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ルディアと王都防衛隊~海の国の入れ替わり姫~  作者: けっき
第1章 英雄殺し 前編
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第1章 その3

 何が起きたか理解するには盲人には時間がかかった。ぐちゃぐちゃだという遺体をこの目に見さえすれば嫌でも理解したに違いないが、現実は現実を突きつけてもくれなかった。

 娘シルヴィアに伴われて向かったのは二年ぶりの国営造船所。兵舎の一階、仮眠室の寝台に息子は安置されていた。

 耳に入る音がなければ存在は感じ取れない。伸びやかな声や息遣い、甲冑の硬い足音がなければ。


「ユリシーズ……?」


 我が子の名を呼び、冷たくなった手を握る。

 手はまだ手とわかる形をしていた。腕も、肩も、広い胸も、体温さえ戻ればすぐにまた動き出すのではないかと思えた。

 首筋に触れようとしたところで誰かの手に止められる。


「被せた布がずれるので……」


 痛ましい声でレドリー・ウォードがそう告げた。ユリシーズに与えてやった幼馴染の一人が。


「……そうか……」


 ひと言を絞り出すのが今のシーシュフォスの精いっぱいだった。

 頭から落ちたのだ。頸椎が無事なはずがない。頭部は口にできないほど惨い状態なのだろう。

 飲み込みがたい事実を飲み込む。息子はやはり死んだのだと。

 ユリシーズが国家反逆罪に問われたとき、一度は覚悟したことだ。あの頃の気持ちを思い出して再び堪える以外ない。この先ずっと堪えていくしか。


「お兄様……っ」


 ここまでシーシュフォスを支え歩いてくれていたシルヴィアが物言わぬ兄に縋りつく。

 目が見えなくてむしろ良かったのかもしれない。悲しい光景を見ずに済んで。座るように促された丸椅子に崩れ落ちるように腰かける。

 ──ユリシーズが死んでしまった。

 家のことも、国のことも、考えなければならぬことが山ほどできたはずなのに、頭は少しも働かなかった。

 もうどこからも身を退くときが来たのかもしれない。盲人は盲人らしく。

 やはり己には最初から何も見えていなかったのだ。うっすら予感はあったのに、自分で育てた息子なのに、歪みに気づかぬふりをした。だからきっとこうなった。

 確信が深まるほどに気も塞ぐ。こんな死に方をするほどの業を、知らぬ間にこの子に背負わせていたのだと。

 見過ごした。親として見過ごしてはならないものを。こんな目が、こんな男が、はたしてこれからなんの役に立てるというのか。

 もう家に引っ込むべきだ。世に関わるべきではない。

 人の上に立ちながら息子一人正しく育てられなかった虚しさが、無力感が、シーシュフォスにそう囁く。

 ──ユリシーズが死んでしまった。

 年取ってから跡継ぎを喪う悲しみに打ちのめされて心は呆ける。ああ、こうして人は老いていくのか。

 もはや一人ではこの椅子から立ち上がれそうもない。

 世界はどこまでも(くら)かった。歪みながらも輝いていた白銀の欠けた世界は。




 ******




 最悪だ。考え得る限り最悪のシナリオだ。


「ううっ、ユリシーズお兄様!」


 グレースはユリシーズの亡骸に被さりながらチラと顔布の下を覗く。薄目で遺体の損壊具合を確かめれば顎から上には頭の代わりに丸めた外套が置かれているだけだった。


(馬鹿なお坊ちゃんだね、本当……!)


 せめて五体満足な死体を遺して逝ってくれればいいものを、一番大事な脳を駄目にするなんて。いつかはこの男の権勢ごと肉体を乗っ取ってやるつもりでいたのに何もかもが水の泡だ。


(まあとにかく、今はアルフレッド・ハートフィールドのほうを先になんとかしなけりゃね)


 舌打ちを堪えてグレースは拳を握る。

 昨夜のユリシーズの様子では心許した男になんでも打ち明けていそうだった。誓いの杯を飲んだ程度で「この約束は絶対だ」と本気で信じていたのである。アルフレッドがグレースの存在を知らされていても不思議ではない。


