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ルディアと王都防衛隊~海の国の入れ替わり姫~  作者: けっき
第6章 最後の悪夢 後編
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第6章 その5

 日没が迫り、人影もまばらになった広場で騎士を待ちながら、ずっと考え事をしていた。先刻のモモの言葉について、あるいは今朝のレイモンドの嘆息について。

 ああいう通告をするなら先に相談してくれと恋人は初めてルディアに苦言を呈した。一人で決めるのに慣れているのかもしれないが、一人で決めないこともそろそろ覚えてほしいと。

 もっともだと思う反面無理だなと諦めている自分もいる。レイモンドが強く言わなかったのは彼にもわかっているからだろう。根本的にルディアには人を信じられないということが。

 それならまだモモの「姫様にできることはアル兄がどんな結論出してきても認めてあげるくらいじゃない?」という言葉のほうが飲み込めた。それでさえ「聞き入れるか聞き入れないかは置いといて」という条件付きだったけれど。


「すまない。待たせたか?」


 ルディアを呼び出した男は午後六時を少し過ぎてから現れた。走ってきたのか軽く息が弾んでいる。顔色はいいのか悪いのかわからなかった。斜陽が彼を赤々と照らしていたから。


「悪いな。来客があって遅れた」


 アルフレッドの声音は普段と変わりなく聞こえる。とは言えある種の緊張は(はら)んでいたが。


「いや、たいして待ってはいないよ」


 答えると彼は「そうか」と息をつく。危惧していたように取り乱した様子はない。むしろ落ち着いて吹っ切れた感がある。

 昼間に会ったときはもっと悲壮さを漂わせていたから意外だった。話し合いの場ももっと選ばねばならないかと思ったのに。


「…………」


 沈黙の間に宿や船や家に帰ろうとする人々がルディアたちの脇を通り過ぎていく。昼間の喧騒が嘘のように辺りは静まり返っていた。広場にはもう数えるほどの人間しかおらず、街は巨大な夜の影に沈みつつある。

 アルフレッドが切り出すのは早かった。どこに捨ててきたのか知らないが、騎士の中にもうためらいはないらしい。


「俺はまだやめたくない」


 端的な言葉で決意が伝えられる。次はルディアが「そうか」と頷く番だった。

 難儀な主君に難儀な騎士だ。何も与えてやれないのが心苦しいと言っているのに。どうすれば頑固なお前にも伝わるのかな、アルフレッド。


「レイモンドに叱られたよ」


 ルディアはぽつりと呟いた。向かい合う男に言い聞かせるように。

 突然出てきた槍兵の名に騎士はきょとんと首を傾げる。「叱られたって?」と聞き返す彼に苦笑いを浮かべて答えた。


「私には悪い癖があるらしい。大事なものほど急に遠くにやろうとする、自分が関わらなくても平気だと、むしろそのほうがいいと思い込んで安心しようとすると言われた」


 彼もよくよく人を見ている。言われて確かにそうだと思った。ユリシーズと別れたときも、名乗れないままイーグレットに手をかけたときも、自分はただ怖かったのだ。レイモンドのことさえ強く引き留める気持ちを持てない。彼にほかの幸せがあると知ればそちらを取れと言ってしまうに違いなかった。

