第1章 その1
大鐘楼の鐘が鳴った。ガンガンと何度も何度もけたたましく、開戦でもしたかのごとく。
異様に激しい音だった。ドナとヴラシィに攻め込まれたときでさえこれほど不安を掻き立てる音は耳にしなかったのではと思う。
どこかで何か起きたらしい。異常を察してルディアは窓の外を見やる。
既に日は落ち、街は闇の中だった。先程まで赤かった西空もすっかり紺碧に染まっており、路地や運河に目を凝らしても窺えるものは何もない。
「変な鐘ね。どうしたのかしら?」
背後の声に振り向くとアイリーンも首を伸ばして外の様子を気にかけていた。彼女の隣では夕食の皿をテーブルに並べるモモが「やだなあ、事故でもあったかなあ」と幼い顔をしかめている。足元で毛繕いしていたブルーノも同じくだ。
確かに妙な鐘だった。止める者を失ったようにその音は続いていた。
そう、普通なら数度も打てば何を知らせる鐘なのかわかる。何しろ大鐘楼の大鐘は五つもあって鳴らし方も決まっているのだ。それなのに今日の鐘撞き人は正しい鐘の撞き方がわからなくなってしまったようだ。
「…………」
あまりに長く続く響きにルディアたちは目を見合わせる。まだレイモンドもアルフレッドも戻っていないし探しに出たほうがいいのではなかろうか。そう考えたときだった。ブルータス整髪店のすぐ裏に船室付きのゴンドラが停まるのが見えたのは。
客が来たと判別できたのは桟橋からまっすぐにカンテラの灯が近づいてきたからだ。黒ローブの人影は迷いもせずに二階居住部の玄関へと上がってきた。
間もなくコンコンと控えめなノックが響く。あまり良くない類の予感に腰のレイピアを握りつつルディアは客人を出迎えた。
「在宅中で助かった。実はちと厄介な事態になってな。取り急ぎわしの家まで来てもらえんか?」
現れたのは十人委員会の重鎮ニコラス・ファーマーだ。思いもよらぬ来訪にルディアがぱちくり瞬くと老人は「すぐ頼む」と強く腕を引いてくる。
「おぬしも、そこの斧兵たちも、何も言わずについてきてくれ。馬鹿者どもがこの店に踏み込むことを思いつく前に」
ニコラスは何があったか説明しない。「ほれ、早く!」とこちらを急かすのみだった。
鬼気迫る声にルディアは息を飲む。どうやらよほどの大問題が発生したようである。鐘の音はまだ止んではいない。それなのにニコラスが防衛隊を呼びにきた。であればおそらく部隊にも関わり深いことなのだろう。
「何があったのです? 移動するならレイモンドとアルフレッドを待ちたいのですが」
問うと老人は小さく首を横に振った。
「レイモンド・オルブライトとパーキン・ゴールドワーカーには迎えをやった。アルフレッド・ハートフィールドが戻ってくることはない」
断言されて眉をしかめる。しかし考える猶予は与えられなかった。これ以上時間を浪費できないとばかりにニコラスは早足で外階段を下りていく。
「さっさとせい。でないとおぬしらを守れなくなる」
状況は飲み込めないままだったが委員会の招集に応じないわけにいかない。「ひとまず行こう」とルディアはモモたちに呼びかけた。夕飯手つかずなのに、と不服そうな斧兵と、弟猫を抱くアイリーンと、揃って桟橋へと向かう。
一体何が起きたのだろう? 疑問は膨れ上がるばかりだ。
以前一度乗せてもらったゴンドラはこじんまりした船室の扉を開いて待っていた。対面型のソファの一席に身を落ち着け、向かい合う老人を見やる。
モモとアイリーンが乗り込むとただちに扉が閉ざされて、船頭がゴンドラを漕ぎ出した。鳴り響く鐘の下、舟は暗い水路を進む。
「モモたちになんのご用? パンがカチカチになる前に帰れる?」
腹を空かせているらしい少女が渋面で老人に尋ねた。ニコラスは返答せず、代わりに乾いた瞼を伏せる。
重い、重い、重い嘆息。
長い、長い、長い沈黙。
それだけでただごとでないと知れる。
「……落ち着いて聞いてくれるか」
どれくらい経った頃だろう。痩せた手を組んでニコラスが言ったのは。
そうして最初の激震がもたらされた。防衛隊発足以来、おそらく最大となる激震が。
「アルフレッド・ハートフィールドがユリシーズ・リリエンソール殺害容疑で捕まった」
