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ルディアと王都防衛隊~海の国の入れ替わり姫~  作者: けっき
第5章 最後の悪夢 前編
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第5章 その3

『人は皆、己に馴染んだものを喜ぶ。習慣の力は恐ろしい。どんな良い方向へ道が開けても必ず揺り戻しが起きる。

 思考の癖、物事の捉え方、選択する行動の傾向。それらはすべて蓄積された志向であり、総合して性格と呼ばれる。

 臆病な決断を続けてきた人間には勇敢さを必要とする選択肢になかなか手を伸ばせない。逆もまた然り。蛮勇な者は危機のときでさえ慎重を嫌う。怠惰な者は考えること自体避けるだろう。

 性格は厄介だ。植物が根を張るように人間を慣れた志向に留めようとする。

 だから気をつけねばならない。今までの己と決別し、新たな道へ踏み出そうとする者は。過去の己が足首を掴んでいると忘れてはならない。さんざん浸りきってきた価値観や感傷は隙あらば元の道へ引き返そうと努めるし、その力が強まるのは新たな道で苦難に打ちのめされたときだということを。

 善悪も好悪も利害も関係なく人間は慣れた己に戻ろうとする。馴染んだものなら手に取りやすく思うから。

 過去の己を振り切りたければ忘れてはならない。新たな道での蓄積が十分でないうちは、足元の影が一番の大敵であることを。

 思考の癖、物事の捉え方、選択する行動の傾向。それらはすべて蓄積された経験に引きずられる。

 人間はそういう風にできている』





 パトリア聖暦一四四二年十月十九日。その日は快い朝から始まった。

 長らく心配をかけてきた弟に「最近なんだか楽しそうだね」と優しい笑顔で送り出され、ブルータス整髪店に着いたのが九時過ぎ。モモとアイリーンにも連日の手伝いを感謝され、アルフレッドは気持ち良くレーギア宮に馳せ参じた。


「聞いてちょうだい! このところかかりきりだった新作が完成したの!」


 寝所の扉を開けるなり甲高い声に迎えられる。見れば女帝はできたばかりと思しき長詩の綴られた便箋をこれでもかと広げていた。

 きらきらと輝く瞳に我知らず頬が緩む。このところ格段に腕を上げた彼女に披露されたのはこれまでで一番の力作だった。


「パディってすごいわ。いつも私の出来損ないの詩を何かと深めて返してくるの。そうしたら私も次はこう書いてみようってアイデアが浮かんで書かずにはいられなくなっちゃうのよ!」


 一作仕上がった興奮のままアニークはすぐにパディに見せにいきたいと言う。二つ返事で頷きながらアルフレッドは「俺もいいですか?」と問うた。


「実は昨日、患者たちの語学指導の傍らに一つ書いてみたのがあって」

「えっ!? あなたも詩を作ったの!?」


 女帝は「見せてちょうだい!」と両手をこちらに突き出してくる。


「あまりセンスはないですが……」


 照れくささを誤魔化すためにごほんと一つ咳払いしてアルフレッドは懐から封筒を取り出した。半ばひったくるようにアニークは中の便箋を抜き、それを貪り読み始める。


「まあ……! まあ、まあ…………!」


 目の前で自作の詩を読まれるというのもなかなか気恥ずかしいものだ。良い反応なのか悪い反応なのか判別のつかないまま「どうでしょうか?」と聞いてみる。


「これは是非パディに見てもらうべきよ!」


 一作目がこのレベルなんてすごいとアニークは頬を紅潮させた。力説されてほっとして「ありがとうございます」と礼を言う。

 彼女はもう待ちきれないといった様子で「ほら、早くパディのところへ行くわよ!」とこちらの腕を引っ張った。アルフレッドが心穏やかでいられたのはこの日このときまでだった。