 だが悲しいかな、それが己の宿命だ。生きている限り同じ過ちを繰り返す。


「私の側に居続けるということは、こうして何度も同じように傷つけられるということだぞ?」


 ルディアは騎士に問いかけた。

 理不尽じゃないかと言外に告げる。ただでさえ偏った献身なのに。

 彼にはもっと相応しい主君に仕えてほしかった。名誉を与えられぬばかりか己の性向も変えられない、こんな人でなしにではなくて。


「今は良くてもそのうちきっと嫌になる。私がお前を『信の置ける男だ』などと思う日は永遠に来ない。それでも本当にやめないのか?」


 もう躊躇はしなかった。己の抱えた一番の弱さを晒すのに。

 自分から先に遠ざけようとするのは失望を恐れるからだ。国のためとかお前のためとか取り繕って、浅い傷で済ませたがる卑怯者なだけなのだ。

 自分自身を見限られるのに耐えられないから。終わりにされるより終わりにするほうが楽だから。

 たまたま私だっただけ。それならほかを選び直したほうがいい。グローリアでも、オプリガーティオでも、彼女こそと思うプリンセスを。だってやっぱり私は紛い物だろう。


「後になって悔いるお前を見ることになるのは忍びない。なあアルフレッド、本当に私なんかにこだわらなくていいんだぞ?」


 ルディアの問いに静かに騎士が瞠目する。

 暮れなずむ太陽の赤い光を受けながら、彼は初めて腑に落ちたという表情をした。ああ、と小さく騎士の口元で呼気が震える。やっと何が言いたかったかわかったと。


「俺がどこまでやれるかを、あなたが勝手に決めないでくれ」


 自分の人生に満足できるかどうかは自分に責任のあることだ。

 騎士は言う。それはあなたに持たせる荷物ではないと。

 なんとも彼らしい結論だった。「そうか」としか答えようのないほどに。


「だったらお前の好きにしろ」


 私でなくてもいいくせに、とはもう言わなかった。決めたことは譲らぬ男であるのはよく知っている。

 我々はやはり似た者同士なのだろう。彼も己も結局は一人で決断してしまう。

 だがそれでもいいのかもしれない。

 (ほころ)びだらけの姫と騎士でも物語を紡げるなら。




 ******




 夕刻の鐘が鳴ったきり大鐘楼はしんと静まり返っていた。いつもは複数いる兵士も、鐘撞き人も誰もいない。方形屋根の下の鐘室にユリシーズが一人佇むのみである。

 暮れゆく西空を眺めつつ赤みがかった強い光に目を細めた。

 都市全体に鐘の音を響かせるために鐘室には壁がない。四隅を支える角柱のほかは各辺に三本の細い円柱が立つばかりだ。

 連続アーチに切り取られた夕景は心に迫るものがあった。大鐘楼という場所の特別さを思えばなおのこと。

 どうも己の運命はいつもここで決まるらしい。壊したのも、囚われたのも、もう一度やり直そうと誓ったのも、すべて同じ塔だった。そして今日また未来が一つ定まろうとしている。

 はたして上手く行くだろうか。不安はちくりとユリシーズの胸を刺した。


 ──アルフレッドがルディアを裏切れなかったときは始末しなきゃいけないよ。


 振り払っても振り払ってもしつこく響く台詞に眉をしかめる。

 大丈夫だ、彼は約束を守る男だと胸中で繰り返した。

 アルフレッドが己の手を汚した経験がないのは確かだろう。だが別に、我々はルディアを殺したり犯したりするわけではない。行いはむしろ正義と言っていいほどだ。できないなどと尻込みされるとは考えにくい。あの男とてほかに選べる道がないから頷いたのに。

 はあ、とユリシーズは嘆息した。

 まったく嫌なことを言う女だ。リリエンソール家の権威にただ乗りしている分際で、いつまで経ってもグレディ家の当主気分でいるのだから。

 思考の乱れを自覚してユリシーズはかぶりを振った。落ち着けと自分に言い聞かせる。

 気持ちが乱れるのは今日サロンでアルフレッドに会えなかったせいだ。宮殿に顔を出したときにはアニークが彼を帰してしまっていたから。騎士の決意がどれほどか、もう一度この目で確かめていればこんな不安は感じなくて済んだのに、まったくもってついていない。

 だがそれももう少しの辛抱である。残り火のごとき太陽は西の山にほとんど沈みかけているし、間もなく彼も王女を連れてこの鐘室に現れるだろう。


「……!」


 予測に違わずそのときコツコツと遠くから足音が響いてきた。大鐘楼の頂に至る、最後の螺旋階段を上ってくる足音が。

 来た、と獲物に飛びかかる態勢に移ったのも束の間、ユリシーズは異なことに気づく。足音が一人分しかしないのである。

 まさかと冷や汗は垂らしたが、この時点ではまだ彼を信じていた。だが鐘室に姿を見せたのはやはりアルフレッド一人で、ルディアの姿はどこにもない。


「アルフレッド……?」


 呼びかけた騎士の顔は逆光でよく見えなかった。

 どもりながらも努めて平静にユリシーズは問いかける。


「ど、どうした? あの女を呼び出すのに失敗したのか?」


 声はわずかに震えていた。その震えを誤魔化すためにわざと明るいトーンで尋ねた。それならそれで一向に構わない。計画は仕切り直せば済む話だ。

 そうだと言ってくれと祈る。横向きに振られた首に希望は儚く砕かれたが。


「いや、下で会って話してきた。あの人には先に帰ってもらったよ」

「ど……どうしてだ? 人払いならしてあっただろう?」


 理解できずに混乱してくる。

 下で会って話してきた? 先に帰ってもらった? 彼は何を言っている?


