第6章 その3
「腹を決めろ」と迫られてアルフレッドは息を飲む。夜の酒場、カウンターに並んだ騎士は低い声で決行の日を告げてきた。
「──明日だ」
瞬間、指先まで凍りつく。心臓は跳び上がり、背には汗が滴った。瞠目して見つめ返せば若草色の双眸がたじろぐ男を映しだす。
「早すぎないか?」
かろうじてそれだけ問うとユリシーズは「時間がない」と首を振った。
「一週間以内にドナへ発つそうだ。ラオタオが急げと言えば船はすぐにも出るだろう。明日中にやるしかない」
今日の委員会で本人たちから聞いたと言われれば情報の正確さを疑うわけにいかなかった。
ドナ入りすればルディアはもうアクアレイアには戻ってこないかもしれない。少なくとも接触は今よりも困難になるはずだった。
彼女の率いる蟲たちに「接合」を済まされるのも問題だ。こちらでジーアン乗っ取りを進めるならこちらの用意した蟲に記憶を移さねばならない。
「アルフレッド」
手を握られ、自分が震えているのに気づく。白銀の騎士はもう一度「時間がない。腹を決めろ」と説きつけた。
ぐるぐると仲間の顔や主君の顔が脳裏を巡る。かぶりを振って幻影を意識の外に追いやった。
「……わかった」
王家を再興するためだ。そのほうが彼女のためにもアクアレイアのためにもなる。間違っているのはルディアだという声に縋って頷いた。
「どうすればいい? この酒場に呼び出せばいいのか?」
尋ねるとユリシーズは「ここはちょっとな」と難色を示す。
「あの女は勘が鋭い。酒場などになぜと警戒されるかもしれん。取り逃がせば面倒なことになる」
「じゃあどこに? ほかにいい場所なんてあるか?」
首を絞めるわけだろう、とはとても口に出せなかった。野蛮に過ぎるそんな言葉は。
「いつも待ち合わせに使うのはどこだ? それが一番怪しまれない」
問われてアルフレッドは考える。ブルーノの家は論外だろう。ほかの面々の出入りもある。ガラス工房はもっと無理だ。主人のモリスが家を空けない。
「……大鐘楼の前、かな」
ぽつりと答えると白銀の騎士が「なるほど」と笑った。
一度崩壊した後に広場内に建て直された望楼。アクアレイア人なら誰であれ目印にする建物である。
「お誂え向きだ。そこにしよう」
ユリシーズは夕方から人払いしておくことを約束した。頂上なら逃げるのは難しい、午後六時の鐘が鳴ったら鐘室まで連れてきてくれと囁かれる。
「必要なものは私がすべて揃えておく。お前は何も案じるな」
白銀の騎士はアルフレッドの手を握り直して力をこめた。落ち着かせるべく優しい響きの言葉が重ねられる。大丈夫、二人でやれば上手く行くと。
「今日は一杯だけにしておこう」
立ち上がった彼は一番いい酒と一番いいグラスを手に戻ってきた。注がれたワインは血と見紛うばかりに濃い。
誓いを立てろと言うのだろう。半分まで一人で飲むとユリシーズは残り半分をアルフレッドの前に差し出す。
一滴も飲まぬうちから眩暈がしていた。酔っていたといえば初めから酔っていたようなものだが。
「…………」
ごくり、ごくりと喉を鳴らした。
異様なほど舌が痺れ、どんな味かは最後までわからなかった。
******
一体全体この男は何をのたまっているのだろう。まったく状況がわからずにグレースは大量の疑問符を浮かべる。
夜も更けきったリリエンソール邸で白銀の騎士は鳥籠の小さな扉を開こうとしていた。小鳥はグレースが自室で飼っている蟲入りインコだ。ユリシーズはその首を絞めて中身をよこせというのである。
