第4章 その2
どうやら長き苦難の日々は終わりに近づきつつあるようだ。
ああ! かつて己の人生にこれほどの喜びに満ちた瞬間があっただろうか? 愛、光、希望、夢、尊く美しい感情が胸に溢れ、つんと心地良い痛みとともに鼻の奥をせり上がってくる。
(う、嬉しいー!)
なんとかドナに防衛隊を連れてくる──その言葉通り砦に戻ってきてくれたアンバーを見やってバジルは涙ぐんだ。アルフレッドとレイモンドの姿はないが、中庭に整列する海軍兵士のすぐ手前には安否が気になっていたルディアとアイリーン、そして誰よりも焦がれてやまないモモがいる。
ピンク色の髪にも目にも褪せたところは一つもない。可愛くて強くて最高ないつものモモだ。視界に彼女を映すだけで心臓は震え、目頭が熱くなった。
ああ、今日まで希望をなくさず生き延びてきて本当に良かった。特に大変な目に遭ったわけでもないけれど、無事に再会の日を迎えられて。
モモ! モモ! 会いたかった! えーん会いたかったよー!
「今回は皆いい子にしてたかなあ?」
感涙に咽ぶバジルをよそに狐らしく人を食った口ぶりでアンバーが退役兵に問いかける。白けた顔のゴジャたちは誰も返事をしなかった。前回はあんなにラオタオに怯えていたのにどうしたのかと不思議に思う。
だが今はそんなことよりモモである。アンバーと差し向かうように集まった退役兵らの後方でバジルはえい、えいと背伸びした。声には出さずに「ここにいますよ!」と猛アピールする。
が、悲しいかな王女一行がこちらに気づく様子はなかった。屈強な男たちが五十人近くたむろして厚い壁を作っているのだ。小粒な己は目に留まらなくて当然だった。
(えーん、モモーッ!)
念を飛ばしても運命の糸が結ばれていないのではと思うほど通じない。幸いもどかしさに苦しむ時間は短くて済んだ。さっそくアンバーがバジルに話題を向けてくれたからだ。
「なんだよ皆ノリ悪いなー。バジル君は? 鏡の迷宮はできたわけ?」
名を呼ばれたなら飛び出す理由は十分だろう。バジルはすぐさま兵士の壁を通り越し、王女一行の前へと駆けた。緊張気味に立っていた彼女らはこちらを見るなりパッと表情を明るくする。
「め、迷宮は明日完成予定です! すごいのが出来上がりそうなので楽しみにしていてください!」
アンバーに答えつつバジルもモモたちと顔を合わせた。
三人ともさして変わりなく健康そうだ。見てわかる大きな怪我などもない。
視線を交わせば言葉などなくとも互いの安堵が伝わった。無事で良かったと綻んだ頬が告げている。
「……っ!」
珍しく想い人の嬉しげな笑顔がこちらに向けられて感激のあまり立ったまま失神するところだった。
ああ、ああ、本物のモモだ。本当に本物のモモなのだ。
「ふーん、明日ね。それじゃ今日のお楽しみはやっぱ酒盛りだな!」
迷宮の完成度を尋ねてきたアンバーはもうバジルへの興味など失ったように振る舞う。どういう段取りで部隊に合流させてくれるつもりなのか不明だが、彼女は隣の偽預言者に馴れ馴れしく寄りかかると「久々に羽伸ばそっか!」と持ちかけた。
「ゴジャたちも一緒に飲むだろ? どうせ毎日飲んでんだし」
夜通し中庭でたっぷり騒ごうという狐の呼びかけに退役兵たちが面食らう。そんな誘いを受けるとは思ってもみなかったらしく、ゴジャもウヤも戸惑いを隠しきれない様子だった。
「は、はあ? なんで俺たちが……」
「えーっ! だってハイちゃんが飲みたいってご所望なんだぜ? 当然一緒に飲むよなあ?」
脅しめいた文句に退役兵たちがまたざわつく。しばらく経って返答したのはウヤである。いつも理知的な態度を崩さない黒髪の青年は断れば面倒な事態になると断じてか「はあ、まあ、我々は構いませんが……」と了承した。
「おい、ウヤ」
不服げに顔をしかめたゴジャも無言のウヤに首を振られて押し黙る。目と目で会話する彼らの間には微妙な空気が流れていた。まるで「ここはラオタオの好きにさせましょう」とでも打ち合わせているかのようだ。
何か違和感がもたげたが、ジーアンの事情に疎い己には何が変なのか今一つ掴めない。そうこうするうちに話は次の段階へ進んだ。
「よーし、それじゃ今日からここで働く小間使いは酒と料理をどんどん運んでこい! 長生きしたけりゃくれぐれもつまみ食いなんかするなよ?