(『シルヴィア・リリエンソール』の正体がばれたところでルディアたちに何ができるわけでもなかろうが、用心するに越したことはない。あの騎士を処刑場送りにすれば口封じできるうえに防衛隊の名にも傷がつくわけだしね)


 冷徹な計算ののち、グレースは腕をつねって涙を溜めて顔を上げた。


「レドリー様、なぜお兄様がこんなことに……? お兄様に一体何があったのです……?」


 いたいけな少女の顔で問いかける。マリオネットよりたやすく操れる若造は守秘義務など頭から飛んだ様子で吐き出した。


「すまない。取り調べはしたんだがアルフレッドの奴ほとんど何も喋らなくて」

「アルフレッド? 直前までお兄様と一緒にいた騎士ですわね?」


 ああ、とレドリーが頷く。捜査が進展していないと聞いてグレースは胸中でよしと勇んだ。


「大鐘楼で会う約束だったって以外だんまりだ。ユリシーズと何を話したかも言いやしねえ」


 容疑者は上手い言い訳を思いつかなかったらしい。もとより主君を襲撃する目的で待ち合わせていただなんて口が裂けても証言できないはずだった。嘘をつけばぼろが出る。これなら騎士を追い込むのは簡単そうだ。


「やましい事情がないのなら身の潔白を示すためにも話してくださるはずなのでは? まさか本当に噂の通り……」

「ああ、だと思う」


 水を向ければレドリーはあっさり己の見解を告げる。海軍の頭がもがれた今、ユリシーズの腹心的立場にあった彼の発言は少なからぬ力を持って波及する。そんなことすら自覚もせずに。


「お兄様とは女帝陛下のサロンでたびたび顔を合わせていたんですのよね? もしやアルフレッド・ハートフィールドはアニーク陛下の寵愛を独占しようとこんな事件を?」


 既に巷で囁かれている憶測の一つを口にする。するとレドリーは神妙な顔で「かもしれない」と呟いた。


「ユリシーズは帝国自由都市派だし、防衛隊は王国再独立派だ。確執があったのかもって言ってる奴もいる。大鐘楼の人払いをしたのはユリシーズだけど、ひょっとしたらあいつと何か話をつけようとしてたのかも。剣を持ち出されるなんて考えもしないで……」


 つらそうに歯を食いしばり、レドリーは押し黙る。アルフレッドとは従兄弟のはずだが彼に親族を庇う気はなさそうだった。


「本当に最低な野郎だぜ。女帝陛下のお気に入りだからって取り調べも途中で中止にさせられたんだ。せっかく海軍が身柄を拘束してたのにラオタオ将軍が連れて行っちまってさ」

「ええっ!? 殺人の容疑者なのにですか!?」


 聞きながらこれにはさすがに驚いた。だがお咎めなしで解放されたわけではなく十人委員会に預けられただけだと知ってほっとする。まあこの状況で無罪となればそれはそれで民が黙っていないだろうが。


(ふうむ……)


 とは言え私刑より正式な死刑のほうがルディア陣営に打撃を加えられるのは確かだ。もう少し焚きつけておくかとグレースは愚かな青年に語りかけた。


「考えたくありませんが、アニーク陛下の庇護があるからと強気に出たのかもしれませんわね。罪状は明らかでも刑に処されることはないと……」

「有り得るぜ」


 こちらの囁きにレドリーはますます怒りを燃え立たせる。憎き容疑者の厚顔無恥な思惑を好き勝手に空想し、また激怒して、知性や理性、冷静さから彼はどんどん遠ざかった。


「いい子ぶって見せてただけで、これがあいつの本性だったんだ……!」


 激情を抑えようとする素振りもなくレドリーは大声で騎士を罵倒する。

 それを聞けばこれから罪人がどう喧伝されるかがよく知れた。


「さすがあのウィルフレッド・ハートフィールドの息子だよ! 見事に父親の血を引いたクズだ!」


 よし、よし、とグレースはハンカチで隠した口角を上げる。

 ユリシーズを亡くしたリリエンソール家が落ち目になるのは避けられないが、これで防衛隊も道連れだ。誰が奴らにだけ甘い汁を吸わせるものか。

 しばらくは水面下に潜って力を蓄えて、いつかまた再起を図ろう。取りつく身体さえあれば蟲はいくらでも生き直すことができるのだから。




******




 一体どんな人間なら落ち着いてこんな話を聞けるのだろう。(たち)の悪い冗談はやめてくれと拒むようにアニークは書見台で小さく首を震わせる。

 誰が誰を殺したと? 誰のせいで誰が死んだと?