「もう一度お願いしますわ。お兄様、今なんて仰いましたの?」
「だから明日、アルフレッドに協力してルディアの『本体』を封じるから蟲を一匹貸せと頼んでいるのだ」
二本の指で額を押さえてグレースは唸る。なんだかそこのベッドで寝直したほうがいい気がした。これはおそらく夢の続きを見ているのだ。きっとそうに違いない。
「借りていくぞ」
「ああもう、お待ち! このうすら馬鹿!」
乱暴に小鳥を掴もうとした男を鳥籠から引き離す。可哀想なアナステシアスは小さな身体を震わせて止まり木の陰で怯えていた。
「何がどうなってそうなったんだい?」
理解に苦しみすぎてつい妹のふりを忘れる。百歩譲って「ルディアの『本体』を封じる」はわからなくもない。あの生意気な小娘を渡り鳥か猫にでも変えて飼い殺しにしてやれば胸もすくだろう。だが「アルフレッドに協力して」とはどういうことだ。
「…………」
「黙っていないで説明なさいな、お兄様」
壁掛け燭台の灯火だけが揺れる寝室で白銀の騎士と向かい合う。しばし渋面を浮かべたのちユリシーズは「アルフレッドはルディアに首を切られたのだ」と忌々しげに返答した。
「首を切られた? 防衛隊が解散にでもなったのかい?」
「そうではない。もう仕えなくていいと言い渡されたのはあの男だけだ」
「???」
今一つ飲み込めずに小首を傾げる。
ユリシーズ曰く、王女の身体を失くしたルディアは前々からアルフレッドにほかの主君を求めるように水を向けていたらしい。それが先日ついにはっきり「次のグローリアを探してくれ」と突きつけてきたそうだ。
赤髪の騎士は傷つき、深く動揺しているという。そこまで聞いてグレースもようやくいくらか合点した。
「ああ、だからアルフレッドを味方に引き込もうというわけ。あの子は女帝の気に入りだものねえ」
この発言に対するユリシーズの反応はなかった。相槌を打つでもなく、答えあぐねるような素振りに「?」と不信感がもたげる。
グレースは騎士の表情を注視した。いくら眺めても何をそんなに思いつめた目をしているのかはわからなかったが。
「……まあそんなところだ」
ユリシーズは妙に奥歯にものの挟まった言い方をする。どういう経緯で蟲の話を共有するに至ったかには触れもしないし、怪しいなと直感した。もう少し遠回しにつついてみたほうが良さそうだ。
「でもあの騎士、随分な忠義者ではなかったこと? 主君に手をかけるような真似ができるのかしら?」
問いかけに白銀の騎士は眉間のしわを深くする。声を荒げて彼は答えた。
「部隊内で色恋の揉め事があったと言えばわかるか?」
なるほどとグレースは頷く。半分は若者たちにはありがちな話だという納得で、半分は話を進めるための演技だった。
「で、どうしてお兄様が彼らの事情をご存知ですの?」
問いを重ねればユリシーズが口を開く。これで二人の騎士が秘密を教え合う間柄になった理由がわかるだろう。
グレースの予測は概ね正しかった。出てきた答えは予想の範囲外だったが。
「この数ヶ月、毎夜のように一緒に飲んでいたからな」
思わず「は?」と眉を引きつらせる。斜め上からの豪速パンチに驚きすぎて思考が一時停止した。
毎夜のように一緒に飲んでいた? 一体誰と? まさかアルフレッドとか? ストレスが溜まると隠れ家で一人酔いどれているのは知っていたが、よもや男を──しかも政敵の腹心を連れ込んでよろしくやっていたというのか?