それからアイリーンちゃんたちは、今夜はバジル君の工房にでも泊まってね。朝になったらまた砦まで鏡の迷宮見にきてよ! 完成したらすぐ遊びたいからさ!」
どうやら仲間と一緒になれそうで心が浮き立つ。いつの間にやら構え気味に横に立っていたタルバも無茶振りされずにほっと胸を撫で下ろしていた。
(新しい小間使いって姫様の後ろにいる人たちかな?)
縮こまっているアクアレイア人の一団に目を向ける。無理やりドナに連れてこられた人々なのか、青ざめた彼らはルディアの励ましを受けて一人また一人と主館のほうへ歩いていった。
「…………」
見守るしかできない光景に胸を痛めつつバジルは主君らににじり寄る。狐に扮したアンバーが偽預言者を中心に車座を作り、がぶがぶと飲み始めるともう我慢できず皆に手を差しのべた。
「い、行きましょう……! とりあえずここじゃ喜ぶにも喜びきれませんから……!」
大好きな少女に抱きつきたい衝動を堪えて中庭の出口を示す。ルディアたちもこくりと頷き、静かに移動を開始した。
視線を感じてふと振り返れば酒器や酒壺を運ぶケイトが「良かったわね」という顔でこちらを見つめている。ありがたさに涙腺が緩んだが、まだわんわん泣き崩れるわけにいかない。
ともかく早く主君にアンバーの件を伝えねばならなかった。どうして彼女がラオタオに成り代わっているのかさっぱりわからないけれど、知らせてくれと直々に頼まれたのだから。
皆にも聞きたいことは山ほどある。王国はどうなったのか、部隊全員無事でいるのか。いや、もう、モモに会えただけで今日は胸いっぱいだけれども。
(えーん、嬉しいよーッ)
仲間がすぐ側にいてくれるとはなんて心強いのだろう。大きな大きな喜びに今なら空まで飛べそうだった。
******
良かったと胸を撫で下ろす。嫌なことばかり続いたから、ひとまずバジルは元気そうで。騎馬民族の衣装など着てはいるが、五体満足だし背も伸びているし、笑顔は見慣れたニタニタぶりで、王都の港で別れたときの彼のままだ。
吉報を聞けばきっとモリスもひと心地つけるだろう。不安を口に出すことはなかったが、あのガラス工はずっと気を揉んでいたのだから。
だが一つ手放しでは喜べないこともあった。砦を出てからもくっついてくるジーアン人がいるのである。三白眼で背の高い、退役兵らしき短髪の青年が。
(もーっ! 誰よこれー!?)
ちらちらと互いに警戒の眼差しを向けつつモモたちは長い坂を下った。
なんなのだろう、この男。どこまでついてくる気なのだろう。こうぴったり張りつかれては邪魔になって仕方がない。早く情報を擦り合わせて作戦準備に入りたいのに。
(まさかバジルにも監視がついちゃってるわけー!?)