「性懲りもなく尻尾を振りにきよったのか」


 衝立の奥から顔を覗かせた老人が天敵を見咎めて眉をしかめる。濁りきった双眸にアルフレッドはわずかに怯んだ。

 今日も今日とてパディは苛烈だ。騎士嫌いが緩和されそうな気配すらない。ただただ鋭い眼光がこちらを焼こうとするだけで。


「あ、あの、私たち新しい詩を持ってきたのよ」


 急速に冷えた空気にうろたえつつアニークが手紙を差し出す。けれどこれは完全な悪手だった。「私たち?」と口にしてパディはますます顔をしかめた。


「ええ。アルフレッドもあなたを励ますために詩を──」


 言葉は途中で無遠慮な哄笑に遮られる。


「なるほど。女帝陛下に倣えば高慢な詩人にも取り入ることができると踏んでくれたわけだ」


 老人は軽蔑の目でアルフレッドを一瞥した。邪な目的などかけらもないのに初めからそうと断定される。相変わらず彼の中で騎士は極悪人らしい。


「どんな句で詩を汚したのか知らないが、目にする価値は露ほども感じんな。持ち帰ってかまどの焚きつけにでもするといい」


 こう正面切って拒絶されるとさすがに少し気が塞ぐ。手紙ならひょっとして受け取ってくれるかと思ったのに、目算が甘かったようだ。


「し、詩を汚したって……」


 あまりの侮辱にアニークも呆気に取られた様子だった。彼女はパディが普段どんな剣幕でアルフレッドやユリシーズに噛みつくか知らなかったから驚いたのもあるだろう。親しい者を庇わずにいられぬ女帝は果敢に詩人に向き直った。


「あのね、パディ、アルフレッドは本当に親切心で」

「騎士の親切心なんぞこの世で最も信用なりません。騎士なんぞ、己が貰える見返りのことしか頭にないのですからな!」


 が、彼女の勇気はすぐに勢い衰える。自分の声より大きな声で怒鳴られれば身がすくむのは当然だ。そのうえ罵倒は激しさを増す一方だった。


「こんなに醜悪な生き物はほかにおりません! この世に騎士が生きていると思うだけで心底からぞっとする! ああ、なんておぞましい! ああ、なんて忌々しい!」


 パディは腹に溜め込んだ憎悪を吐き散らす。かつて騎士だった詩人を思い、アルフレッドは唇を噛んだ。

 彼は覚えていないのだろうか? 彼の隣にグローリアがいた頃のことを。

 幸せを思い出せた時代には騎士の美点を即興詩にもできたはずだ。騎士物語の前半では──毒殺事件の真相を知る前は、パディは明るい世界を紡いでいたのだから。


「……騎士がすべて悪しき存在とは思えません。正道さえ忘れなければ正しい騎士であれるはずです。そうでしょう?」


 堪らずにアルフレッドは問うていた。マルゴー公に対する恨みを騎士すべてにぶつけるのを考え直してほしい一心で。

 だが返されたのは思いもかけないひと言だった。


「何をたわけたことをぬかしておる? 正しい騎士なんてもの、存在するはずないだろう?」


 真冬の風を思わせる眼がアルフレッドを凍りつかせる。パディは掠れた声で笑い「愚か者め」と吐き捨てた。


「騎士とは人に授けてもらう称号だ。主君なしには成り立たないのが最初から決まっている。己の運命を握る相手に媚びもせず、落胆もせず、勝手な怒りを向けもせず、真に忠義を尽くせる者などいると思うか?」


 問いかけになぜか鼓動が早まった。コーストフォート市を出てからの自分がまざまざと思い返され、咄嗟に「でも」と言い返す。


「でもユスティティアは、プリンセス・グローリアに忠実であろうとしたはずです。嫉妬のために一時的には不誠実だったとしても」


 パディの目つきは変わらない。冷淡な失笑をアルフレッドはただ見ていた。

 じわりと胸に不安が広がる。

 杯に垂れた毒のように。


「金銭を欲する騎士は俗物という程度で済む。本当に醜悪なのは騎士道に夢を抱く騎士だ。他者に依拠した時点で最も大切な意志と矜持を失っているくせに、その矛盾に気づきもせず無私無欲などと言い張る」


