは諸悪の根源を滅ぼすことのみである。百倍にして返してやるぞと胸に誓う。


「……ところで宮殿へ帰るのではありませんでした?」


 怪訝そうな問いかけにルディアはにこりと微笑んだ。ゴンドラは既に税関岬も国民広場も通り過ぎ、王宮裏の狭い水路に入っている。

 その名も監獄運河。囚人たちが逃げ出さないよう窓のない壁がずっと先まで続く小運河だ。


「そうですよ。ただ表は混雑しておりますので、裏口を使わせていただきます」

「裏口? レーギア宮にそんなものが?」


 どうやら例の出入り口は祖母の知るところではなかったらしい。不穏な気配を察して偽預言者は急にそわそわし始める。そんな彼女を無視してゴンドラはひっそりと石橋の下に停止した。


「裏口などどこにもないではないですか。ふざけていると衛兵を呼びますよ?」

「いえいえ、ちゃんとここから中に入れます」


 叫びたければ叫べばいい。誰に聞き咎められたところで問題ない。

 ルディアは指先でカロに合図した。壁面の装飾石をいくつかいじり、ロマは部分的に壁をずらす。すると宮殿内部へ続く秘密通路が姿を見せた。


「こ、これは?」


 アクアマリンの目を丸くしてグレースが身構える。ルディアはかびた石床に思いきり彼女を突き飛ばし、急いでカロに扉を閉ざさせた。


「待ってたよ。朝からずーっと……」


 怨念じみたモモの囁きがこだまする。武器を構えて待機していた騎士と槍兵もランタンの覆いを引き剥がした。


「覚悟しろ! 俺たち王都防衛隊が成敗してくれる!」

「ったく、誰があのゴンドラの修理代出すと思ってんだ!?」


 二人の陰ではバジルがそっと麻縄の用意を始める。あからさまな敵対行為にグレースは眉をしかめた。


「一体なんのご冗談です? 私に何かあればジーアンが黙っていませんよ? 王国経済の基盤をなす東方交易を不意になさるおつもりですか?」


 くつくつとルディアは笑う。可哀想な祖母はまだこの場を切り抜けられると過信しているようだ。そう、確かに普通のやり方では天帝の実弟に手出しなどできない。普通のやり方では、だ。


「あなたほどの方がおわかりになりませんか。アクアレイアはハイランバオスの身体さえ無事ならそれでいいんですよ」


 ルディアの台詞にエセ聖人の表情が凍る。次いで奥から現れたアイリーンと茶毛猫を目にしてグレースは即座に窮状を理解した。


「どけッ!」


 さすがに対応は迅速だった。腰に結わえた鞭を取り、グレースは立ち塞がるレイモンドの足を払う。狭い通路を突破しようと彼女はアルフレッドにも全力で体当たりした。しかし。


「この程度で騎士が怯むかッ!」


 鍛え方が違うのだとアルフレッドはグレースに体落としを決める。仰向けに転んだ彼女にモモとレイモンドが遠慮なく馬乗りになると、電光石火の早業でバジルが首に縄を括った。


「離せ! こんなことをしてただで済むと……」

「あなたこそ、王家転覆を謀った身でただで済むとは思っておりませんね? お祖母様」


 見下ろすルディアに向けられた目が見開かれる。


「お、祖母様……だと……?」


 驚き震えるグレースにルディアはとびきり可憐な笑顔を見せてやる。彼女の前ではいつもそうしていたように。


「ええ、グレースお祖母様。ルディアはまたお祖母様にお会いできて嬉しゅうございます♡」


 うわあとモモが冷めた声を漏らした。レイモンドとバジルも過剰なぶりっ子にぴくぴく頬を引きつらせる。聞いていたのかいなかったのか、アルフレッドだけは生真面目に次の準備を進めていた。


「ばっ、馬鹿な! お前があの娘のはずがない! ルディアは海で溺れたことなど」

「そうですね、仰る通り海で溺れたことはありません。でも死んで生き返った経験はあるんですよ。治療薬という形で脳蟲を入れられて」


 側頭部を指すルディアの背中でアイリーンがこくこく頷く。「それで今はこの身体を借りているわけです」と補足するとグレースは忌々しげに顔を歪めた。


「宮廷は二度とあなたの好きにさせない。永久にご退場願います」

「どうするつもりだ?」

「それはほら、簡単に想像がつくでしょう?」


 ちょいちょいと手招きするとアイリーンは抱いていたアンバーを下ろした。猫は何針も縫う大怪我をしている。偵察どころか普通の暮らしもままならないほど器は傷つけられていた。


「うちのモモが言うには『人の気持ちがわからないならその身になって考えるしかないんじゃない?』――だそうですよ」


 逃れようと激しく暴れるグレースを全員で押さえ込み、首の縄を締め上げた。窒息し、痙攣すらしなくなったハイランバオスの右耳から例の線虫が這い出てきたのは数分後のことだった。

 改めて見るウゾウゾとした繊毛にルディアはうっと吐きそうになる。成虫は大きく、中指ほどの長さがあって嫌な意味で壮観だった。確かにこれは年頃の乙女に告げるのは憚られる。