無言で青年を見つめるルディアとアイリーンも同じ考えのようだった。彼が何者か判明するまで迂闊なことは喋れない。坂の傾斜が緩やかになり、人気のない黄昏の小広場に辿り着くまでなんとも言えぬ静けさが続いた。
「ぶはっ」
最初に沈黙を破って息を吐いたのはバジルだった。なんだどうしたと弓兵を見やれば彼の頬は熱い涙に濡れていた。
「ここまで来たら大丈夫ですよね!? うわーんモモーッ!」
泣きながら腕を広げて突進してきた少年を「うわっ」と軽やかなステップでかわす。つんのめってバランスを崩したバジルは一人で勝手にすっ転んだ。
「あでっ!」
石畳に受け止められた弓兵は「二年ぶりなのに酷くないです!?」と情けない顔でこちらを見上げる。不平を垂れる割に口元を緩ませて。
本当に相変わらずで嘆息した。彼の中に心変わりという概念はないようだ。
「モモは気軽にハグとかしない派だもん。まあとりあえず怪我とか病気はしてなさそうで安心したよ」
薄めに伝えた安堵はそれでもバジルを喜ばせたらしい。「エヘヘヘヘ」という不気味な笑みにさり気なく一歩距離を取る。
「バジル、平気か?」
と、こちらのやり取りを見ていた青年が弓兵に手を差し伸べた。彼の口から出てきたのがジーアン語ではなくアレイア語で、思わずぱちくり瞬きする。
助け起こされたバジルのほうも「すみません」と信頼しきった様子で青年の腕を借りていた。漂う空気の親密さにモモはおや、と首を傾げる。
この感じ、捕虜と兵士の関係ではない。少なくとも搾取する者とされる者の関係には見えなかった。
「あ、そうだ。まずは皆にあなたを紹介しないとですね」
直感の正しさを証明するようにバジルが笑顔で拳を打つ。振り返った弓兵は照れくさそうに傍らのジーアン人について説明した。
「この人はタルバさん。天帝宮にいたときからの友人で、僕の初弟子です!」
──友人。初弟子。思わぬ言葉にしばしぽかんと口を開いた。
バジルはにこにこ、本当ににこにこ、罪のない顔でタルバがいかに勤勉か、いかに頼もしい男か、感謝を交えて熱弁する。相手がどこの国の何者かなんて気にも留めていない様子で。
「僕が今日まで生き延びられたのは全部タルバさんのおかげなんです! 本当に何から何までお世話になって……」
緩みきったその顔面に握り拳を叩きこまなかった己を褒めてほしい。
どうしてこう、あっちにもこっちにも敵と味方の区別がつかない大馬鹿者がいるのだろう? 情が湧くのは自然現象だとしても線引きしてくれ線引きをと叫びたくなる。
「いや、そんなにたいしたことはしてねえって。それよりバジル、この子って前に話してくれてた故郷の女の子だよな?」
同じく照れくさそうなタルバにバジルはこくこく頷いた。「そうです、彼女がモモです!」との返答を得て青年はパッと瞳を輝かせる。
「そうか、やっぱりそうだったか。よろしく。会えて光栄だ」
西方式に握手を求めてくる彼は普通に見れば礼儀正しい好青年だ。出会った場所や状況が違えば快くその手を握り返せただろう。
だが今はどんな笑顔を向けられても疑わしいだけだった。
ドナに住む退役兵は全員蟲だと聞いている。二年前、防衛隊が天帝を騙そうとバオゾに偽の預言者を連れ込んだことは蟲兵なら皆知っているはずだった。それなのに友好的すぎる。まさかこちらの所属を知らぬでもあるまいに。
「……えーっと、モモ・ハートフィールドです」
迷いつつモモは一応の敬意を示してジーアン語で挨拶した。握手を交わすとタルバはにこやかに微笑む。同じ調子で彼は次々にルディアやアイリーンにも歓迎の意を示した。
「俺たちの暮らしてる工房は街の外縁部にあるんだ。今日は是非もてなさせてくれ」
二人は郊外の一軒家で共同生活をしているらしい。なるほどずっと同行してくるわけである。
だがそうなると込み入った話をするのは難しそうだった。まさかジーアンの蟲に「接合」の話を聞かれるわけにいかない。どうするかなとモモはルディアに目配せした。
主君は「頼んだぞ」と言うようにこちらに軽く顎を突き出す。ここはやはり己の出番かとモモはバジルに呼びかけた。
「あのさ、その工房に着いたらちょっと二人になれないかな? モモ話したいことがあるんだよね」
頭の不憫な弓兵は「えっ!」と赤くなってうろたえる。不快な類の勘違いに訂正したさが募ったが、なんとか喉奥に飲み込んだ。
