第1章 その2
あまりに長く打たれ続ける鐘の音にウァーリは眉間のしわを濃くする。
初めのひと撞きが六時の知らせの後だったから、それでもう異常が起きたと知れたのに、まるで慟哭するように大鐘楼は騒ぐのをやめない。斜め向かいのレーギア宮に仮住まいする身としてはやかましくて仕方なかった。
「ちょっと何があったのかゆりぴーに聞いてくるわ」
そう言ってラオタオが幕屋を出て早一時間、狐からも駄犬からも続報がなく、そろそろ我慢の限界だった。騒音に弱いダレエンなど「この鐘はいつまで続くんだ?」と苛立ちに足を揺すっている。
そういうわけで今日の帝国幹部の集まりはまったく体をなしていなかった。これ以上耐えても無駄ねと見切りをつけてウァーリは組んでいた足を下ろし、すっくと長椅子から立ち上がる。
「あたし表見てくるわ」
ファンスウも止めはしなかった。こちらがそう言い出さなければ彼のほうがそうせよと命じていたところだろう。
「俺も行く」と絨毯に転がっていた狼男も立ち上がり、隣に並ぶ。中庭を歩き出せば大鐘楼などすぐそこだった。
「酷い、酷いわ……」
「一体どうしてこんなことに……」
鐘の音に混じってすすり泣く声が響く。冷たい秋の夜だというのに広場には黒山の人だかりができていた。
集まった人々はランタンを手にうつむいている。祈る者もいれば呆然とするだけの者もいた。その合間を縫って歩き、ウァーリは高々と聳える大鐘楼へと近づいていく。
聞き取れたアレイア語を繋ぎ合わせて考えるに、どうも誰かが死んだらしい。「突き落とされた」とか「殺された」とか物騒な言葉も聞こえた。
レンガ塔の入口正面まで来ると話し声さえしなくなる。誰もが無言で「彼」を見ていた。いくつもの灯りに照らされた白銀の騎士の無残な死体を。
──これだったのだ。尋常でない鐘の音が告げていたのは。
同心円状にめり込んだ石畳は落下の衝撃の激しさをまざまざと物語っていた。穴には血溜まりができており、そこら中に脳と思しき小塊や肉片が飛び散っている。丸みのある甲冑には確かに見覚えがあった。先程からさんざん囁かれている名前もよく耳にするものだった。
(ああ、もう、なんてお悔やみ言おうかしら)
額に手をやってウァーリは大きく息を吐く。
アニークの悲しむ顔を想像すると今からつらい。ただでさえあの子は不遇な娘なのに。
(ラオタオがなかなか帰ってこないはずね)
いつもなんでも報告させていた男がここにいるのだから現状を把握するのに手間取って当然だ。しかもこれが殺人事件だというなら尚更。
「おい、アイリーンだ」
と、ダレエンがウァーリの肩を掴む。夜目の利く狼男は少し離れた人混みをさっと指差した。
見ればフード付きケープを纏った血色の悪い女が最前列で骸を眺めて震えている。獣の勘が働いたかダレエンは列を割り、大股で彼女に接近した。
「アイリーン!」
「ひえっ!? あわわ、ダダ、ダ、」
あっと言う間にアイリーンは細腕を絡め取られる。ダレエンはそのまま彼女を大運河側の広場の縁まで連れ去った。人垣を抜けてきたウァーリがようやく二人に追いつくと同時、強い語調の問いが響く。
「さっきからハートフィールド、ハートフィールドとやたら耳に入ってくる。あの死体はなんなんだ? アルフレッドが関係しているのか?」
え、とウァーリは群衆を振り返った。そう言えば彼そんな苗字だったわねと漏れ響く会話に耳を澄ませて思い出す。
(え? 待って? 確かユリシーズは突き落とされて殺されたって……)
今度はダレエンとアイリーンを振り向いた。狼男は怯える女に「何か知っているなら話せ」と迫っている。
彼女の口から出てきたのは信じがたい──本当に信じがたい言葉だった。
「そ、その、アルフレッド君は、犯人だと勘違いされて海軍に連れて行かれたみたいなんです」