「ありがとう、ユリシーズ。今まであれこれ気を揉んでくれて」


 アルフレッドは立ち尽くすユリシーズのすぐ側にそっと近づいた。そうして何やら意を決めた、晴れがましい表情を向けてくる。

「でも」と続いた声にくらくら眩暈がした。なんの茶番だと頭が受け入れまいとする。

 まさか自分の意志で王女を連れてこなかったというのか? そうできたのにしなかったと?

 誰も芝居の続行など許可していないのに赤髪の騎士は演技をやめない。早く冗談だと言ってほしいのに、種明かしをしてほしいのに、不整合な台詞の続きなぞ披露してくる。


「このやり方じゃ俺は前に進めないって思ったんだ」


 ユリシーズは声を失くした。呼吸をするのも忘れて喉を詰まらせた。

 形容しがたい嫌な予感がじわじわと胸を押し潰す。

 やっとの思いで口にしたのは「やめて一体どうするのだ?」という縋る響きの問いかけだった。


「あの女はお前の忠義を偽物だと思っているんだぞ? わからせてやらなくてどうする?」


 しばし考え込んだのち、アルフレッドは「別の方法を考えるよ」と笑った。もっと自分らしいやり方があるはずだとのたまう彼に全身が震えてくる。


「……騎士として主君を正すのは?」

「あの人が間違っていると思ったときは直接言う」

「あの女が聞くとは思えん」

「姫様が心を決めたならついていくしかできないな」


 彼はどうしてしまったのだ。わからなさすぎて思考が止まりそうになる。

 どうしてそんな風に笑える? どうしてあの女を受け入れられる?

 見くびられているのがわかっていないのではなかろうか。自分が軽く扱われ、二の次、三の次にされていることが。


(ついていくしかできないだと? あの女に捨てられかけて呆然自失していたくせに?)


 疑念は次第に怒りの色を帯びていった。理性では止めがたかった。

 くすぶっている火種なら心に山ほど抱えているのだ。ひとたび燃え始めれば火勢は強まる以外にない。


(なぜいつまでもあんな女の好きにさせる? あんな冷酷非道な女の!)


 湧き出た憤怒はユリシーズからあらゆる知性と品性を剥ぎ取った。気づかぬ間に視界を歪め、世界の見え方を捻じ曲げた。


(主君だから? 騎士だから? だからなんだ!?)


 信じられない。アルフレッドが彼女を許していることが。傷つけられたのはお前じゃないか、被害者は我々だぞと叫びたくなる。

 ルディアは自分の騎士を大切にしなかった。惨い命令で戸惑わせ、与えると約束したものを取り上げた。立派な詐欺だ。契約違反だ。


(別の方法を考える? このやり方では前に進めない? 二人なら大丈夫だと私が散々力づけてやったのに?)


 己のほうがよほどアルフレッドのためを考えて行動している。だというのに彼は愚昧な主君の考えを優先するというのだろうか。ユリシーズよりルディアのことを。


 ──でないとあの娘に何を報告されるか知れない。


 グレースの台詞が甦る。

 ぞっとした。今の彼は王女になんでも打ち明けてしまう気がした。

 ユリシーズはもうあんな女の味方になるつもりはない。傀儡にして使役するのでなかったら仲間のふりもできそうになかった。

 次にまたアルフレッドが「あの人の騎士に戻る」と言い出したらどうすればいいのだろう? 譲歩など絶対に不可能だ。


「私のことはどうなるんだ?」


 気がつけばユリシーズはそう赤髪の騎士に迫っていた。質問の意図を勘違いした男は変わらぬ微笑のままで返す。


「今回のことは俺の気の迷いだ。誰にも何も言う気はないよ」


 伝わらないもどかしさに歯噛みした。「違う」と強く首を振る。


「お前にとって私はその程度なのか? ルディアより、お前の仲間の誰よりも私はお前を案じているのに私と交わした約束のほうを反故にするのか?」


 え、と小さく声がした。想定外の言葉に驚く彼の声が。

 無性にそれが腹立たしい。示したはずの思いが半分も伝わっていなくて。

 自由都市派をやめていいと言ったときも、二人でルディアの首を絞めようと言ったときも、生半可な覚悟で口にしたわけではなかった。アルフレッドとてそれくらいわかってくれていると思っていたのに。