 有り得ぬものだと詩人が言った。正しい騎士などどこにもいないと。主君の正しさと己の正しさが食い違ったとき、ようやくそのことに気づくのだと。


「薄っぺらな自己実現の願望に他人を巻き込んで『正しい騎士』とは笑えるよ。一人遊びなら一人ですべきではないのかね? 騎士ごっこなんてお遊びは」


 悪態は鋭く胸に突き刺さった。だがなぜそれが痛むのか、アルフレッドにはわからなかった。

 おそらく理解してはならない類の言葉だったのだと思う。美しい夢を美しいまま保つためには。


「詩人は詩を書けば詩人でいられる。だが騎士は、人にそう呼んでもらわねば決して騎士を名乗れない。欺瞞に満ちた哀れで滑稽な生き物だ」


 パディはくるりと背を向けた。震える手で杖を握ると彼はずるずる衰えた足を引きずって衝立の奥に消える。


「…………」


 アニークのかじかむ指に袖を引かれ、無言のまま視線を交わした。

 もう出ていったほうがいい。頷き合って客室を後にする。


「……また日を改めるわ。あなたの詩、しばらく私が預かっていてもいい?」


 アルフレッドは「お願いします」とだけ返した。

 詩はおそらく日の目を見ずに終わるだろう。パディの心が休まらぬ限り。

 本当に騎士そのものを許せないのだ。そう思ったら背筋がうすら寒くなった。

 騎士の矛盾。主君と己の食い違い。

 早急に考えるべきことができたような気がするのに少しも頭が働かない。

 どうしてこんなに胸が騒いでいるのだろう。




 ******




 じくじくと痛む棘の抜けぬまま夕刻を告げる鐘が鳴り、アルフレッドは帰路に着いた。

 今日は何にも身が入らなかった。本を読んでも雑談に興じても表面を上滑りするだけで、ユリシーズにも心配され通しで。「良ければ話を聞いてやるぞ?」と夜に会う約束を取りつけられたのはいつもの光景だったけれど。

 広場の市に目をやっても、いくつ橋を渡っても、奇妙な焦燥が薄らぐ気配はしなかった。少し気になる程度の引っかかりなのに、不思議といつまでも胸を去らない。


(詩人は詩を書けば詩人でいられる。だが騎士は──か)


 そうこうするうちにブルータス整髪店が見えてくる。外階段を上がって二階居住部の鍵を開けると中から人の話し声が聞こえた。響く声から察するにモモとアイリーン以外にも誰かいるようだ。


「よっ! おかえり、アル!」


 居間の扉を開いて迎えてくれたのはまだ旅装束の友人だった。明るい笑みを目にすると同時、今の今まで漂っていたもやもやが吹き飛ぶ。


「レイモンド! 無事に帰ってきたんだな」


 ということは、とテーブルを見やればそこにはルディアと白猫の姿があった。椅子の上で足を組み、向かいに座した療養院組から留守中の報告を受けながら主君はふむふむと相槌を打っている。


「大体わかった。下巻の印刷を止めてくれて礼を言う。クルージャ砦と湾内の新しい防衛設備についても把握した」


 己が来る前に話はほぼ済んでいたらしい。くるりと顔だけ振り向いたモモに「ちょうど良かった。今から公国組の話聞くところだよ!」と手招きされる。


「留守の間もしっかり働いてくれていたようだな。情報収集もパーキンの件もご苦労だった、アルフレッド」

「……!」


 胸弾ませてアルフレッドはルディアに近づいた。今すぐにでも「ユリシーズが仲間になってくれるぞ!」と言いたかったのをなんとか堪える。この報告はどう考えても順番的に最後である。逸る心臓を落ち着かせつつアルフレッドは主君の傍らに足を止めた。


「さあ姫様、これで全員揃ったぞ」


 ルディアの一番近くにはレイモンドがひょいと陣取る。彼女の腰かけた椅子の背に肘を置いて寄りかかる幼馴染を目にしても今はなんとも思わなかった。二人の幸福を邪魔するものがなければいいとさえ願う。

 完全に以前と同じ──いや、以前よりずっとまっすぐに立てていた。最初に彼女に望まれた心ばえ正しい騎士として。


「ああ。ではまず先生に会って聞いたアークの話から始めよう」


 ルディアは低く抑えた声で旅の成果を語り出す。アークに薬効があることや蟲が聖櫃を守ろうとすること。ほかにも聖預言者がジーアンを引っ掻き回そうと狙っていることやアーク管理者には文明を発展させる使命があることなど、しばし息を飲む話が続いた。