涙目で答えたアイリーンに二人で「はあ!?」と声を揃える。
初めウァーリはルディアの練った撹乱作戦かと疑った。こちらを動揺させた隙に裏で何か進めようとしているのかと。
だがすぐにそれはないなと思い直す。アクアレイアにとってこのマイナスは大きすぎる。ユリシーズは王女にとっても据えておきたい駒だったはずだし、アルフレッドまで盤から下ろすなど愚の骨頂だ。
「現行犯逮捕だったということなんですが、どうしてアルフレッド君がそんな誤解を受けたのか私たちにもまったく全然わからなくて、困惑しているところでして……」
どうやら本当に突発的なアクシデントらしい。アイリーンはしどろもどろに「海軍が暴走気味で危険なので、姫様たちも十人委員会のニコラスさんの館に身を寄せているんです。少なくとも明日までは出てこられないかと」と現状を語った。
ウァーリは小さく息を飲む。思ったよりも話が深刻そうではないか。
「とりあえず問題が起きたってことはわかったわ」
これはこちらも話し合って対応を決めたほうが良さそうだ。「行きましょう」と渋面のダレエンの袖を引く。
「待て。もう引き返すのか? まだろくに何も聞いて……」
「あたしたちはあたしたちで独自に調査すればいいでしょ。王女様からの報告はいずれまたあるわよ」
撹乱作戦の線が消えたわけではない。アイリーンの話ばかり鵜呑みにせずに情報は精査すべきである。
「じゃあね」と脳蟲学者に別れを告げると狼男の腕を掴んだまま歩き出した。いつまでも泣き声の止まない広場をずんずんと進んでいく。
ユリシーズが死んでアルフレッドが捕まった?
しかも現行犯逮捕?
(本当に、あの子になんて言えばいいのよ)
死んだのがアルフレッドのほうでなかったのが不幸中の幸いだ。アニークの悲しみがまだしも少なく、立ち直れそうなほうだったのが。
今日も今日とて詩作に励んでいるだろう彼女を思って胸を痛める。ともあれまずはこの異常事態をファンスウに知らせなくては。
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思わずぺらぺら喋ってしまったが大丈夫だっただろうか。油断すると眩暈で倒れそうになる貧弱な身体に喝を入れ、アイリーンは広場奥のゴンドラ溜まりを目指して歩く。
想像以上にグロテスクだった墜落死体の惨状を目にしたせいで吐き気がした。胃液が喉までせり上がっている。常人よりはああいったものを見慣れていると思ったのに、己もまだまだ修行不足だ。
「ウニャアア」
「あ、ブルーノ」
ふらつきながら広場の端を進んでいると人垣に隠れていたブルーノが案じてこちらに寄り添ってきた。血の苦手な弟も心なしか青ざめている。よたよたと一人と一匹、覚束ない足取りで前へ進んだ。
アルフレッドが関わっていない証拠を見つけよう。そう意気込んでここまで来たのにそんなものは一つとして見つからなかった。逆に彼に不利な話ばかり耳にして。
海軍に連行されるとき、なぜ大鐘楼から出てきたのか彼は答えられなかったそうだ。しかも今日の昼過ぎに何十分もぼんやりと鐘室を見上げる騎士の姿が複数人に目撃されているという。おまけにユリシーズが落下する直前、剣戟の音が響くのを聞いた者までいるのだとか。
根も葉もない噂話が独り歩きしているだけだと思うが聞けば聞くほど不安になった。一つくらいアルフレッドの関与を否定する話が出てきてくれてもいいはずなのに。
どうしてあんな勤勉な騎士が疑われねばならないのだろう。アルフレッドはとてもいい子だ。いつも頑張っている彼がこんな事件の犯人なわけがない。
「アイリーン?」
と、そのとき、唐突に名前を呼ばれてアイリーンは身をすくませた。まさかまたジーアンの将軍ではなかろうな。びくびくしながら振り返る。渋くて低い声の響いた人だかりを。