「姿形は関係ない。ルディア姫はルディア姫だ」


 励ます声に振り返るとアルフレッドはやはりそっぽを向いていた。単に照れ隠しなのだろうか、彼のこのかたくなさは。


「そうだよ、生き物の形なんてそれぞれだもん!」

「そうだそうだ、給金弾んでくれる上司に悪い上司はいねーんだ!」

「僕もそろそろ見慣れてきましたよ! グレース・グレディがアイリーンさんの研究ノート持ってるんですよね!? 拝見させてもらっていいですか!?」


 三者三様のフォローに思わず吹き出した。

 内面を包み隠さぬ付き合いなら、外見は大した問題ではないのかもしれない。少なくとも彼らはルディアを受け入れてくれたのだ。


「ああっ久しぶりに五体満足な人間の身体だわ! しかも美形よ、美形!」


 ハイランバオスにアンバーを移し、猫にグレースを移す作業は滞りなく完了した。


「良かったね、アンバー!」

「ありがとう、モモちゃん!」


 喜びに頬を紅潮させた聖預言者と斧兵がしっかと抱き合う。それをバジルがハラハラしつつ見守っている。

 光景の異様さはさておき、めでたしめでたしだ。事件の真相を表に出せないことに変わりはないが、今はこれで十分だろう。

 さて、とルディアは暗闇の奥に目を向けた。「案内してくれ」とカロに頼む。

 静かに頷いて男は歩き出した。つわりが酷く、レガッタ観戦もできなかった繊細な王女が休む寝所へと。




 ******




 美しい絵画と彫刻、きらびやかな調度品の数々に飾られていても、元は海賊の砦だった王宮だ。どんな仕掛けが隠されていても不思議には思わない。だがまさかカロの外した天井板が己のベッドの真下の床とは思わなかった。道理で賊の侵入に気がつかなかったわけである。

 床と寝台の隙間からルディアは室内の様子を窺った。視界に映る足はない。頭上で寝返りを打つ音がそっと響いただけだった。


「ブルーノ、いるの? お姉ちゃんよ」


 アイリーンの呼びかけに部屋の主が跳ね起きる。薄い寝間着の裾を引きずり寝室に鍵をかけるとブルーノ・ブルータスは寝台の下を覗き込んだ。そうしてすぐさま引っ繰り返って尻餅をついた。


「ヒッ! 姫様!」


 怯えるブルーノを横目にルディアはよいしょと這い出して膝をつく。防衛隊の面々も次々と部屋に上がった。地下に残ったのはぐるぐる巻きの猫を抱えたアンバーとカロだけだ。


「うわ、いいとこ住んでんじゃねーか」

「ほんとだー。ベッドふかふかー」

「お元気でしたか? ブルーノさん」

「見舞いの品もなくてすまないな」

「み、皆……っ!?」

「解決したのよ、ブルーノ! 姫様が協力してくださって、ハイランバオス様からグレースを追い出すことに成功したの!」


 アイリーンの報告を聞くが早くブルーノはその場に平身低頭土下座した。


「も、も、申し訳ございません! 姫様をお守りするべく身を移し替えたのはいいものの、まさかご結婚の予定であったとは知らず、そ、その、あの、僕、チャド王子と」


 ひたすらに詫びる自分の姿を見下ろすというのも妙な気分だ。顔を上げろと命じてもブルーノはなかなか従おうとしなかった。彼なりに自覚はあるようだ。とんでもない時期に身代わりをしてしまったと。


「お腹の子に障るだろう。いいから安静にしていろ。お前には元気な世継ぎを産んでもらわねばならんのだからな」


 やれやれと嘆息するルディアに愛らしい王女の顔が凍りつく。


「えっ……?」


 不安げなブルーノの双眸を見つめ返し、ルディアは「今言った通りだが?」と微笑した。


「まさか乙女の純潔を散らしておいて、善意の結果だから許してほしいなどとぬかしはすまいな? 出産の覚悟もなしに女の身体に入ったとは言わせんぞ? なあ、ブルーノ・ブルータス!」


 にこやかに胸倉を掴み上げ、ルディアはルディアを睨みつける。怒らないでやってくれとアイリーンには嘆願されていたが、それはそれ、これはこれだ。処女喪失の罪は重い。悪いと思っているのなら最低限の責任くらいは果たしてもらおうではないか。


「産後の世話も含めてもう一年は我が子と夫を頼んだぞ。私はこれから忙しいからな!」


 泡を吹いて卒倒するブルーノをアイリーンが慌てて抱き起こす。「なんて気の毒な……」と男どもは心底同情した様子だった。


「ふーん。ブルーノを置いてくってことは、姫様まだお城に帰らないんだ?」

「ああ、身重の姫でいるよりも防衛隊の一員として動いたほうが都合良さそうだろう。例えば未だジーアンの支配下にあるアレイア海東岸でハイランバオスご執心の客人に扮するとかな」

「あ! それでアンバーから天帝に通商条約の口添えをしてもらうの!?」

「そういうことだ。交易が再開できればお父様に文句のある連中も黙るだろう。折角手に入れた聖預言者の肉体だ、今度はこちらがアクアレイアのために利用してやる! ハッハッハ!」


 高笑いのルディアにバジルたちがうーんと唸り声を上げる。


「末恐ろしいと言うべきか、アクアレイアの未来は安泰だなと言うべきか……」

「転んでもただじゃ起きねーってのはいいことだぜ!」

「なんだ、それじゃ今後の方針を話すために立ち寄っただけか。俺はてっきり王女の姿に戻られるのかと……」

「おや、さっさと厄介払いしたかったのか?」


 意地悪く尋ねるとアルフレッドはもごもご口ごもる。「そんな意味じゃ」とかなんとか聞こえたが、ならどういう意味かを彼に説明する気はなさそうだった。もっとも説明などに頼らずとも理解は及ぶようになっていたけれど。


「王都防衛隊、今しばらくは私に付き合ってもらうぞ!」


 振り向いて反応を確かめるまでもない。

 ルディアが先に通路へ下りると四つの足音はすぐに後を追いかけてきた。






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