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第4章 その3

 エメラルドグリーンの海に黒いゴンドラが整列する。王国湾とアレイア海の境界である砂洲が今日のレースのスタートラインだ。

 コースは単純な一本道。異人島を目印にラグーンを漕ぎ進み、外運河を横断したら街の中央を蛇行する大運河を遡る。ゴールはその中ほどに架かる真珠橋だ。国内最古にして最大の橋は今年も花撒きの乙女らでさぞ賑わっていることだろう。

 手にした櫂を強く握り、ルディアたちはレースの開始と暗殺に備えた。武器類の持ち込みは厳禁だ。いざとなれば身を挺して王を守らねばならない。

 駆け込み参加者も含め、約五十艇のゴンドラが臨戦態勢を取っていた。去年が三十少々のはずなのでイーグレットに触発された者は多いと見える。ここぞとばかりに日頃の鬱憤をぶつけるつもりなのだろう。


「お前たち、わかっているだろうが陛下の顔に泥を塗るんじゃないぞ」


 ルディアの念押しに槍兵と騎士は力強く頷いた。


「任せとけって!」

「波の高い前半は体力勝負、動きのばらける後半は団結力勝負と言われている。兵士が体力で負けるわけにいかない。可能な限り序盤で引き離す!」


 頼もしい台詞の直後、軽快なトランペットの音がこだました。横一列に並ぶ舟で一斉に櫂が構えられる。この演奏が終わり次第、いよいよレーススタートだ。

 競技用ゴンドラと生活用ゴンドラに特別な差異はない。細く伸びた船体も、舳先に施された鉄製装飾も、跳ね上がった船尾のデザインもそこらで見かけるものばかりだ。違うのは漕ぎ手の人数と漕ぎ方だった。

 通常ゴンドラは船首ではなく船尾の一人のみが漕ぐ。街の水路は入り組んでいて見通しが悪く、角では渋滞も起こりやすい。進行方向をしっかり見据えることが肝要だ。握るオールは長いものを一本。壁を押すのに使ったり、水底に突き刺すのに使ったりと多方面で活躍する。日常生活では事故を避けるため、速く漕ぐより巧く漕ぐことを求められるのだ。

 レガッタでは逆である。ここでのゴンドラは小さなガレー船に変わる。操船指示は主に船首の漕ぎ手が出すが、舟に速度を与えるのは乗員の力と連携だ。最高速度を出すためには全員で息を合わせねばならない。

 ルディアは中腰になって膝を緩め、できるだけ重心を安定させた。つい昨日まで立ち漕ぎはおろか立ち乗りさえできなかったのに、海の女神は意地悪だ。溺れたことを思い出すと背中にぞっと震えが走る。

 だがここだけは他人に譲るわけにいかなかった。父の背中を守る役目は。


(やってやろうではないか。庶民に漕げて私に漕げないはずがない)


 トランペットが最高潮に盛り上がる。スタートラインのリボンが切られる。たちまち主役は波を掻く音に交代した。


「さあ行くぞ! レイモンドの掛け声に合わせろ!」

「いっちにー! いっちにー!」


 アルフレッドの号令でルディアは猛然と漕ぎ出した。もうほとんどやけくそだ。周囲の舟の存外な速さに気が焦る。しかし防衛隊も負けてはいない。やや出遅れはしたものの、ぐんぐんとスピードを増し、舳先を前へと突き出させる。


「いっちにー! いっちにー! おいこらブルーノ、もっと腰入れろ! 陛下、なかなか筋がいいっすよ!」


 前進を妨げようとする波に全力で抗う。最初はタイミングを合わせるだけで精いっぱいだったが体力馬鹿の二人のおかげで先頭集団には加われたようだ。

 そうとわかれば余裕も生まれる。ちらりと後ろを振り向けばどのゴンドラもわあわあと大騒ぎだった。

 ユリシーズの指揮する舟はルディアたちのほぼ真後ろにつけていた。なんの変哲もない五枚歯の船首飾りがやけに凶悪に映る。澄ました騎士の双眸も常になく物々しい。


「気をつけろ! 異人島を越えた辺りは流れが急に速くなるぞ!」


 太く短い外運河が近づくと同時、アルフレッドが叫んで注意を促した。左手には外国商館の並ぶ隔離島が迫っている。不慣れな国外の商船がしょっちゅう波に翻弄されているところだ。