「ああっ!? カロ!?」
広場の一群によく知るロマの姿を見つけてアイリーンは叫んだ。世の中そう悪いことばかりではないようだ。こんな心許なくて仕方ないときに彼が帰ってきてくれるとは。
「カロ、カロ! 大変なのよお!」
「おい落ち着け、アイリーン。くっつくと嬉しそうにする馬鹿がいるんだ」
掲げたカンテラごと逞しい胸に突進したらそっと肩を押し返された。カロは何やら羽虫を払いでもするような奇妙な仕草をしてみせる。
「大変ってどうしたんだ? そこで大変なことになっている死体なら今さっき見てきたが」
どうやらカロも騒ぎを聞きつけて広場までやって来たらしい。死体を見たと言う割にけろりとしているのは生前のユリシーズをまともに覚えていないからだろうか。それともこれが真の耐性というものなのか。
「私たちこれからモリスさんのところへ行こうと思うの。良かったらそっちでゆっくり話さない?」
今までのことも聞きたいし、と誘えばカロは「わかった」と頷く。フスの岬で別れたときより眼差しは穏やかだ。
あのときあの決闘の後、カロについて行こうとしたアイリーンに「お前にはまだお前のやるべきことが残っているだろう」と言ってくれたのは彼だった。「ついでに俺の気持ちが落ち着くまであの女を見ていてほしい」と頼んできたのも。
親友の遺言をカロは果たす気になったのだろうか。だとしたらとても嬉しい。
ゴンドラ溜まりで適当な舟を見繕うとアイリーンはブルーノとカロとともにガラス工房へ急いだ。
そうだ。まだやるべきことがある。いつの日かアクアレイアを取り戻すために、ぐちゃぐちゃの人体を見たくらいでふらついている場合ではないのだ。
******
指揮系統が乱れるとどの部隊の誰がどこにいるのかさえわからなくなるものらしい。宮殿よりもなお広い、数千人の船大工が働く国営造船所でアンバーはチッと盛大に舌打ちした。
国営造船所内には海軍専用の軍港がある。各種工房に工廠もだ。巨大な門と分厚い壁に守られた建物群は全体で一つの小砦と言えた。
その中の、どこに容疑者が連れ込まれたのか誰に聞いてもさっぱりわからず兵舎やら訓練場やら一つ一つ見回る羽目になったのだ。ラオタオなんて酷薄な男を演じている今切れるなというほうが無理だった。
「お前さあ、ちょっと順番が違うんじゃないの?」
胸壁の一部をなす火薬塔の一階でようやく目当ての男を見つけ、アンバーはジーアン語で呼びかける。「尋問」に熱中していた愚か者は突如響いた不機嫌な声にびくりと肩を跳ねさせた。
「ゆりぴーが死んだっつーならまず俺に報告だよな? で、お前は一体こんなところで何してんの?」
薄暗い小塔の奥へと歩を進める。監視兼ハイランバオス役のウェイシャンも面倒そうについてくる。
火薬塔とは名ばかりで、倉庫はほぼ空っぽだった。適当に広くて適当に声が外に漏れない場所を選んだらここになったということだろう。正規の尋問手順については知らなかったか、はたまた踏まえる気がなかったか。いずれにせよ情報を引き出すためなら容疑者に──現行犯としてしょっ引いた彼に──何をしてもいいと考えたのは間違いない。
血の匂いを嗅ぎ取ってアンバーは顔をしかめた。足元には丸椅子が転がっており、その傍らに意識のない男が一人倒れている。
剣も鎧も剥ぎ取られた赤髪の騎士。後ろ手に彼の腕を縛った縄は擦り切れてたわみ、苛烈な暴行を受けた後なのが窺えた。
冷めた目で、アルフレッドを囲んでいる海軍兵士たちを見やる。この騒動の中心であるレドリー・ウォードを。
「なんで先に俺に報告に来ないわけ?」
今度はアレイア語で問うた。帝国の将を恐れるだけの理性を取り戻した少尉は「いや、あの、」と青ざめて言い訳を始める。
「報告は取り調べをしてからと……」
