第4章 その8
深まりつつある秋の日没は鐘の音とともに訪れる。耳の奥に残された荘厳な響きを思い返し、ユリシーズは紺碧の混じる夕空を見上げた。
大鐘楼を選んで彼を呼び出したのは、この場所が己にとって罪の象徴であるからだ。王女との決別を誓い、剣と心と騎士の名を汚した。
こんな気持ちで同じ場所に立つことになるとは思わなかった。悔いはしないと息巻いていた当時の己に今の自分を見せてやりたい。
(何が起こるかわからんものだな、人生とは)
最上階、列柱の間から見下ろしたアクアレイアは赤い光に照らされている。人払いは済ませていたから塔の頂はごく静かなものだった。
ユリシーズはそっと目を伏せて耳を澄ませる。カツン、カツンと硬質な足音が近づいてくるのを聞いていた。天啓のようなその音を。
「アルフレッド」
鐘室まで上ってきた男を振り返る。赤髪の騎士は疲れた風もなく「話って?」と尋ねてきた。これから定時の報告会で長居できないとも告げられる。
「そう時間は取らせない」
視線を街の景色に戻してユリシーズは彼に答えた。アルフレッドはこちらの隣まで来ると同じように眼下に目をやる。
切り出し方には少し迷ったが話すことは決まっていた。打ち明けると決めた思いは。
「昨日は何も言えなかったからな。良かったなともわかったとも」
まずは「おめでとう」と祝した。再出発を見届けられて自分も誇らしく思うと。それから。
「……ありがとう。私に私を振り返るきっかけをくれて」
述べた礼にアルフレッドが瞠目した。赤髪の騎士はまじまじとこちらの顔を覗き込む。
「きっかけ?」
ユリシーズは頷いた。「自分がどうしたいのか改めて考えさせられた」と。
海辺には夜が静かに下りてきている。罪なき者にも、罪ある者にも、優しく毛布をかけるように。
ユリシーズはぽつりと零した。今まで言葉にすることもなかった本心を。
「お前と過ごすようになって毎日本当に楽しかった。こんなに楽しかったのは人生で初めて──いや、二度目かな」
一度目はルディアの婚約者だった頃だと言えば騎士は少々複雑そうな表情をする。「終わった話だ」とユリシーズは苦笑した。
「……この数年、ずっと悪い夢の中に閉じ込められている気分だった。もがくほど深みにはまって、どうすればそこを抜け出せるのかわからずに、無関係の人間を数多く傷つけた……」
宝石箱に似た宮殿、聖像を欠いたアンディーン神殿、広場を行き交う者たちを、水路を渡るゴンドラを、一つずつ視界に映す。
不思議に心は静かだった。己にも非があったと認めてからのほうがずっと。
「あの女にはできなかったことをして乗り越えようと思ったのだ。だから私は──」
アルフレッドは黙って懺悔を聞いていた。苦しんでも己の道を忘れなかった本物の騎士は。
なんて男だろうと思う。痛む傷ほど心を混乱させるものなのに、彼はついに踏みとどまった。落ちた穴から這い上がった。
ずっと隣で見てきたのだ。自分たちは似た者同士の被害者だと思いながら。
なあアルフレッド、お前は私に教えてくれた。私の選べなかった道の先には一体何があったのか。お前が私に、別の生き方もできたはずだと示してみせてくれたんだ。一緒に穴に落ちるのではなく。
「今からでも戻れると思うか?」
ユリシーズはアルフレッドに向き直った。
正直な願望を口にする。己が新たに得た夢を。
「……お前みたいな騎士になりたい。そんなことを言ったら笑うか?」
赤い光が差してくる。西の空から、星を連れて。
騎士はまっすぐこちらを見つめ、茶化す真似などしなかった。最初から無理だと決めつけることも。
「ユリシーズ……」
名前を呼ばれて実感する。心の傷を自分で癒す必要がなくなったこと。
今日やっと己の恋は終わったのだ。捨てきれなくて腐らせ続けた初恋は。
もういいだろうと言ってやる。憤っていた過去の己に。代わりにルディアは二人といない友人に出会わせてくれたではないかと。
「自由都市派はやめにして、再独立派になってもいい」
宣言にアルフレッドは息を飲んだ。
「本当か?」
上擦った声に問いかけられる。
「ああ、誰から入れ替わりの話を聞いたかも全部話す。だからまた、私と一緒に飲み明かしてくれるか?」
「……!」
