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第4章 その4

 漕がなくていいとカロが言った。自分とイーグレットとで漕ぐからと。

 座っていろと促され、ルディアはバジルと腰を下ろす。四本の櫂のうち二本を手渡された父は瞬きもろくにできないでいた。


「二十年ぶりだが行けるな?」


 追いつくぞ、との宣言が父の瞳に火を灯す。言葉はもう必要なかった。二人は揃ってゴンドラに座し、進行方向とは逆を向き、両手で櫂を回し始めた。


「うわっ、なんだあの体勢!?」

「馬鹿じゃねえのか!? ゴンドラのオールは立ち漕ぎ用だってのに!」

「いや待て、意外と速ぇぞあれ!」


 驚愕の声が一瞬で遠ざかる。ゴンドラは風を切り裂き、水上を滑った。

 二人の操船方法がアクアレイア人のそれでないのは明白だった。少なくともルディアは同じ光景を王国湾内で見たことがない。

 速さについてこられずに曲がり角では船体がほぼ垂直に傾いた。長いオールは時折でなく建物の壁を引っ掻いた。だがそんなこと物ともせずにゴンドラは前進する。櫂捌きは見事にシンクロしている。水をひと掻きするごとに父の目は輝きを増した。まるで無垢な少年のように。


「まさか君とレガッタに出られるとは!」

「なぜだ? 約束だったろう。忘れていたのか?」

「忘れやしないさ。でも今になって、君が来てくれるなんて思わなかった!」


 イーグレットの視線がハッとルディアたちに向けられる。「聞いてませんよ。大丈夫です」との意思表示にバジルがそっと耳を塞いだ。

 ルディアも弓兵の配慮に倣う。本当は聞こえてしまっていたけれど。


「ずっと謝りたかったんだ」


 王の言葉にロマは大いに困惑した。「なんの謝罪かわからない」と手は緩めずに尋ね返す。


「妻を得るためにグレースの要求を呑んでしまった。入国禁止法なんて作って君たちを国外に追い出した」

「それは事前に聞いていたぞ。他の仲間が怒ったからか? 匿ってやったのに恩を仇で返されたと? だとしたら見当違いだ。あいつらを説得すると言ってできなかったのは俺だ。お前には心配するなと言っておいて」

「だが私が君を孤立させたことに変わりは……」

「悪法は覆してくれた。だったらそれで十分だ。俺を助けてくれる奴がいなくなったわけでもない。むしろ俺のほうこそお前に合わせる顔がないと――いや、せっかくの再会だったな。もっと楽しむことにしよう。昔教えてくれた歌があっただろう? イーグレット、あれを歌ってくれ」


 話の間に抜き去った舟は二十を軽く超えていた。もしかすると父とカロには急流上りの経験でもあるのかもしれない。一瞬の間にまた一艘、たちまち二艘、三艘と置き去りにして行く。


「『酒神と烈女のゴンドラ』か。おあつらえ向きだな」


 観客は再び騒然となった。路地や桟橋から転げ落ちんばかりに身を乗り出し、群衆は王を乗せた舟の行方に釘づけになる。

 後方からの大歓声に驚いて先に待ち構えていた人々も目を剥いた。凄まじい速度で迫る船影に。


「陛下だ! 陛下が追い上げてきてる!」

「なんだあれ!? なんで二人で漕いでんだ!?」

「ちょっと待て! 何か歌ってらっしゃるぞ!」


 爽快だ。未だかつてこんな爽快な気分になったことはない。

 運河沿いの建物の窓という窓から王国旗が振られていた。たくさんの人間が父に手を振っていた。

 黒い肌のロマと白い肌の王が仲良く口ずさむ節に乗り、ルディアも混ざって歌い始める。子守唄代わりだった抒情歌を。



 来たれ、我が軽舸(けいか)に 誰が汝の明日在ることを知らん

 青春は麗し されど川のごとく過ぎ去る

 愉しみたければ今すぐに 今日は再び巡らぬものを



「おや、我々以外にも歌える者がいたとはな」


 父は喜び目を細めた。その表情は晴れやかで頼もしく、長患いが癒えたように見えた。

 舟はいよいよ最後のカーブに差しかかる。視界に捉えたのは三艘のゴンドラ。おそらくあれが先頭だ。二人の漕ぎ手もその影を見据えていた。


「ゴールまでに抜けるかな?」

「抜けるに決まっている。俺とお前が漕いでいるんだぞ」


 できるなら今すぐ紙より軽くなりたい。ルディアには漕ぎ手の邪魔にならぬよう縮こまっているしかできなかった。それでも歌は二人を元気づけたらしい。ゴンドラは勢い激しく水壁を築いて最終カーブを通過した。