******
不測の事態というものは突然やって来るらしい。真っ白になった頭に最初に思い浮かんだのは「嘘だろう?」のひと言だった。
だってあの騎士は超のつく真面目男だ。殺人はもちろん盗みや恐喝といった不道徳とは無縁である。どう考えても人殺しの容疑者に挙げられるような人間ではない。
死んだのがユリシーズというのも誤報ではないか疑った。あんな悪運の強い男は滅多にいない。死刑台から生還したのは後にも先にも彼一人だ。今の彼の立場なら危険は極力避けるだろうし、簡単に殺されそうにも思えなかった。
だがニコラスは海軍がアルフレッドを現行犯逮捕したと言う。信じがたいが現場にいたのは事実らしい。それにしたっておかしな話だ。己はつい先刻まで──完全に日が暮れる少し前まで騎士と一緒にいたのだから。
ここでは詳しく話せないと言う老人に従ってルディアたちは大運河に面する古い館の裏口に降り立った。足音を忍ばせてこそこそとファーマー邸の三階に上がる。キャンバスと石膏像の並ぶ絵画室、整然とした書斎を抜ければ誰かの私室と思しき一室に辿り着く。ドアを開くと不安げな顔の先客たちが所在なく寝台の前に突っ立っていた。
「あっブルーノ! モモさんとアイリーンと猫ちゃんも!」
「良かった、とりあえず合流できて」
パーキンもレイモンドも無事の再会にほっと安堵の息をつく。一瞬緩んだ頬はしかし、最後に入室したニコラスに気づいて再び固まった。
二人とも連れてこられた理由については聞き及んでいるようだ。印刷技師がもみあげをひくつかせながら老賢人に問いかける。
「あ、あのー、マジなんすか? 隊長さんが海軍にお縄にされたって」
問われたニコラスは「残念ながら本当じゃ」と骨ばった肩をすくめた。
老いてなお鋭い目がルディアたちを順に見回す。困惑はしても取り乱した者がいないのを確かめて老人は詳細の説明を始めた。
「わしもまだ全容を把握できているわけではないが、ユリシーズの遺体はこの目に見てきたよ。大鐘楼の一番上から落ちたらしい。酷い有り様じゃった」
マントや鎧に白鳥の紋章がなければ誰かわからなかったかもしれないと彼は言う。頭が割れて、顔まで潰れて、正視に堪えぬ姿だったと。
事件現場がどこであったか知らされてルディアは大きく目を瞠った。そこは最後に騎士と待ち合わせた場所だったから。
(巻き込まれたのか? たまたま近くにいたせいで?)
アルフレッドが事件に関与していたとはルディアにはまだ考えられなかった。何か不運な取り違えが起きて誤解されたのだろうとしか。
だからニコラスが「アルフレッドは大鐘楼から出てきたところを取り押さえられたそうじゃ」と言ったときもすべてが事実とは思わなかったし「大鐘楼はユリシーズの指示で人払いされていたようでの。二人はそこで密会していたと思われる」と続いたときも誰の話かしばらく悩んだほどだった。
モモも、アイリーンも、ブルーノも、レイモンドもぽかんとしている。唯一パーキンだけは興味津々で聞いていたが、その態度に透けて見えるのは仲間を案じる心ではなく完全な野次馬根性だった。
「ともかく君らの隊長は海軍に連行された。今取り調べを受けていると思う。わしらもこれから臨時会議を行う予定じゃ」
街に変事を告げる鐘は──十人委員会を呼ぶ鐘は──今も重く響いていた。それなのになぜかニコラスは動こうとしない。どう考えてもレーギア宮に急ぐべきなのに、まるでまだ大事な話が終わっていないという態度だ。
否、ルディアにもわかっていた。事の真相がどうであれ非常にまずい展開になっているということは。このしたたかな老人が会議よりも優先させたことが何かも。
「ユリシーズの死がアクアレイアにどんな混乱をもたらすか、おぬしたちには理解しておいてもらわねばならん」
我々は英雄を喪ったと暗い声が呟いた。国の頭脳たる十人委員会の一員を、離散しかけた海軍を統率した提督を、人々の輝かしい希望をと。
「民衆は深く悲しむじゃろう。あることないこと噂が飛び交うのは間違いない。本当に殺しかどうかはっきりする前からな。二人とも女帝のサロンの常連で、一方は帝国自由都市派、一方は王国再独立派だったんじゃ。邪推の燃え種には事欠くまい」