「なっ、なっ、何を考え……っ」
開いた口が塞がらないとはこのことだ。いくら宮廷で毎日顔を突き合わせているからといって簡単に胸襟を開いていい相手ではない。そんなことも言われなければわからないのかこのお坊ちゃんは。
こちらの非難をねじ伏せるように白銀の騎士は鋭く睨みつけてくる。右手をずいと差し出してユリシーズは厚かましく要求を繰り返した。
「ルディアを欠いて防衛隊が腑抜けになれば貴様も願ったりだろう? 詳しいことは急襲が成功したら教えてやる。だからともかく蟲を貸せ」
本当になんなのだ。一体何を考えているのだ。
グレースは痛むこめかみに指を添わせた。確かに再独立派の彼らが退場してくれれば自由都市派はやりやすくなる。ルディアを捕らえる絶好の機会であるなら邪魔だてする理由はない。理由はないが。
「……貸すのは貸してやるけれど、もう少し慎重になるべきでないかい?」
問いかけながら聞き知った情報を頭の中で整理する。わかるのは、おそらくユリシーズが利害ではなく感情で動いているということだった。
ろくな説明をしないのは屁理屈をこねる冷静さもないからだ。何があったか知らないが、彼の視野は極端に狭まってしまっている。ルディアが絡んでいるせいかもしれない。なんて成長のない坊やだと内心で舌打ちした。
「慎重に? 十分慎重なつもりだが?」
自信過剰にも反論などしてみせるユリシーズにグレースは鼻で笑い返す。
「とてもそうは見えないよ。私にはアルフレッドが信用できる男かも心配だね。自分の手を汚したことなんてなさそうな顔をしているじゃないか。ぎりぎりになって怖気づきやしないかい?」
そう言えばぎろりと激しく睨まれた。よほどあの騎士に熱を上げているようで、ユリシーズは強い語調で否定してくる。
「アルフレッドはそんなことはしない。誓いの杯も飲み干してくれた」
こちらのあずかり知らぬ間にどれほど厚い友情を育んでいたのだか。初恋にのぼせきった少女の相手をするようで閉口する。
はあと大きく嘆息し、グレースは再度忠告を行った。
「本当にわかっていないね、お兄様。もしアルフレッドがやっぱりこんなことできないと言い出したら、誰の立場が悪くなると思うんだい?」
指摘を受けてユリシーズは初めて落とし穴の存在に気がついたようである。ハッと瞠目したきり白銀の騎士は押し黙る。
「もう動き出している話なんだろう? 取りやめにはできないし、取りやめになれば相応の代償を支払うことになる。これはそういう種類の奸計だ。だから慎重にとは言ってもやめろとは言っていない」
グレースはできるだけ穏やかな声で語りかけた。
計画は綿密に練り、実行は速やかに。他人に漏れる可能性は徹底的に潰しておくのが陰謀の基本である。彼はその最後の詰めが甘かった。
「アルフレッドがルディアを裏切れなかったときは始末しなきゃいけないよ。でないとあの娘に何を報告されるか知れない」
ごくりと息を飲む音が響く。
暗殺まがいの襲撃を共謀するくらいだ。脳蟲の件以外にも色々とまずい話をしたことは間違いない。その程度の推察は青ざめた額を見れば簡単だった。
ユリシーズは不安を払うようにかぶりを振る。「アルフレッドは大丈夫だ」となお強がる彼にグレースは囁いた。
「そう。でも一応心づもりはしておきなさい。剣をお出し。トリカブトの毒を塗ってあげるから」
差し出した手は乱暴に撥ねつけられたがそんなことに怯む己ではない。強情に拒もうとする男に「蟲を貸してほしいんだろう?」と迫った。
「使わずに済めばそれでいい。どんなことにも備えは必要というだけさ」
問答の末、ユリシーズは渋々鞘から剣を抜いた。アネモネの意匠が彫られた柄頭のほかは飾り気のないバスタードソードだ。
グレースは蝋燭の明かりを頼りに毒と蟲を用意した。すべてが終わる頃には外は明るくなっていた。
******
意を決して整髪店の扉を開けるとルディアたちの姿はなく、居間のテーブルには「今夜は皆で療養院に泊まっている。朝の定例報告はない」という書置きだけが残されていた。