下手くそすぎる取り繕いに呆れずにいられなかった。ここにたむろする兵の一人を走らせれば問題が発生したとすぐに知らせられたではないか。日頃から使えぬ男と思ってはいたが、ここまで程度が低いとは。
「その取り調べもさ、やっていいって許可してないよな? なんだってお前はお前の勝手な判断で軍の一部を動かしてるわけ?」
答えろよ、と赤髪の青年に凄む。レドリーは蛇に睨まれた蛙のように全身を硬直させるだけだった。待てど暮らせども返事はない。つい先程まで無抵抗の容疑者相手にさんざん盛り上がっていたくせに。
「その子さあ、アニーク陛下のお気に入りだから傷物にされると困るんだわ。それくらいお前も知ってるもんだと思ってたけど、言わなきゃわかんなかったかな?」
ほとんど突き飛ばすようにしてアンバーは棒立ちのレドリーを押しのけた。打撲痕だらけの騎士を担ぎ、気絶するまで殴るなんてと内心で憤る。
そのまま立ち去ろうとしたら愚か者は更に愚かにアンバーを引き留めた。
「ど、どこに連れて行く気ですか? そいつの容疑はまだ晴れていませんが」
寝言をほざかれて思わず「は?」と眉をひそめる。
「お前まだやる気なの? アルフレッド君は女帝陛下のお気に入りっつったの聞こえなかったのか?」
「でも、罪人は罪人です! そいつがユリシーズを殺したのは間違いないのに拘束を解くなんて……!」
レドリーは「ユリシーズだって女帝陛下のお気に入りだったじゃないですか! アルフレッドだけ特別扱いしないでください!」と訴えた。ジーアンの将軍に対してなかなか勇気ある嘆願だ。
同時に深い考えがないことも見て取れた。目の前の、自分が納得しがたいと思っている事柄についてしか頭を回せぬ男なのだと。
「あっそう」
無視しても良かったが、危ういものを感じてアンバーは立ち止まる。見れば小塔の海軍兵士らは全員レドリーと似たような顔をしていた。つまり義務より義憤を優先しそうな顔を。
(こりゃもう『海軍』ではないかもね)
ただの集団。下部組織である警察も最悪瓦解するかもしれない。
こうなることを恐れてルディアの敵であるユリシーズをあえて重用してきたのに、今になって要石を外されるとは。
ともかくこれ以上海軍を刺激はできない。ここはどうにか彼らの不満をやり過ごさねば。
「そんじゃこいつは十人委員会に預けるわ。取り調べなら爺どものが得意だろ。牢屋に入れて、有罪ってことなら罰も受けさせる。それでいいよな?」
最大限の譲歩に一応反論は返らなかった。放っておいたらまためちゃくちゃな行動を取り始めそうな馬鹿どもにもう一つ指令を与えておく。
「そんなにゆりぴーが大事なら見世物にしないで回収してやれば?」
終わったら全員兵舎で待機だと、端的に告げてアンバーは火薬塔を後にした。一向に目覚める気配のないアルフレッドを揺らさぬように気をつけて夜の軍港をひた歩く。
なんとかせねば。せめてルディアをドナに連れて行くまでは、海軍には海軍の体裁を保ってもらわねばならない。
シーシュフォスを提督に戻す? いや無理だ。あの男は天帝に退けられた。
ブラッドリーは? いやこれも駄目か。反発が起きるのは必至だ。
一番いいのは十人委員会に海軍の指揮権を委ねることだ。だがこれは古龍が頷くかわからない。ファンスウはこの混乱を利用してアクアレイアの軍事力を掌握せんとするかもしれない。
(……情に訴えるしかないか)
アンバーはアニークの寝所に集まろうと決めた。レドリー以上に感情で動くあの女の子を頼るのは、それはそれで恐ろしかったが。
けれどもう四の五の言っていられない。「ラオタオ」への不信は高まりきっているのだ。持てる力を奪う機会をファンスウは見逃すまい。
やるしかなかった。ここまでどうにか歩いてきた細い綱を渡りきるために。