 特に驚いたのは「接合」に関してだ。寿命が延びて記憶が共有できるというだけでも衝撃だったのに、今ラオタオに入っているのは十中八九アンバーだと聞かされてアルフレッドは目玉を剥く。


「なっ、アンバーが!?」

「ええっ!? どういうこと!?」


 同じくモモも椅子の上で引っ繰り返る。「や、あれは本物じゃない?」と額に汗を浮かべる妹に主君は静かに首を振った。


「やたら我々をドナに招こうとしてくるから気にはなっていたんだ。この羽根が雌ダチョウのものだとわかって確信した。接合でラオタオの記憶を得たから彼女の演技には綻びがないのだとな」


 そう言ってルディアはポシェットの奥から大きな茶色の羽毛を取り出す。手に取ってみれば確かに主君の言う通り、幅広のそれはどこか見覚えがあるように感じた。


「ほんとに? ほんとにアンバーが生きてるの?」


 身を乗り出して問いかけるモモにアルフレッドは手にした羽根を回してやる。横から顔を覗かせたアイリーンが「こ、これは間違いなくアンバーのだわ」と断言すると妹は目を輝かせた。


「……!」


 生物学者のアイリーンが言うなら確定も同然だ。更に彼女は「ラオタオ様にハイランバオスの肉体を奪われてアンバーも回収されちゃったときはどうなるかと思ったけど、人質として捕まったんじゃなく接合の実験に使われたのね」と推定する。


「いや、人質のつもりは人質のつもりだったろう。あのエセ預言者がこちらに正体を伝えなかったのがいい証拠だ」


 発言を受け、ルディアが半分首を振った。状況だけ見ればアンバーが敵中に取り残されたままなのは変わらないし、女優はハイランバオスたちの想定通りに動く駒とも思われているはずだと。


「身の安全を考えれば狐のふりを続ける以外ないからな。それにアクアレイアの蟲なら必ずアクアレイアの利になるように立ち回る。天帝に嫌がらせしたいあの男からしてみれば将軍役にはうってつけだったろうよ」


 なるほどと唸らされる。アイリーンも「きっとラオタオ様の案ね。捕まったとき側にいたのはあの人だけだし」と頷いた。


「それじゃバジルも無事かな? お仕置きされたとか聞いたからちょっと心配してたけど、アンバーなら酷いことするわけないもんね」


 モモは早くも安堵の笑みを浮かべている。油断ならない状況でも朗報は朗報と受け止めているようだ。アルフレッドもひとまずは仲間の無事を喜んだ。


「接合を使えば我々にもジーアンを出し抜くチャンスが生まれる。現状それが唯一掴める勝機だろう」


 ここからが本題だ、とルディアは口元を引き締めた。真剣な横顔を見つめ、アルフレッドはごくりと喉を鳴らす。


「──帝国を乗っ取るぞ」


 最初にモモが瞬きした。アイリーンもぽかんと口を開いて固まる。ブルーノとレイモンドは既に着想を聞いていたようでうんうん頷くのみだった。己はと言えば発言の意味を噛み砕くので精いっぱいだ。


「やることはシンプルだ。蟲と知れているジーアン人の首を絞め、こちらの蟲と接合した後入れ替える。要はアンバーと同種の演者をこつこつ増やしていくわけだ。記憶を共有した状態ならそう難しい演技ではあるまい? 最終的には一〇二四匹の蟲すべて肉体を明け渡してもらう」