拍子抜けしてアルフレッドは息をつく。どんな風に「午後六時の鐘が鳴る頃大鐘楼まで来てほしい」と伝えたものか散々頭を悩ませたのに。
ほっとしたような、重荷を早く手離したいような、複雑な気分で店を出た。嫌になるほど空は晴れ、秋の薄雲がひっそりと風に流れている。
レーギア宮でもいつも通りとはいかなかった。サロンに入るなりアニークに「どうしたの!? 昨日より顔色悪いわよ!?」と慌てられ、「家に帰って寝たほうがいいわ」と危うく回れ右させられるところで。
せめてユリシーズが来るまではと粘ったものの、白銀の騎士は一向に現れる気配がなかった。大鐘楼の人払い工作に手間取っているのかもしれない。彼の顔を見れば少しは気も落ち着くかと思ったのだが。
結局ユリシーズは正午を過ぎても訪ねてこず、アニークの「早く休んで」という要望に押し負けてアルフレッドは女帝の寝所を追い払われた。
ターバンを巻いた東方商人と肩の膨れた西方商人の行き交う広場で嘆息する。本当はこのまままっすぐ療養院に向かうべきなのだろう。けれど足はなかなかゴンドラ溜まりに進もうとせず、アルフレッドはアンディーン神殿と大鐘楼の間で完全に停止した。
波に揉まれる岩礁のごとく雑踏に立つ。赤レンガの塔を仰いで。
「…………」
乙女像を戴いた緑の瓦の方形屋根。その下の列柱アーチが連なる鐘室。目にしていると言い知れぬ憂鬱に囚われる。
ルディアの首を絞めること。まだ悩んでいる自分がいた。そうするしか道はないとわかっていても。
(主君を正すのも騎士の役目──)
頭の中でユリシーズの声が響く。お前なら本物の騎士になれるという囁きは、長い時間をかけて魂に染みついた強迫的な願いを眠らせてくれなかった。
それに多分、彼の言っていることは正しい。アクアレイアには王家がないと駄目なのだ。交易相手の東方にばかり重きを置くこの国が西パトリアの一員と認められてきたのは聖王と縁続きの王が治めていたからだ。アウローラが冠を得なくては西方との関係は悪化の一途を辿るだろう。一旦は自由都市を目指すにしても、最終的には王国として再独立を果たさねばなるまい。
だがそれをルディアに提言する気にはなれなかった。そんなこと彼女は承知済みだと思ったし、そのうえで王家再興の選択肢を捨てたのは明らかだから。
だってルディアにはヘウンバオスに成り代わるよりも娘に成り代わることのほうがつらいのだ。どうしてもほかを選べないなら彼女はきっと「アウローラ」を名乗れるが、選ばずに済むうちは選ぼうとしないに違いない。
聞く耳を持ってもらえないなら訴えるだけ無駄だった。下手をすれば警戒を抱かせておしまいだ。いつものように正面からはぶつかれない。いつものようにと思っても、やり方を忘れてしまった自分にはもう不可能なことだけれど。
「あのー、そこに露店出したいんですけど……」
どれくらいぼんやり突っ立っていたのだろう。訝しむ男の声に呼びかけられ、アルフレッドはハッと塔から目を下ろした。
見れば五十絡みのアクアレイア商人が大荷物で棒立ちになっている。鞄からはみ出た紙類から察するに売り物は版画らしい。騎士物語の絵や次巻の内容を予測した記事はよく売れるそうだから、外国商人の多い広場に足を運んできたのだろう。
「あ、すみません」
ひと言詫びてアルフレッドはその場を退いた。見えざる力に流されるように歩き出す。そうしてしまえば広場脇のゴンドラ溜まりはすぐそこだった。
「ご入用かい?」
客を見つけた船守は右手を突き出して貸し賃を要求してくる。まだ乗りたくないなどと言えるはずもなく金を払い、渡された櫂を握った。通い慣れた墓島へ向かうのに思考力は必要なかった。
重い、重い、水を掻く。肝心なことは何一つ考えられないまま。
名高い騎士になりたかった。恥じることなく生きたかった。それはそんなに悪い願い事だったのだろうか?
──一人遊びなら一人ですべきでないのかね?