「じ、実は僕からも伝えたいことがありまして……!」
バジルの妙に熱っぽい声にタルバがヒュウと口笛を吹く。頑張れと力づけるような青年の身振りにハハと乾いた笑みが浮かんだ。
(モモたち全然そういう関係じゃないけど……)
ともあれこれで内密の話もできそうだ。状況を共有する間、タルバは主君が引き留めてくれるだろう。再び歩き出した弓兵に続いてモモも歩き出した。
アンバーが苦心して整えてくれた舞台なのだ。絶対に失敗はできなかった。
******
ルディアたちの通された工房は静かだった。もう日も暮れて暗くなったせいもあろうが、三階建ての一軒家を取り巻く工房街そのものに人が少ないのだと感じる。
バジルの案内で彼の仮住まいに到着するまでの間、火の灯る家は五軒に一軒ほどだった。すれ違ったのもほとんど女。一人だけ壮健な男がいたが、あれは砦暮らしをやめた穏健派ジーアン人らしい。弓兵は退役兵の半数以上がドナの女と新しく家庭を持ったこと、話の通じぬ者ばかりが砦に居残っていること、特にゴジャとウヤという退役兵が発言権の強いことなど教えてくれた。
バジルの弟子──工房に着くなり夕食の支度を始めてくれたタルバとかいう若者も穏健なジーアン人の一人だそうだ。なんでも職人としてドナで働くように要請された弓兵が「ラオタオ怖いよぉ」と怯えていたら「俺が一緒に行ってやる」と宮廷勤めをあっさり辞めてくれたらしい。
横暴な退役兵から何度も庇ってもらったそうで、感謝の思いは強いようだ。ジーアンが蟲の帝国と知る由もなかったバジルは初弟子への警戒心など微塵も持っていなさそうだった。
「それじゃあそっちはお任せしますね」
「ああ、行ってきな」
バジルはタルバにひと声かけるとモモを連れ、工房奥に備わった細い階段を上がっていく。軽い足音は天井のほうへ消えていった。
しばらく二人は下りてこないだろう。話すべき経緯は膨大なうえに複雑だし、ルディアたちが何をするためにドナへ来たのか伝えるだけで小一時間は必要だ。一年半も遠く離れ、大局の外側にいたバジルの理解がさっさと追いつけばいいのだが。
(とりあえずこの男に会話を盗み聞きされんように気をつけねばな)
ルディアは厨房でまめまめしく働くタルバをちらと見やる。若く逞しくまだ十分に戦えそうな退役兵は鼻歌混じりに湯を沸かしていた。
工房は作業場と居住部が建物内で隣接しており、いくつも工具が散らかっていて非常にバジルらしい住処だ。特に存在感があるのは二階の床にまで達する巨大なレンガ積み溶鉱炉で、煙突と壁の厚みが火力の高さを窺わせた。
熱源はなるべく近づけたほうが効率的だからだろう。小さな厨房はそのすぐ裏側に位置している。開けっ放しの入口から白い湯気がゆらゆらと流れてくるのが窺えた。
「適当に座っててくれ。皿に並べて出すだけだから」
「わかった、すまない」
手伝おうとした雰囲気を察してタルバがこちらを振り返る。ただの好青年にしか見えない彼に頷いてルディアは屋内を見回した。
状況から判断してこの男が蟲であるのは間違いない。しかし防衛隊についてどこまでの情報を持っているのかは不明だ。自ら天帝のもとを去った退役兵は十将から準造反者と見なされているはずである。であれば彼らに外部の動きは伝わっていない可能性が高い。
つまり彼らの認識は「防衛隊はアクアレイアに蟲が棲むのは知っているが、ジーアンにも同じ蟲が棲んでいるとは知らない」で止まっているということだ。その証拠に向けられた広い背中は隙だらけだった。
食卓を兼ねているらしい作業台の丸椅子を引いて腰かける。こちらに倣ってアイリーンも左隣に着席した。テーブルは図面を広げる余地だけ残して用途もわからぬ様々な器具に占領されている。そして残った小空間もほどなく晩餐に埋められた。
「お待ちどう! 好きなだけ食べてくれて構わないぜ!」
タルバが運んできたのは羊の臓物煮込みや具入りの蒸しパン、それと草原でよく飲まれている白濁色の馬乳酒だった。湯を沸かしていたのは蒸気で料理を温め直すためだったようだ。杯に注がれた馬乳酒以外、どの皿からもほかほかと湯気が立っていた。
「バジルたち呼んできたほうがいいかな?」
「いや、そっとしておいてやろう。感動の再会を邪魔しては悪い」