 ルディアは続けた。独立に戦争という過程を持ち込む必要がなければ早期の決着も望めると。


「帝国の意思決定権がこちらに移ればアクアレイアを自由都市に制定するのはたやすい。永続自治権などすぐに獲得できるだろう」


 えっとアルフレッドは瞠目した。主君の口ぶりに同じ疑問を抱いたらしく、妹も怪訝そうに顔をしかめる。


「自由都市? 待って姫様、まさか王国再独立派やめる気なの?」


 問いかけがなされた瞬間冷たい何かが背筋を這った。その正体がなんなのか掴めないまま話は次へ進んでいく。


「ああ。アウローラは政争に巻き込まないと決めた。アクアレイア人が安全に生きていけるなら王国という形にこだわる必要もないしな」

「で、でも、帝国自由都市って結局ジーアンの一部じゃん? アクアレイアが立ち直るにはアクアレイア人の力で独立を掴まなきゃって……」

「その点については大丈夫だ。自由都市に格上げされたら今度は街の買取額を提示する」

「ええっ!? なんて!? 買取額!?」

「領土の交換や売買はどの国でも古くから行われている。経済力を復興させてアクアレイアを買い戻すんだよ。いかにも商業国家らしいやり方だろう?」


 未来を見据えたルディアの眼差しは力強い。澱みない説明にモモは「ああ、そ、そういうこと」と驚嘆の目で主君を見つめた。


「手始めにドナを落とす。ちょうど蟲入りの小間使いを三十人も連れて行くと決まっているしな。その先はドナに呼び出した十将と順番に入れ替わっていく。頃合いを見てヘウンバオスにも会うつもりだ」


 天帝役を引き受けるのはルディアだという。アクアレイア商人が交易に専念できるよう、彼女が東方に君臨して各国のパワーバランスを整えていくのだと。


「…………」


 頭の整理にはしばらくかかりそうだった。ずっと王家再興を目指すものだと思っていたから聞いた話を飲み込むだけでも時間を要した。

 アイリーンとモモは「本番の前に実験が必要かしらね?」「そんな攻略方法があったかー」とすんなり受け入れている様子だ。だがアルフレッドには素直に頷けぬものがあった。「ルディア」の肉体は戻らないまでも彼女はここに留まると勝手に信じ込んでいたから。


(姫様が天帝に成り代わる……)


 震える指を無意識に握り込む。

 それが最善の選択なのは己にもわかっていた。余分な金や命を消費せず自由を取り戻せるとすればこんないいことはほかにない。わからないのは主君と己の関係がどうなるかという一事だった。


「じゃあもしジーアン乗っ取りに成功したら、あなたはもうアクアレイアには戻らないのか……?」


 気がついたらそう尋ねていた。真横に立つアルフレッドを見上げたルディアは是とも否とも答えない。ただ少し、気遣いの滲む眼差しを向けてくるのみである。


「足は遠のくだろうな。ほかはともかく私は東方を離れられまい」


 主君の声はもう決めたと言っていた。説得には応じないと。


「だが蟲は巣に執着するんだろう? アクアレイアを守れてもアクアレイアにいられなくなるんじゃ本末転倒だ」


 何かに急き立てられるようにしてアルフレッドは訴える。けれど彼女は聞く耳を持たなかった。「帰る気になれば帰ってこられる。悲観するほどのことではないよ」と。


「ジーアンの蟲たちはどうなる? 殺すのか? ガラス瓶に閉じ込めたままにするのか? ダレエンたちやアニーク陛下も?」


 敵への配慮など求めても仕方ない。それなのに止められなかった。なんでもいいから主君を思い留まらせる材料が欲しかった。だってこのままでは彼女は。


「アルフレッド」


 揺らがぬ瞳がこちらを仰ぐ。唐突にルディアは椅子から立ち上がった。


「下で少し、二人で話そう」


 既視感のある微笑。お前だけはコリフォ島に連れていけないと言われた日、こんな風に優しく笑いかけられた気がする。

 心臓がざわついた。行っては駄目だと声がする。

 ルディアの視線を避けるようにアルフレッドは居間を見渡した。

 何か察したらしいモモが顎で奥階段を示す。ほかの面々はどうしたどうしたという顔で主君に目をやっていた。


「行くぞ」


 先にルディアが歩き出す。促されれば行くしかなかった。自分は彼女の騎士だから。


「──……」


 なぜ転がり落ちていく錯覚などするのだろう。成す術もなくアルフレッドは一階店舗へ続く階段を下りていく。


 ──お前は無名の騎士のまま終わらないでくれ。


 耳の奥に反響するのは「間違えた日」に聞いた声。

 同じことが繰り返される予感がした。否、もっと悪いことが。

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