 どうして私が喜ぶなどと思ったのだろう? 彼のために描いてやった未来図を放り棄てたとにこやかに告げられて。


「ユ、ユリシーズ!?」


 狼狽した男の視線の先を追ってユリシーズは己が剣を抜いたことを知った。だがすぐに刃を振り上げるまではいかない。まだ怒りを抑えようとする分別がかろうじて残っていた。


「ど、どうしたんだ? ちょっと落ち着け!」


 斜めに後ずさりしながらアルフレッドはにじり寄るユリシーズに呼びかける。

 宥めようとする声は火に油を注ぐだけだった。理解してくれていなかったと思い知るだけだったから。


「落ち着けだと? 二人で決めて誓いまで立てた約束を一方的に破っておいて何をほざく!? 損も得も私は考えなかったのに! お前のこと以外何も!」


 それなのにお前はと吠える。

 間近で金属の擦れ合う硬い音がした。ふと見れば避けきれないと断じてか、アルフレッドも腰の剣を抜いている。

 またしても怒りが加速した。武器を向ければ誰だって身を守ろうとして当然だ。だがなぜかそのときは拒絶されたようにしか感じなかった。


「やめろって、ユリシーズ!」


 防戦一方のアルフレッドに何度叫ばれても止められない。激情のままに切り結び、手にした剣を振り回した。

 その反面、内心では激しい後悔が湧き起こる。

 ああ、何をしているのだろう。こんなことになったからには彼は二度と私を信じてくれないに違いない。

 助けてやろうとしただけなのに。守りたかっただけなのに。


(どうしてだ? どうしてこんな風になった?)


 怒りの後に訪れた嘆きはもっと悪い感情を引き起こした。何もかもおしまいだとユリシーズは剣を振るごとに恐慌状態に陥った。

 時の砂はもう戻らないのだ。二人で安らかに過ごした時間は。

 アルフレッドはルディアのもとへ帰ってしまった。己が絶対に跪けない女のもとへ。


(こうなれば確実に仕留めなければ──)


 そうだ。殺せば見ないでいい。あの女に仕えるアルフレッドの姿など。

 得られなかった宝石をほかの人間に奪われるなど断じて認められなかった。それが憎むべき敵になら尚更。

 殺してしまったほうが楽だ。何度も、何度も、何度も、何度も、名前を聞くたび、顔を見るたび、心臓が焦げつく痛みに耐えるより。


「……ッ!」


 毒の刃が皮膚を裂くように顔を狙って切りつける。しかし平静でないことも手伝って切っ先はなかなかアルフレッドに当たらなかった。

 掠るだけで死に至るのがトリカブトの強毒なのに剣は柱や床ばかり引っ掻く。列柱の間から突き落とそうと試みてもことごとくかわされた。


「ユリシーズ、話ならちゃんと聞くから剣を置いてくれ!」


 ガキンとまた剣戟の音。ユリシーズは執念深く攻撃を続けた。赤髪の騎士はその刃を打ち払いつつ説得を繰り返す。


「お前には感謝している! 俺にこれからどうしたいと聞いてくれたのはお前じゃないか! 俺の答えを受け入れてくれないのか!?」


 わかっていない。わかっていないとユリシーズは怒りを燃やした。

 己とて「やめた」ではなく「やめたい」という相談ならば聞く耳を持てた。話し合う余地もあった。だがアルフレッドが告げたのは。


「お前が私を無視して一人で決めるからだろう!?」


 この絶叫の悲痛さを彼は理解しなかったらしい。「それはもう夕暮れが迫っていたから」と苦しい言い訳がなされる。

 彼がしたのは「あの人には先に帰ってもらった」という完全な事後報告だ。ユリシーズが真に許せないのはただその一点であった。


 ──マルゴー公国の第二王子と結婚することになりました。


 忘れられない痛みが胸を圧迫する。

 ただひと言で良かったのに、たったひと言で良かったのに、どうして勝手に終わりにするのだ?


「お前が私を無視するから……!」


 燃え立つ炎はそれを向けるべき相手を区別しなかった。ルディアへの怒りとアルフレッドへの怒りはごちゃ混ぜになって噴き上がっていた。

 そうだ。これはかつて抱いたのと同じ怒りだ。

 心を捧げて尽くしたのに軽んじられて捨てられた。ほかの誰かを選ばれた。

 アルフレッドとて同じことをされて苦しんだのではなかったのか。


「剣を置いてくれ、ユリシーズ! 俺みたいな騎士になりたいと言ってくれたのはなんだったんだ!?」


 揃いの剣で刃を受け止めた彼が苦々しく叫ぶ。必死なその表情がなぜなのか在りし日のルディアと重なった。


 ──夫婦になることはできずとも、きっと私を支えてください。


 そう言ったとき彼女はもっと静かだったのに、どうして二人が同じに見えるのかわからない。わからないまま幻はますます騎士に近づいた。

 剣を振る。薄気味悪い心臓のざわめきを振り払うように強く。


(早く殺さなければ)