階段を振り向いたタルバにルディアはさり気なく待ったをかけた。冷めると味が落ちるからと難色を示されるかと思ったが、存外素直に青年は「おっと、それもそうだな」と頷く。
「えーっと。あの子がモモで、あんたがブルーノで、あんたがアイリーン……だっけ?」
会えて光栄だ、と彼は道すがら聞いたのと同じ台詞を繰り返した。眩しげに細められた目に嘘はなさそうだが油断はできない。ジーアンには食えない輩が多すぎる。彼がそうでないとは言えない。
「こちらこそ、バジルが世話になったようで感謝する」
「いや、良くしてもらってるのは俺のほうだから」
「だとしても心身健康で再会できたのはそちらのおかげだろう。ありがとう。部隊を代表して礼を言う」
改めて礼を述べるとタルバはぶんぶん首を横に振った。もういいから温かいうちに食べろと勧められ、蒸しパンから手をつけさせてもらうことにする。
西方式のドナのテーブルで東方風の食事を取るのも妙な感じだ。異文化交流の盛んな地ではしばしば様式の混合が起きるが、どうやらここでも同じ現象がひっそり進行しているらしい。卓上に放置された走り書きのメモに目をやればジーアン語とアレイア語の混ざったおかしな文章が散見され、ガラス工たちが互いの文化を摂取しながら暮らしているのが窺えた。
(しかしこうして退役兵が単独で郊外の家にいてくれるのはありがたいな)
態度にはおくびにも出さず、タルバの首を絞める方法を考える。二対一ではまだ分が悪い。逃げられる可能性がある。たらふく飲ませて酔っ払わせ、上の二人が戻ってから襲うのが賢明だろう。
布張りの幕屋と違い、ここなら多少叫ばれても外に漏れることはあるまい。本格的な作戦行動に移る前に「接合」の経過や結果を観察しておきたかった。記憶の共有がどの程度意識の混濁をもたらすのか。
患者たちは砦に残してきたけれど、ブルーノの「本体」はガラス瓶に封じて懐に入れてある。今夜ここでやってやれないことはない。
「なあ、ところであんたたちはバジルを連れて帰るのか?」
と、視線を上階に向けながら青年が問うてくる。彼にとって防衛隊の訪問は突然のものだったらしく、こちらの目的を測りかねている様子だった。
「いや、我々はラオタオ将軍に命じられてドナで働く小間使いを世話しただけだ。バジルのことは解放するともしないとも聞いていない」
報酬代わりに会わせてもらえただけだと思うと伝えるとタルバは「なんだ」と目に見えてがっかりする。落胆の理由はすぐに同じ口から語られた。
「あ、いや、バジルと一緒に暮らすのは楽しいんだけど、やっぱり帰りたそうだからさ。あいつのお迎えだったら良かったのになって」
はあ、と深く溜め息がつかれる。臓物煮込みに串を刺す手もぴたりと止まり、食卓には重いムードが垂れ込めた。どうやらタルバは心から残念がってくれたようだ。しばし沈黙を挟んだ後、ぽつりと小さな呟きが落ちる。
「……あいつは俺の恩人なんだ。だから俺は、できる限りのことをしようって思ってる」
青年の声は真摯だった。思わず聞き入ってしまうほどには。
──恩人。ジーアン人がぞんざいにできないものの一つである。ルディアはふむ、と項垂れたタルバを一瞥した。
「俺みたいな退役兵以外にはドナは危なすぎるんだ。砦の連中は気が立ってるし、ラオタオだって捕虜をまともには扱わない。帰れるなら故郷に帰ったほうがいい。でなきゃまた、何があるかわからないから……」
何か後悔でもあるのか彼はテーブルの上で固く拳を握っている。思いつめた口ぶりでタルバは「俺から直接ラオタオに頼んでもいい。バジルを家に帰してやれって」と続けた。
「そ、それだとあなたが安くない代償を支払うことになるんじゃない?」
長らく帝国住まいだったアイリーンが仰天して口を挟む。対するジーアンの青年は百も承知と頷いた。
苦々しげに打ち明けられる。守ろうとして守りきれなかったこと。
「あいつ平気そうにしてるけど、ラオタオに酷い折檻されたっぽくて──」
げほっと思わず咽かけたのをなんとか堪えてルディアは真剣な表情を保った。それは多分大丈夫だったと思うぞと心の中で返事する。
だがタルバの勘違いを正してやるわけにもいかない。ルディアはアイリーンと二人、親方を案じる健気な一番弟子を見守った。