パディの言葉が耳に痛い。だがそれ以上に「お前は次のグローリアを探してくれ」というルディアの声が痛かった。
どうすれば本物になれるのだろう? 欲しているのは物語の姫ではなく確かに彼女のはずなのに。
呆けている間に舟は墓島に着いていた。波に洗われた桟橋にゴンドラを舫い、鉛のごとき足を引きずって歩き出す。一歩ごとに近づいてくる療養院の高い壁がぐにゃぐにゃと歪んで見えて頭を振った。
どうやって中に入ったのか覚えていない。気がつくとアルフレッドは東棟と西棟を繋ぐ渡り廊下に立っており、眼前にはルディアが足を止めていた。
「アルフレッド」
息を飲む彼女の腕にはたくさんの革袋が抱えられている。これからドナへと旅立つ患者らが各々の荷を詰めるためのものに違いない。
手伝おうかと聞こうとして聞けなかった。もういいと言われた自分がそんな申し出をしていいかわからなかった。
開いてしまったこの距離も、いつか縮まる日が来るのか。
わからない。来ると信じることしかできない。
「……夕方の鐘が鳴る頃に、大鐘楼に来てくれないか」
切り出せるか案じていた言葉は意外にあっさり音になって口を出た。
彼女は小さく瞬きして「大鐘楼?」と問い返す。
「少しゆっくり話がしたい。……駄目か?」
心臓がばくばくと暴れるのを悟られぬように指先を握り込んだ。目を伏せてルディアはしばし逡巡したが、やがて静かに顔を上げる。
「わかった」
はっきりした返答にアルフレッドは秘かに安堵の息をついた。とりあえずは怪しまれずに済んだらしい。簡単に行きすぎてそれはそれで怖かったが。
「じゃあ、後で」
頷かれた途端目を合わせていられなくなって後退した。まっすぐに注がれる視線から逃げるように踵を返す。
だから呼び止める声が響いたときは心臓が止まるかと思った。
「アルフレッド!」
振り返るまでの一瞬が永遠とも思えるほどに長くて。
誤魔化せるかなんてことを一番に心配した己が酷くやりきれない。
「今からでもいいぞ。どうする?」
問いかけにアルフレッドはなんとか首を振った。両手いっぱいの革袋に目をやって「仕事を優先してくれ」と答える。
上手く喋れていただろうか。歩き出しても今度は何も言われない。
前庭を過ぎ、療養院の敷地を出ると少しずつ早足になった。桟橋が見える頃には駆け足になっていて、舟に乗り込むやロープもまとめきらないまま本島に引き返す。
いつも苦もなく操れる櫂があちらこちらに引っかかって戻るには倍の時間がかかった。疲れたせいか吐き気がする。けれど家で休む気にはなれなかった。どこかで食事をする気にも、広場でぶらぶらする気にも。
仕方なく帰路に就く。午後六時までの何時間かを潰すべく遠回りに遠回りを重ねて。
迷いたければどこまでも迷える街だった。薬局の看板が見える頃には西空がやや陰り始めていた。
高い建物に囲まれた路地は日中でも薄暗い。細い水路と階段状の小さな橋。馴染んだ光景を見渡してアルフレッドは嘆息する。
母や弟と会話するのも億劫だし、帰宅はしないつもりだった。このまま通り過ぎてしまおう。ルディアもじきに大鐘楼へ向かうはずだ。
そう思ったのに運悪くカンテラを持ったアンブローズが玄関を開けたところに出くわしてしまう。
「あっ! 兄さん!」
弟はアルフレッドの姿を認めて胸を撫で下ろした。探しにいこうとしていたのだと言われたら「どうしたんだ?」と問わないわけにいかなかった。
「えっとね……」
アンブローズは小さな目玉を左右にやって近所の家を気にかけながら手招きする。「ひとまず入って」と小声で急かされ、屋内へと引っ張り込まれた。
おっとりした彼にしては珍しく切迫した様子だ。「いや、兄さんにお客さんが来ててさ」と弟は説明する。
「でも置物みたいに中庭で座ってるだけだし、お茶出しても全然口つけてくれないし、とにかくなんとかしてくれない?」
捲くし立てられた言葉にアルフレッドは首を傾げる。誰かが訪ねてくる予定などなかったし、客間ではなく中庭に陣取るような人物に心当たりもなかったからだ。
「なんだそれ? 本当に俺の客か?」
「そうだよ! 『アルフレッドに会わせてくれ』って来たんだもん!」
どこの誰とも言わないまま弟は中庭に続く扉を開けた。
誰にも会いたくないという暗い気持ちはその一瞬、遥か彼方に消え去った。
最初に視界に飛び込んだのは放浪生活でよれよれになった薄いコート。その次は褐色の肌。痩せた首には貨幣で拵えた一重の輪が提げられている。
「ジェ、ジェレム!?」
名を呼ぶと白髪の老ロマが立ち上がる。黒々とした瞳に光を灯らせて。
「よう、アルフレッド」
客人が頬を綻ばせたのを見てアンブローズは「それじゃあ後は任せたね」とさっさと店舗に引っ込んだ。来たのがロマではいくら接客慣れした弟でも対応がわからずに戸惑ったことだろう。
「どうして……」
「悪ィな、こんな突然よ」
ジェレムは以前よりしわがれてしまった痛ましい声で詫びてきた。それからここを訪ねてきた理由を告げる。背中のリュートに細い手をやりながら。
「やっと歌を伝えられた。どうしても礼が言いたくて来ちまった」