 わけのわからない焦燥がユリシーズを突き動かした。

 このままではもっと無情な惨劇が待っているような。残酷極まりない悲劇が口を開けているような。そんな気がして堪らない。


「ユリシーズ!」


 名前を呼ばれて心が揺らぐ。酒場で彼を待つときのそわそわしたあの気分、なんの警戒もしなくていい寛いだあの時間、手を伸ばせばまだ取り戻せるような気がして。

 だがそれこそ幻だ。彼がルディアに従うなら、ユリシーズを選ばないなら、自分も彼を選ぶわけにいかない。


(早くしろ! もう戯言を吐かせるな!)


 剣はまた空を切った。毒は騎士の赤髪にさえ触れなかった。

 きちんと鍛錬を積んできた男なのだ。だから簡単に屠れない。

 汗が散る。焦りが刃を鈍らせる。

 急がねばもっと悪いことが起きる気がするのに。


(早く──)


 直感は正しかった。地獄はもうすぐそこだった。

 切っ先を弾いたアルフレッドが叫ぶ。

 ユリシーズに向かって叫ぶ。


「お前も騎士ならわかってくれ! 俺はまだ、俺の夢を汚せない!」


 その瞬間、雷に打たれたような衝撃が身を貫いた。

 気づいてはいけないことに気づいてしまい、呆然と立ち尽くす。

 ユリシーズは目を瞠った。唇を震わせて固まった。

 遠い日に聞いた言葉が甦る。今聞いたのとまったく同じ響きの言葉が。


 ──わかってください。私たちのアクアレイアを守るためなのです。


 ユリシーズは剣を握ったままよろめいた。

 アルフレッドのすぐ横に、あの日のルディアが立っていた。

 赤と青の強い瞳。残酷なほど強い瞳。

 過去と現在は今や完全に重なり合い、暗い未来を暗示している。


(違う……)


 絶望に立ちくらんだ。知りたくなかったと顔を歪めた。

 この男も同じなのだ。己の決意が第一で、いつも前しか見ていない。

 心から想ってくれる誰かを足蹴にしても一人で先へ進んでいってしまう。


(こいつは私に似ていたんじゃない……)


 嘆きが全身を満たしていく。

 目の前に立つ騎士は今や哀れな同類には見えなかった。

 どうしてもっと早く気づけなかったのだろう。

 心を開いた後になってまた傷つけられるなんて。

 手に入れた後になってまた同じように失うなんて。

 この男は。アルフレッドは──


(こいつはルディアに似ていたんだ)


 だから惹かれた。どうしようもなく。

 だから裏切りを許せなかった。どうしても。


「──」


 は、と乾いた笑いが漏れた。しゃくりあげたような間抜けな声が。

 笑うしかあるまい。苦しんで、苦しんで、苦しんで、人の道を踏み外した。やっとやり直す希望を持てた矢先に掴まされたのがこんな真実では。


「は、は、ははははは」


 ユリシーズは身をよじらせて哄笑した。

 明らかに常軌を逸したこちらの様子を心配そうに窺いながらアルフレッドは二歩、三歩と距離を開いていく。


(なんだ私は? 一体何をやっている?)


 あれだけ大層に喜んだくせに、結局また偽物だったとは。

 一人じゃないと思ったのに。この友情は本物だと思ったのに。


(何をやっているんだ、私は?)


 もしや最初から本物など存在しなかったのではないか。

 この悪い夢の中には。


「はは、ははは……」


 ユリシーズは声が()れるまで笑い続けた。

 声が嗄れても正気には戻れなかった。

 おかしくておかしくて仕方がない。運命はなんて無慈悲な喜劇を用意するのだろう?

 あの女を忘れるためにしたことも、この男と生きていくためにしたことも、何一つ己を幸福にしなかった!