 流れが速いということは抵抗が大きいということである。思った以上に重く沈む櫂を手放さないようにルディアは必死で歯を食いしばった。初めの事故が起きたのはその直後だった。


「うわああああッ!?」

「ラッキー! 優勝候補が座礁なさったぜ!」


 突然の悲鳴と歓声にハッと前方を見やる。脱落したのは街に一番乗りしようとしていた本職のゴンドラ漕ぎたちだった。彼らの舟は外運河と大運河の交差ポイントで完全に乗り上げてしまっている。


「ぎゃーっ!」

「何ィ!? 俺らもか!?」

「おい、水路標識がめちゃくちゃだぞ!」


 他人の不幸を喜んでいた二艘目、三艘目の連中も次々とコースを詰まらせた。確かに河口は土砂が溜まりやすい。だがそういう場所には通行不可を示す杭が打たれているのが普通である。だというのにこのアクシデントの連続は――。


「おと……陛下、ご用心を!」

「うむ!」


 ルディアは周囲への警戒を強めた。事故原因は昨夜ユリシーズが差し替えた標木と見て間違いあるまい。この辺りで何か仕掛けてくる気かもしれない。

 暗殺をレース中の不幸な事故として処理するためには追突か転覆を狙うのがベストだ。ユリシーズのゴンドラがぴたりと後ろに張りついたままなのはそういうことだろう。座礁などして舟の動きを封じられるわけにいかない。


「最短距離を行くのは危険だ! 迂回するぞ!」


 ルディアの指令に船頭が頷く。同じ考えで暗礁を回避した四艘目の後を追い、ルディアたちは広場の前へ飛び出した。


「防衛隊のゴンドラが二位だ!」

「やはりレイモンドの櫂捌きは抜群じゃのう!」

「陛下は!? 陛下はちゃんと漕いでらっしゃるのか!?」


 どよめいたのは観客だ。意外な順位で大運河に戻った君主の姿に驚愕の声が上がる。失礼千万な民の態度にハハと父は苦笑を漏らした。

 前方では国営造船所の腕利き大工を乗せたゴンドラが、後方では海軍の青年将校を乗せたゴンドラが高く飛沫を上げている。背後に尖った船首を迫らせているものの、まだユリシーズに動く気配は感じられなかった。ひょっとすると防衛隊が座礁に巻き込まれなかったので、手を出しかねているのかもしれない。


(それならそれで一向に構わん。レースに集中できるというもの)


 ここから真珠橋まではカーブ二箇所を除けばほぼ直線だった。どれだけ加速できるかが勝敗を分ける鍵となる。前を行くのが一艘なら追い抜くのも不可能ではない。否、今なら一位を狙えるはずだった。優勝候補はおろか、上位三艘まで脱落してしまったのだから。


「全速前進だ! 我々が最初に真珠橋を通過する!」


 命じた瞬間、ひとまず謀略の危機は去ったと悟った二人の目つきが変わった。本気で勝ちに行こうとする勇猛果敢な男の目に。

 アルフレッドもレイモンドも肉体の頑強さ、武器を操る技術にかけては王国随一の若者だ。そんな彼らが全力をぶつければどうなるか。果たしてレースは期待通りの展開を見せた。


「うおお! 速ぇぞ防衛隊!」


 先行する船大工たちのゴンドラはあれよという間に近づいた。さすが十年来の幼馴染、息ぴったりの漕ぎっぷりである。

 相手の船尾に舳先が迫り、ガンガンとぶつかり合う。だが老練な敵はこちらの行く手を塞ぐ形でオールを伸ばし、簡単には抜かせてくれない。

 白熱の追走劇に国民広場は沸き返った。「行け!」「そこだ!」「ああッもう、何やってんだ!」と大観衆から熱い声援が送られる。父の治世でこんなことは初めてだ。

 ちらりと列を確認したが、ハイランバオスの姿はなかった。祖母のことだ。きっと座礁船など素知らぬ顔でゴール近くにいるのだろう。


(待っていろ、昨日の事故にお釣りが来るほどレガッタを盛り上げてやる!)