ニコラスの未来予想に皆一様に息を飲む。アルフレッドが窮地に立たされていることは誰の頭でも理解できたようだった。
だが警告の真意まで読み取れたのはルディア一人だけだったらしい。「こんな大事件、すぐに号外出さねえと」と手帳を取り出したパーキンに一同の非難が集中する。
「おいこら、アルをネタにすんじゃねーよ!」
「そ、そんなことしたら噂話がますます盛り上がっちゃうわ」
「もっと正確な情報が入ってくるまでは記事になんて起こさないほうがいいんじゃないの?」
「ニャア! ニャア!」
レイモンドもアイリーンもモモもブルーノも印刷技師の手帳を取り上げようとした。ルディアは一歩前に出てそんな仲間たちを制する。パーキンの思った通りに書かせるために。
「新聞にはしたほうがいい。いくらか事実と違っても」
この発言に皆驚いたようだった。「ええ、なんで!?」と素っ頓狂な声を上げてレイモンドが振り返る。
「あっ、もしかしてアルは人殺しなんてする奴じゃないって書くとか? それなら俺が文章やっても」
首を振れば善良な恋人はいっそう目を丸くした。苦い思いを堪えてルディアは彼に告げる。
「できるだけ他人事として扱うんだ。でなければ庇っていると思われる」
部屋はしんと静まり返った。絶句したレイモンドの、何を言っているんだという視線が胸に突き刺さる。
だが前言を撤回することはできなかった。それが今、この国のために取れる最善の行動だったから。
アルフレッドは防衛隊の隊長だ。そしてレイモンドはその部隊に属していた。繋がりを指摘する者は少なからずいるだろう。嘆きに飲まれ、攻撃できるものすべて攻撃しようとする者が。
「ブルーノ・ブルータスの言う通りじゃ。おぬしはこの先何があろうと絶対にアルフレッド・ハートフィールドを擁護するのではないぞ」
ルディアの戒めを引き取ってニコラスが続ける。老賢人はレイモンドに釘を刺した。政治という名の太い釘を。
「ユリシーズ亡き今、アクアレイアの希望と呼べる存在はおぬし一人になってしまった。煽りを食って共倒れになられると困る」
え、と引きつった声が漏れる。真っ先に安全地帯に匿われた青年はまだ何を言われているのかわからないという顔をしていた。
「印刷業は生まれたばかり。おぬしが躓けば経済も躓く。おぬしには今のまま、『大衆に支持されるレイモンド・オルブライト』のままいてもらわねばならんのじゃ」
ニコラスはこれ以上なくわかりやすくきっぱりと告げる。民に掌を返されて印刷業そのものがそっぽを向かれてはならないと。
「で、でもアルが大変なときに」
食い下がるレイモンドに老人は大きくかぶりを振った。
「正式に無罪となればいつもの付き合いに戻ればいい。それまでは大切な友人や仲間だなどと吹聴するな。約束できんならこの家の外には出せん」
再びレイモンドが声を失う。有無を言わせぬニコラスの双眸に気圧されて。
ルディアにも異論はなかった。アクアレイアが第一に守らねばならないのは新しい産業だった。恨まれてもアルフレッドとは遠ざけておくしかない。
「良いか? 王都防衛隊は王国解体時に消えた組織。慣例的におぬしらをその名で呼ぶこともあったが以後二度と名乗ってはならん。誰かに何か聞かれたら部隊は解散して久しいと言え。隊長の悪名に引きずられてどんなとばっちりを受けるか知れんからな」
ニコラスはもはや歯に衣着せようとしなかった。ただ懸命に、レイモンドの保身のために言い含める。可能な限り無関係を装えと。
「了解でっす!」と明るく答えたのはパーキンだった。印刷技師は手を揉んで十人委員会の重鎮に擦り寄る。
「面白おかしく書いちゃっていいってことですよね? 頑張りますねえ!」
「ああ、そうじゃ。任せたぞ」
そろそろ会議に向かわねばとニコラスは踵を返した。立ち去り際、老賢人はルディアたちを一瞥して「くれぐれも身辺に気をつけるように」と忠告する。
「よりにもよって一番平静を欠いているのが海軍だ。なんとか舵取りの努力はするが、今夜はここで大人しくしておれ。容疑者の仲間なぞ見かけたら不当に拘束せんとも限らん」