「バジルは俺の願いを聞いてガラス作りを教えてくれた。本当なら門外不出になりそうな新しい技術まで。俺はもうすぐ死んじまうけど、そうなる前に恩に報いなきゃならない。だから……!」
白熱し出した青年にアイリーンが「待って、待って」と言い聞かせる。
「思いの丈はわかったけど、早まっちゃ駄目よ。捕虜は将軍の持ち物なのよ?」
暗に彼女は命を取られるか奴隷に落とされるかわからないぞと告げていた。中身がアンバーであることを考えれば事はもっと穏便に運ぶだろうが、それはそれで狐らしくないと疑われてしまう。ルディアとしてもバジルの帰還はまだ考えていなかった。
「もうすぐ死ぬとはどういうことだ?」
話題を逸らして落ち着かせるべく問いを投げる。タルバが蟲であるかどうか確かめる絶好の機会でもあった。すると青年は予測に違わず「ここの退役兵は皆、死病を患ってんだよ」と声を震わせた。
「…………」
衝撃を受けたふりをしてルディアはしばし黙り込む。これで彼は蟲確定だ。誤って普通の人間を殺してしまう可能性はなくなった。ただこれだけ人がいいとバジルが彼を利用するのを嫌がるかもしれないが。
「俺は満足してるんだ。ゴジャに無理難題言われたときは腹立ったけど、鏡の迷宮が出来上がっていくの見てたら『ああ、俺たちすごいもの作ってる』って思えたし、あんな大作遺せるんならほかはもういいかなって……」
タルバは早くバジルを自由にしてやりたいと言う。どんどん顔を強張らせる青年にルディアは静かに首を振った。
「気持ちはありがたいが、今はアクアレイアも微妙な時期でな。バジルはまだ引き取ってやれないんだ」
「えっ?」
こちらの台詞に三白眼が瞠られる。慎重に言葉を選び、ルディアは防衛隊の隊長が殺人容疑をかけられていること、部隊の一員が帝国のコネで帰国すれば国民感情を刺激すること、そうなればバジルも危険だということを説明した。
「……そ、そうなのか……」
一応タルバは納得してくれたらしい。ラオタオに掛け合うという前言は撤回してくれる。代わりに彼はすっかりしょげ返ってしまった。温かかった料理もすべて熱を失い、時間が止まったようになる。
「ところで鏡の迷宮というのは? さっきラオタオ将軍もそんなことを話していたようだったが」
問えばタルバは顔を上げ、わずかながら誇らしさの滲む響きで返答した。
「名前の通りさ。明日その目で見りゃわかるよ」
驚かせたいという思いからか詳しい説明は省かれる。その後は食卓で交わすのに相応しい、他愛無い話しか出なかった。
階段を下りる二人分の足音が響いてきたのは食事の終わりかけた頃である。弟子が蟲だと聞いたのだろう。弓兵はわかりやすく青ざめており、ぎこちなく引きつった笑みを浮かべていた。
「バジル!」
四つしかない席を客人に譲るためにタルバがサッと立ち上がる。首を絞めて肉体と記憶を奪うかルディアが思案するうちに彼はバジルにこう告げた。
「よく考えたらこの工房、四人までしか寝るとこないだろ? 俺、今夜は砦でケイトの手伝いでもしてくるよ。ゴジャたちの様子も気になるし」
どうやらタルバは退役兵の巣へ戻る気らしい。「あっ、はい。そうですか」とどもりつつ弓兵も了解する。
「すみません、あの、気遣っていただいて」
「いいって、このくらいなんでもねえ。じゃあ明日、鏡の間でな」
一瞬モモに目をやった後、タルバはバジルに何事が耳打ちして出ていった。直後に吹かれた口笛から察するに「上手くやれよ」とでも言ったのだろう。
都合良く仲間だけになれるとは運がいい。念のために近辺に不審な獣や人間がいないか確認しながら戸締りし、ルディアは弓兵を振り返った。
「どこまで聞いた?」
多分に衝撃を引きずった声でバジルは「た、退役兵の中身の話と明日の予定については」と答える。更に彼はアンバーが秘密裏に正体を告げてきたことも明かしてくれた。
「……! そうか、やはり彼女も独自に動いてくれていたか」
十分だ。後は弓兵からドナの情報を得れば動きを決められる。
さあ反撃開始だとルディアは唇を引き結んだ。
早い段階でバジルとの合流が果たせたのは大きい。朝が来ればアンバーともマルコムたちとも手を取り合えるだろう。
何事もなければ入れ替わり作戦はスムーズに遂行できるはずである。
そう、何事もなければ──。