「アルフレッドがユリシーズを突き落とすはずないでしょう!?」


 叫んでも返される声はなかった。ファンスウも、ウァーリも、ダレエンも、報告に来たラオタオとウェイシャンも「あの二人すごく仲が良いんだから!」とアニークが訴えるのを押し黙って聞いている。

 夜の寝所に声は空しく響き渡った。誰も何も言ってくれない。起きた事実を否定する言葉を。死を悼む鐘の音はいまだ街中に轟いている。ついていけないアニークに悲劇を思い知らせるように。


「あー、とりあえずアルフレッド君は十人委員会に引き渡しといたけど、結構やばいと思うよ」


 と、ラオタオがぼそりと言った。


「やばいってどういう意味?」


 ほとんど息も継がずに尋ねる。若狐は「割とボコボコにされてたからさあ。手当てはしてもらえると思うけど」と見てきたそのままを伝えた。


「ぼ、ボコボコって……」


 どうしてと問えばラオタオは肩をすくめる。


「ゆりぴーが死んだから、海軍がめちゃくちゃしても止める奴がいないわけ。次の提督任命すれば指揮系統の混乱は収まるだろうけど、人選によっては更に混乱しちゃいそーって感じかな」


 こめかみを掻きつつ狐は「つっても無能しかいないから選びようがないし、選んだら選んだでアルフレッド君に報復しようとするのがわかりきってるし、困ったもんだよ」と続けた。海軍の恨みを買ったせいでアルフレッドは危険に晒されているらしい。


「ど、どうするのがアルフレッドは一番安全なの?」


 いてもたってもいられずに書見台から立ち上がる。寝所の入口に立っていたラオタオのもとに突進すると男はアニークをどうどうと宥めた。


「ゆりぴーの後任が決まるまでは海軍の指揮権を十人委員会に預けるのが一番じゃないかと思うよ。ファンスウたちさえいいって言ってくれるなら俺もそうしようかなって」


 狐は視線をソファに腰かける老人に移す。古龍はやや冷めた目でラオタオを見つめ返した。

 ふん、と小さな鼻息。「アクアレイアが混乱していたほうがハイランバオスの気を引けるのではないのか?」とファンスウが応じる。


「いっそ海軍をジーアン軍に再編してもいいだろう。独自の軍力がなくなれば独立を夢見る者も減じて守りが盤石になる」


 アニークは狐の顔を見上げた。難しい話は正直よくわからない。古龍の言うようにジーアン軍が海軍を吸収してしまえばアルフレッドに乱暴させずに済む気はするが、実際のところどうなのだろう。


「うーん、再編は反対だなあ。んなことしたらアルフレッド君が恨まれる一方じゃん? 俺は別にいいけどさ、女帝陛下やウァーリたちはそれでいいわけ?」


 アクアレイアの法規に従い、手順を踏んで釈放まで漕ぎつけねばいつまでも危険と不名誉はつきまとう。まだしも冷静な十人委員会に任せるのが最善だとラオタオは断言した。亡きユリシーズもそこに在籍していたのだし、馬鹿にもわかりやすいだろうと。