 すべて無意味な空回りだったのだ。

 何もかもすべて。


「……ユリシーズ?」


 からんと剣が音を立てる。

 バスタードソードを放り捨てたこちらを見やって赤髪の騎士は瞠目した。


「良かった、話し合う気になっ──」


 少しほっとしたその顔にベルトごと鞘を投げつける。アルフレッドは小さく叫んで半歩下がった。


「???」


 彼の気が逸れている間にユリシーズは鐘室を囲む低い縁石の上に立つ。すぐ脇の列柱に手を添え、今日という日の最後の光を身に浴びて。

 街はもう闇の中だ。西空にわずか暮れ残りの赤が掠れているのみで。それも間もなく消えていく。


(もういい……)


 ユリシーズは虚ろな視線を正面に戻した。赤髪の騎士はぱちくりと瞬きし、不思議そうにこちらを見ている。

 敗北者の気持ちなど彼には永久に理解できないに違いない。

 あの女が自分の捨てた男などさっさと忘れてしまったように。


(三人目を見つけても、四人目を見つけても、きっと結末はこうなのだ)


 やっとわかった。私が求めるような人間は私を見てはくれないのだと。

 そして私はその齟齬を許せるような人間ではない。

 それだけのことだった。


「アルフレッド・ハートフィールド」


 ゆっくりと口を開く。詩を(そら)んじるようにゆっくりと。

 長かった悪夢の終わりに相応しい、新たな悪夢の始まりに相応しい、呪いの言葉を彼に送る。

 ありがとう。私に夢を語ってくれて。

 楽しかったよ。どこにも行けなくなるほどに。

 だからもう一度だけやり直そう。


「お前は決して名誉ある騎士にはなれない」


 笑ったのか、泣いたのか。

 どちらでももうどうでも良かった。

 上体を少し反らせばバランスは容易に崩れる。縁石を蹴った爪先が鐘室の床を離れてしまえば地上に着くまで誰の手も届かなかった。

 上向きの風が頭から落ちていくユリシーズを包み込むように撫でていく。

 遠のく星に目を閉じて、最後は何も見なかった。

 ──ああ、やはり罪人は罪人だ。




 ******




 何が起きたのかわからないまま何かのひしゃげた音を聞いた。

 伸ばした腕の先には誰の姿もない。ただ整然と三本の円柱が並んでいる。

 血の気の引いた身体はその場に一時立ちすくんだ。震える膝をどうにか鼓舞してアルフレッドはアーチを描く列柱の間から「下」を見る。

 だが夜の闇は濃く、詳しい様子はまったく何もわからなかった。わかるのは人々の騒ぐ声がどんどん大きくなっていること、カンテラの光があちこちから集まりつつあることだけだった。


「……ッ」


 縺れる足を急がせてアルフレッドは五つ鐘の下の螺旋階段を駆け下りる。

 無事でいるとは思えない。けれど望みも捨てきれなかった。

 頭の中は疑問符だらけだ。自分から落ちていったように見えた。自分から、何もかも見放してしまったように。


(ユリシーズ……!)


 十八階分の階段を下りきると大扉を引き開く。誰が呼んだのか現場には既に海軍の姿があった。誰も彼も大わらわだ。「提督が!」「衛生兵を!」と広場は騒然となっている。

 息はあるのか。意識はあるのか。波立つ心臓を押さえてアルフレッドは歩を踏み出した。──否、踏み出そうとした。

 そのときである。人だかりの中の一人が訝しげに眉をひそめてこちらを振り返ったのは。


「アルフレッド……?」


 それは横たわる騎士のすぐ側に膝をつき、わなないていたレドリーだった。蒼白な従兄に「なんでお前が大鐘楼から出てくるんだ?」ともっともな疑問をぶつけられ、アルフレッドは答えられずに黙り込む。

 この段になってアルフレッドはようやく自分が人には言えない用事で鐘室に上がっていたのを思い出した。しかも海軍の人間は今日この塔が人払いされていたと皆承知のはずである。血溜まりの中、歪んだ白銀の甲冑に縋る兵士らが何を思ったか、推測はそう難しくなかった。


(ユリシーズ……)


 ちらと見やった指先はぴくりとも動かない。応急処置さえ諦められた騎士の骸は無言の祈りを受けている。

 立ち上がった軍人たちはぐるりとアルフレッドを囲んだ。

 敵意の視線が突き刺さる。悲憤と憎悪の眼差しが。

 いつもの不機嫌の比ではなくレドリーは攻撃的に問いかけた。


「お前がユリシーズを殺したのか……?」


 冷たい風が吹き抜ける。

 夜がすべてを飲み込んでいく。

ルディアと王都防衛隊第三部はこれにて終了となります。第四部で完結予定ですので応援していただけると嬉しいです!

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