 舟の速度が生み出す風の快さ。初めて見る父の勇姿。

 胸が震える。目頭が熱くなる。

 守らなければと考えたのは己の驕りだったかもしれない。内心では自分とて王を見くびっていたのだ。この人では民の心を一つにできない。私がしっかりしなければ、と。それがどうだ。


「陛下ぁ! あとちょっとですよぉー!」

「頑張れーっ! 頑張れーっ!」


 絶叫じみた声援がいくつもいくつも降ってくる。真珠橋は目前だった。猛追に振り切られた二艘が呆然としている。最後の一艘はがむしゃらに逃げた。

 大理石の橋の上、人々は固唾を飲む。

 入ったのは同時、出てきたのは――。



「すげー! 陛下が勝っちまったぞーッ!」



 大気も揺れる喝采の中、祝福の花が散らされたのはイーグレットの舟だった。

 どよめきと熱気。櫂を置き、立ち上がった父が高く拳を突き上げる。

 王の名は繰り返し叫ばれた。花弁が水路を埋め尽くした。

 ゴンドラはスピードを落とし、ゆっくりと岸辺に近づく。興奮を抑え切れずに民衆は先を競って王のもとへと駆けつけた。


「ありがとう、楽しかった。今日は最高の一日だ」


 栄光を掴んだ二人が船上で握手する。惜しみない拍手はカロにも注がれた。ロマだとばれると外聞が良くないからか、仮面は最後まで取らないままだったが。

 ルディアとバジルはイーグレットの両脇を固めて舟を降りた。すぐさま護衛部隊が飛んできて王の周囲から人を散らす。だがその程度では父に群がる人々を立ち退かせられはしなかった。


「素晴らしい熱戦でしたね。もしや陛下はゴンドラ漕ぎのほうがお向きなのでありませんか?」


 と、不意に響いた男の声にルディアは人垣を振り返る。そこはかとない邪気を孕んだ預言者の皮肉。出たなと胸中でほくそ笑んだ。


「おお、ハイランバオス殿にもお楽しみいただけましたかな。私も張り切った甲斐がありました」

「ええ。手に汗を握りましたよ」


 ハイランバオスが寄りつくや、数羽のカラスがイーグレットの頭上で旋回を始める。脳蟲が仕込まれているのはすぐにわかった。少しでも不吉を演出し、勝利にケチをつけたいのだろう。鮮やかな逆転劇で事故の記憶を上書きされては困るから。


(さすがのお祖母様もお父様が一着でゴールするとは考えていなかっただろうしな)


 計算違いはグレースの最も忌み嫌うところだ。ユリシーズの手による謀略は五分五分程度に見ていただろうが、王の威光に傷をつけて相対的にグレディ家を持ち上げる計画はまったく後退したはずである。今も微笑の裏側で腸を煮え返らせているに違いない。


(ざまあ見ろ。さあ、その聖預言者の仮面もそろそろ引っぺがしてやろう)


 ルディアはごく淡々と「陛下、ハイランバオス殿」と呼びかけた。


「ん? どうかしたかね?」


 イーグレットがきょとんと尋ねる。ルディアはさも今思いついたかのごとく国王に提言した。


「ユリシーズ中尉はおそらくもう戻ってこられないでしょう。しばらくの間、彼に代わって王都防衛隊がハイランバオス殿の身辺警護を務めさせてもらってよろしいですか? 折角ですし、この勝利のゴンドラで宮殿までお送りしようかと思いまして」


 気の利いた申し出にイーグレットは二つ返事で頷いた。


「おお、それは助かる。是非そうして差し上げてくれ」


 異国の宣教師は一瞬顔を強張らせたが、群衆の羨む声に押されてゴンドラに乗り込んだ。

 思惑は隠してルディアとバジルも舟に戻る。櫂を握ったカロは無言で大運河に漕ぎ出した。





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