 レイモンドは前のゴンドラをかわそうと何度も櫂をくねらせた。スピードは落とさず、しかし細かに方向を切り替えるテクニックに驚嘆する。アルバイトでゴンドラ漕ぎをやっていたと話していたが、そちらで十分食べていけそうだ。そんな彼をやり込めている船大工たちはもっと凄いが。


「諦めろ若造! わしら船舶の専門家じゃぞ!」

「そうじゃそうじゃ! 毛の生えた素人程度が敵うもんかね!」

「十年後に出直しな!」

「優勝賞金はわしらのものよ!」


 敵船から老いぼれどもの煽り文句が飛んでくる。挑発を受けた槍兵は「優勝賞金だとー!?」と顔を真っ赤にした。


「レイモンド、気を乱すな! それでは向こうの思うつぼ……っ!」


 そのときだった。突如襲った激しい衝撃が船首に立っていたアルフレッドを吹き飛ばしたのは。大運河にダイブしたのは彼だけではない。槍兵や船大工の老人たちもだった。

 何が起きたのか瞬時には飲み込めなかった。ルディアはルディアで舟の底に引っ繰り返ってしまっていた。ただすぐ側に大鐘楼の剥き出しの基礎が見えたので「ああそうか。昨日この辺りに降った瓦礫のせいで水深が変わっていたのか」と思いついただけだった。

 呆然と運河を見やる。櫂が何本も浮いている。

 レースは一体どうなった。お父様に送られていた歓声は――。


「何をしている! 王都防衛隊、陛下をお守りしろ!」


 咄嗟に身体を動かしてくれたのはアルフレッドの怒鳴り声だった。考える暇もなく、ルディアは倒れた父を抱えて船大工たちの舟に飛び移る。


「……ッ!」


 間一髪だ。座礁した防衛隊のゴンドラには間もなくユリシーズのゴンドラが思いきり突っ込んできた。鉄の舳先が抉ったのは一瞬前まで父がもたれていた船縁。どきん、どきんと今更心臓が高く跳ねる。


「も、申し訳ありません陛下! 速度が出ていたので止められず……!」


 ユリシーズの白々しい言い訳に顔を上げる。それからがくりと肩を落とした。そうまで悔しげな顔をされてはもう庇うのも難しい。


(……おかしいな。捕縛できるとすれば彼だけとわかっていたのに)


 ルディアはゆっくり船上に立ち上がり、無言で櫂を握り直した。その水掻きでマントを払う。眼前に立つ海軍中尉の白いマントを。


「武器の携帯は禁止されているはずだが?」


 オールの先端で太腿を示すとユリシーズはさっと青ざめた。騎士は首を振り後ずさりするが、舟の上に逃げ場はない。


 ――いつでもあなたを守れるように、肌身離さずナイフを持つことにしたんです。ほら、ここに。


 脳裏に甦った声は優しく、あまりに遠い。


「ユリシーズ・リリエンソール。すまんが一緒に来てもらうぞ」


 次に騎士を狼狽させたのは人波を掻き分けて登場したブラッドリーだった。中将の「昨日からお前を監視させていた」という言葉に命運尽きたと悟ってかユリシーズは力なく項垂れ、とばっちりの同乗者とざわめく国民広場の向こうに消えていった。

 事情を知らぬほかのレガッタ参加者たちは不思議そうにルディアたちを追い越していく。舟が大破しては復帰のしようもない。ふうと溜め息一つ落としてルディアは父を振り返った。


「どうなさいますか? 陸に上がって続きをご観戦なさいますか?」

「……そうだな。残念だが、これだけ派手に壊れてしまってはな……」


 さっきまでの昂ぶりが信じられなかった。群衆は冷めた目つきで王の退場を眺めている。「ちょっとやる気を見せてくれたと思ったらこれかよ」としかめ面で囁き合いながら。

 そうか、この種の好意は勝たなければ維持できないのか。こちらもまた誤算だったな。


「だったら俺の舟に乗るか? イーグレット」


 と、そのとき、低くくぐもった声がして大穴の開いたゴンドラが揺れた。

 色味のない目を丸くして父が運河を振り返る。声にならない小さな声で古い友の名を呟いて。


「乗せてやれるぞ。二人までなら」


 いつの間に現れたのか、仮面で素顔を隠した男がルディアたちのすぐ側までゴンドラを寄せていた。国民ではない彼のレース登録は、隅で手を振るバジルが代行したものらしい。


「駆け込みも駆け込みですけど、ちゃんとスタートから漕いできましたからね!」


 そう言えば途中で人員を積んではいけないなんてルールはなかった。

 伸ばされた手にイーグレットが飛びつくと、ルディアもひらりと跳躍した。





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