老人は暗にそうなれば救出できるか不明だと言っていた。わざわざ彼の館に隊員を集めたのはいざというとき簡単に連れて行かせないためだろう。混乱は既に始まっているらしい。
「海軍の押しかけそうなところには先んじて手を回した。ハートフィールド家の者はブラッドリーが保護したはずじゃ。おぬしらの無事も伝えておく」
手際のいいことでニコラスは打てる手は打ってくれた後らしい。ルディアの隣でモモが胸を撫で下ろした。
パタンと扉が閉められる。階下に足音が遠ざかる。部屋に響いた深い嘆息は誰のものともつかなかった。
ドナ入りまであと数日というところで、まったくなんという事態だ。
「もう、バッカじゃないの!? なんで殺人の容疑者なんかにされてんの!?」
落ち着いたらまた空腹が甦ってきたらしく斧兵は「モモのパン……、モモのスープ……」とうるうる瞳を潤ませる。食べそびれた夕飯に気を取られているあたり、彼女は兄の潔白を微塵も疑っていないようだ。
「アルフレッド君、いつ釈放されるのかしら。取り調べなんて災難ね」
ニャアと答えた白猫を抱いてアイリーンが顔を曇らせる。その彼女より青くなってレイモンドはじっと黙り込んでいた。
「……きっとすぐ戻ってくるよ。事件現場には偶然居合わせただけだと思う。最後に会ったときはもういつものアルフレッドだったしな」
ここ数日の幼馴染の落ち込みぶりをずっと案じていた男にルディアはそっと言い聞かせる。
「そうそう、あの真面目クンが人の倫理を無下にできるわきゃねえんだから、尾ひれつけるなら今のうちってね!」
などと原稿を書きつけるパーキンでさえ三日もすれば騎士は帰ってくるものと楽観している風だった。
だがレイモンドには友人を庇うなと言われたことがいささかショックだったらしい。「ああ、そうだな。すぐに戻ってくるよな」と応じる笑顔はどことなくぎこちなかった。
ニコラスは正式に無罪とわかれば今までと同じに付き合えばいいと言ったがそういう問題ではないのだろう。友情を示すということは。
(……しかし、よりにもよって死んだのがユリシーズとはな)
収束までかかりそうだと嘆息する。王国の潰えた後、彼は実質たった一人で人々のあらゆる期待を背負ってきたのだ。顔見知りこそ多いものの新参貴族のレイモンドと由緒正しいリリエンソール家では地盤に差がありすぎる。損失を埋めるのに印刷業だけではおそらく不十分だった。
とにかくアルフレッドには一刻も早く牢を出てきてもらわねば。拘留期間が長くなれば十将にも何を言われるかわからない。
「あの、私、街の様子見てこようかしら」
と、おずおずとアイリーンが手を挙げた。
「私は防衛隊の隊員じゃないし、海軍に気をつける必要ないでしょう? 一応モリスさんにも事情を説明しておきたいし、どうせ工房島まで行くんなら事件現場がどんなだったか確かめておこうかしらって」
こういう場合、何を置いても情報収集から始めようとするルディアのために彼女は自分が行くと申し出てくれる。
無実は無実と思っているが降って湧いた難局に戸惑っていたのもまた事実。ルディアはありがたく提案を受けることにした。
「ウーニャ! ウニャ!」
姉が行くなら己もと弟猫が騒ぎ立てる。かくしてブルータス姉弟は夜の街に引き返す運びとなった。
「ありがとね、気をつけてね」
感謝をこめてモモがアイリーンの手を握る。レイモンドもカンテラを手渡しながら「頼んだぜ」と声を低めた。
「店にはまだ近寄るなよ。動けるようになったら我々もモリスの家に向かう」
「ええ、わかったわ。アルフレッド君が関わってないって証拠、探せそうなら探してみる」
ルディアの指令にアイリーンは小さく拳を握りしめる。そのまま彼女は猫を連れ、来たときと同じようにこそこそと出て行った。
アルフレッドはなんの罪も犯していない。誤解がとければすぐに解放されるはずだ。
非日常の不安感に苛まれつつもこのときは皆そう信じていた。不幸にも彼は事件に巻き込まれただけなのだと。
そう、この一夜が明けるまでは。