「そ、そうね、ラオタオの言う通りだわ」


 アルフレッドがこの街の人間に憎まれるなんて嫌だ。一も二もなくアニークは狐の案に飛びついた。

 ファンスウには睨まれたがアルフレッドのためである。しばらくサロンには来られないとしても、せめて無事に過ごしてほしい。


「お願いファンスウ、誰に海軍を指揮させるかなんてジーアンには些細な問題でしょう? これ以上アルフレッドが酷い目に遭わないようにして!」


 ソファの前に膝をつき、アニークは古龍の手を取って乞うた。眉をひそめた老人に「お願いよ」と繰り返す。


「あたしもちょっと、恩人を貶めるのは不本意ね」

「だな」


 向かいのソファでウァーリとダレエンもそう言った。心強い援護にアニークは目を潤ませる。

 こうなればファンスウも突っぱねることはしなかった。溜め息をついて古龍は次の話を始める。


「まあ良かろう。その気になれば再編はいつでもできることじゃからな。で、人質のほうはどうする? 騎士の代わりをよこさせるか?」


 この発言にもアニークは噛みつかなければならなかった。


「私はアルフレッドじゃなきゃ嫌よ! 容疑だってすぐ晴れるに決まってるんだから、代わりなんて考えないでよ!」


 至近距離で怒鳴り散らされたファンスウが耳を塞ぐ。


「事故ならともかく殺人なんかじゃ絶対ないから! 二人は本当に仲が良くて、なんでも相談できるって感じで、私はちょっと──いえ、かなり羨ましかったくらいなんだから!」


 前のめりに力説すれば今度は蠍に「わかったから落ち着いてちょうだい」と引き剥がされた。


「……ッ」


 鐘がまた打ち鳴らされる。強すぎる衝撃に乱れた心をなお乱すように。

 ユリシーズはいなくなり、アルフレッドも囚われた。

 毎日一緒だったのに、明日もそうだと思っていたのに、これからどうなってしまうのだろう。


「……アルフレッドに会いたい……」


 そう呟けば全員から首を振られた。取り調べが済むまで待てと。

 毎日会えると思っていた。目を合わせてもくれなくても、会話すらまともにできなくても、毎日ここに来てくれていたから。


(アルフレッド……)


 心配で心配で堪らない。酷い怪我をさせられていないだろうか。寒い思いをしていないだろうか。今日だってあんなに顔色が悪かったのに。

 すぐにでも駆けつけたいのにそうできない己がもどかしく、アニークは打ち震えた。騎士の顔を目にするまで不安は消えてくれそうになかった。




 ******




 包帯まみれの青年の身体を横たえ、ブラッドリー・ウォードは重い溜め息を押し殺す。

 レドリーが拳を振り上げ、アルフレッドが憂さ晴らしに殴られる。子供時代から二人のいざこざは形を変えていないらしいが、これほど陰鬱な気分でこの甥っ子を眺めるのは今日が初めてだ。


「……とりあえず意識が戻ったら改めて事情聴取じゃな」


 背後で反響した声に振り向くとニコラス・ファーマーやほかの十人委員会の面々が早くも半地下牢を引き揚げようとしていた。これから潮が満ちてくる。もたもたしていては膝まで水に浸かってしまう。

 固く瞼を閉ざした騎士は少しも目覚める気配を見せない。牢獄に備えられた石の寝台に十分な高さがあるのを確認し、ブラッドリーは手にしたランタンをそっと壁に吊り下げた。どこにも毛布が見当たらないので自分のマントを囚人の肩にかけておいてやる。


「ブラッドリー」


 呼ばれて急いで踵を返した。灯りを手に待ってくれていたニコラスのもとに歩を速める。

 カツンカツンと響く足音に混じって波の音、鐘の音。どうしても耐えがたくなってつい声を震わせてしまう。


「……何かの間違いではないのか?」


 問われた老人は冷静だった。妙な希望は持つなと諭すようにゆっくりと首を横に振られる。


「海軍での取り調べで黙秘したのは事実だそうじゃぞ。まあ何か喋ろうとした矢先に殴る蹴るの暴行を受けたのやもしれんが……」


 ニコラスは「防衛隊はよく働いてくれているし、わしとしても疑わしいだけで罰したくはないがな」とぼやいた。だが彼は彼個人の裁量でどうこうできる問題ではないということも悟っていたに違いない。


「疑いが晴れなかったときは覚悟しておけよ」


 しわがれた声がそう告げる。切り捨てるものを選ぶ残酷な響きを持って。


「…………」


 ブラッドリーは答えなかった。何も答えられなかった。

 真っ暗な半地下に階段を上る足音が響く。波の侵入する音がする。

 ──そして鐘の音。

 誰かの高笑いじみた鐘の音。

 夜が闇を深めていく。

 朝が来るなど信じられないほど暗く、深く。

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