返された満面の笑みは輝かしい未来を想起させるものだった。
彼がいてくれるなら自分はきっとやり直せる。そう信じられる。
どちらからともなく交わされた固い握手に胸の奥が熱くなった。
──前へ進める。否、進むのだ。
長かった悪夢を振り切って。
******
蛍が一匹飛んだ気がした。
闇の中で。祝福でも授けるように。
ああ陛下だ、と思う。たまに見るあの人の夢だと。緑の繁る丘の上、いつもにこにこしているだけで何も喋らないけれど、今日は格別嬉しげな──。
「……ッ!」
がばりとレイモンドは跳ね起きた。もしや寝過ごしたのではと慌てて。
だが屋内は薄暗く、夜明けは訪れたばかりのようだ。ほっと胸を撫で下ろし、隣の毛布の膨らみを揺さぶった。なるべく優しくいたわるように。
「姫様、姫様」
身体を交換しないとと呼びかける。チャドはともかくグレッグの目もあるのだし、人目につかない時間帯に済ませてしまったほうがいい。それはルディア本人が昨夜話していたことだ。
恋人はううんと眠たげに瞼を擦った。欠伸しながら起き上がり「もう朝か」と前髪を掻き上げる。
一晩経って改めて見ても可愛いなあ、とレイモンドはにんまりした。顔立ちのことではない。ルディアの入った肉体が放つ独特の空気みたいなものだ。
寝台を降りた彼女に続いてレイモンドも靴を履いた。椅子に引っかけていたシャツを掴み、ご機嫌で身支度を整える。それが終わると窓辺でもつれた髪と戦う恋人の側に寄り、にっこりと笑いかけた。
「な、俺にやらせて」
手を差し出せば「頼む」と木櫛が渡される。昔ブルーノに聞いた要領で毛先から丁寧に髪を梳かした。
明るい茶色の、ちょっと細めの、ふわふわしたロングヘアー。これが彼女の新しい身体なのだと愛おしく思う。
(大事にしなくちゃな)
精いっぱい守っていこう。今度こそ誰にも奪わせない。そんな決意を秘かに固めた。固めた矢先に心はぽきりと折られたが。
「……あのな、レイモンド。丁重に扱ってくれるのはいいが、この身体、そう頻繁には使わないかもしれないぞ」
びっくりして「ええっ!?」と叫ぶ。危うく櫛を落っことすところだった。
「な、なんで!?」
ストレートな問いかけに彼女は相対的な利用価値がどうのとよくわからないことを言う。困惑しきったレイモンドを見上げ、ルディアは至極真面目な声で説明した。
「接合の話はしたろう? あれはアクアレイアの蟲とジーアンの蟲の間でなら誰と誰でも行える。互いに初めての接合であればな」
「う、うん」
寝入りばなに聞いた新たな蟲情報を思い出し、レイモンドはひとまず頷く。確かコナーは「接合」によってハイランバオスにアークの秘密を知られたのだ。記憶の共有がどの蟲にも起こり得る事象なら自分たちも気をつけねばなるまい。もしうっかりルディアのそれがジーアンに渡ればただでさえ深刻な状況がより深刻になってしまうのだから。
「こちらの頭を見せる代わりにあちらの記憶を手に入れることができるわけだ。千年の歴史を生きた彼らの知恵を」
だと言うのに彼女の口ぶりは接合を望んでいるように聞こえる。レイモンドは眉をしかめて「どういうこと?」と解説を求めた。
水色の双眸が開かれる。いつも決然と進んできた王女の瞳が己を見つめる。
どこまでも真剣に、どこの誰よりも大胆不敵にルディアは告げた。
「──ジーアン帝国を乗っ取る」
あまりの台詞にレイモンドはあんぐりと口を開く。
できるのか。そんなことが。いや、ルディアが言うならきっとできるのだと思うが。
「えっ……? ひょっとしてこの身体、そんな頻繁に使わないかもって」
ジーアン人の誰かと入れ替わるつもりなのか。もしかしてそうなのか。
一体誰とという問いはおそらくあまりに愚問だった。問いかける前に答えに至り、冷や汗を垂らす。確かにそれが可能なら一気に状況を変えられるだろうけれど。
「……っ」
玉座を奪う算段ならば相手は一人しかいなかった。恐れおののくレイモンドにルディアは更に異なことを言い出す。つい昨日までそんな宗旨替えの気配は微塵もさせていなかったくせに、これ以上ない会心の笑みで。
「もう近隣諸国に力を貸してもらうことも、アウローラを政治利用することも考えなくていい。──レイモンド、我々は帝国自由都市派に回るぞ」




