第4章 その6
ドナの退役兵たちは自分たちを神様か何かと勘違いしているのかもしれない。少なくとも「急げ」と命じれば一週間かかることが三日で、三ヶ月かかることが二ヶ月で終わると考えているのは間違いなかった。
「ううう……」
砦の主館でバジルは重い溜め息を飲み込む。必要枚数の水銀鏡が揃ったのがほんの二日前だというのにゴジャとその取り巻きたちは「さっさと迷宮を完成させろ」とやかましい。
小間使いを総動員して組み立てに励んでいるのになぜ彼らにはこちらが手を抜いているように見えるのだろう? 外野から暴言を吐かれては作業員の動きが鈍って当然なのになぜねちねちと文句を垂れるのをやめないのだろう?
現場の監視などせずに中庭で飲んだくれていればいいものを、組み上がっていく建造物を見るのは面白いらしい。まったく迷惑千万な連中だった。
(とにかく急ごう。ここまで来たらもう一息だし!)
バジルの指示のもと吹き抜けの広間に次々と鏡が設置されていく。退役兵が寄ってきて並べた鏡の前で踊るなど無思慮な邪魔をしてくれたが、できるだけ気にしないように突貫建設工事を進めた。
「大丈夫か? こっち俺が持ち上げるから、あんたはそっち支えててくれ」
「あ、ありがとう」
と、迷宮の一角から流れてきた甘い空気にびくりとしてバジルは思わず足を止める。振り返って見てみればタルバがケイトの運ぶ鏡を所定の位置に収めているところだった。
異国の友人はいつの間にやらアレイア語を習得し、なんだかんだとケイトを気にかけている。彼女は恋人なんて募集していないと思いますよ、と釘を刺すには刺したけれど、彼はあまりわかっていないように感じた。
騎馬民族の間では、夫を亡くした若い妻はその兄弟に嫁ぎ直すのが一般的であると聞く。最初の夫の喪に服し、以後結婚しないというパターンはほとんど見られないらしい。今のところタルバがケイトと一線踏み越えようとする兆候はなかったが、もしそうなったらどうしようとヒヤヒヤした。
(もう一回ちゃんと言ったほうがいいかなー!? どうかなー!?)
深刻に懊悩しつつバジルは広間をぐるぐる回る。甲高い鐘の音が響いたのはそろそろ小間使いの一部を日常業務に戻さねばと考えていたときだった。
「えっ?」
夕刻にはまだ早い。なんの鐘だと顔を上げると退役兵が残らず青ざめているのに気づいた。ざわつく彼らは中庭に続く主館の玄関口を見やり、一様に身を固まらせている。
「えっ?」
わけがわからずバジルはタルバに目をやった。彼もまたケイトの隣で動きを止め、緊張気味に大扉を見つめている。
(あ、もしかして)
小間使いが鏡を放って整列を始めたので、誰か帰ってくるのだとわかった。
それが誰かなど考えるまでもない。ドナを治める将は一人しかいなかった。なるべくなら、本当に、極力どうにか顔を合わせたくなかったけれど。
「たっだいまー! みんないい子にしてたー!?」
両開きの扉から腕を広げた性悪狐が現れた瞬間、広間の空気は凍りついた。いつも威勢のいいゴジャも、ふんぞり返った取り巻き連中も、一斉に後ずさりする。
細い目が冷たく辺りを一瞥した。狐のすぐ後ろには顔布をつけた聖預言者の姿まである。帝国幹部らの登場に緊張は高まる一方だった。
「……へええ? 俺の許可なしにご大層なもの拵えてくれてるじゃん?」
ヒエッとバジルは息を飲む。ラオタオはいやにゆっくりと、一歩ずつ威圧感を増幅させつつ広間の中央まで進んだ。
子供の頃通っていた学校で、実行する直前の卑劣な悪戯が教師に発見されたとき、教室がこんな雰囲気になっていた気がする。あのとき己は主犯でもその友達でもなかったから「うわ……」と思うだけで済んでいたが、この場合一体どうなるのだろうか。
「ちょーっと俺がアクアレイアに出てるうちに随分偉くなったみたいだなー、なあゴジャ?」
矛先はまず退役兵のボスに向けられた。怯えて顔を逸らしたゴジャに普段の荒っぽさはない。嘘のように委縮して大きな身体を震えさせている。
蛇に睨まれた蛙ならぬ狐に睨まれたオタマジャクシだ。ほかの退役兵たちはラオタオと目が合わないようにうつむいているし、誰もゴジャを助けようとはしなかった。
「何この鏡? 誰の金でこんなことしてんの?」
狐の追及はやまない。もしやゴジャはこのまま失脚するのではと思えた。
そんな期待をかけたのも束の間、思いもよらぬ流れ矢が飛んでくる。退役兵の総ボスは突然がばりと身を起こすと太い指でバジルを示した。
「ち、違う! あいつがあんたの許可なんて後で取りゃいいって言ったんだ!」
悪質なでっち上げにバジルは「はい!?」と声を裏返す。目玉が飛び出るかと思った。何を言い出すのだ、この男は。
「ふうーん? バジル君が俺の金使い込んだんだ?」
くるりとこちらを振り向いたラオタオに「ちちちち違います違います!」と首を振る。慌てふためく間に狐は距離を縮め、ほぼ眼前に迫っていた。上からずいと三日月の眼に覗き込まれ、恐怖で気絶しそうになる。
「バジル!」
割り込んできたタルバが背中に庇ってくれたがラオタオの視界に彼は映っていないようだった。まるで荷物でもどけるみたいに友人を脇に押しやると狐はバジルの胸倉を乱暴に掴み上げる。
「可愛い顔して案外反抗的なことするねえ? 君のこと買ってたんだけど調子に乗っちゃったのかなあ?」
喉が詰まり、宙に足が浮き、これはかなりまずいのではと血の気が引いた。
まったく笑っていない双眸と目が合う。固まる以外何もできない。
「俺はさあ、自分の庭を荒らされるのが大っ嫌いなんだわ」
わかるかな、と問いながらラオタオはバジルだけでなく固唾を飲んで見守る退役兵にも目をやった。それでなんとなくピンと来る。あ、これって見せしめだ。同胞よりはいたぶりやすいから見せしめに選ばれたんだ、と。
悪い予感は当たるもので、狐はバジルの首を絞めたまま広間に声を響かせた。特にゴジャとその取り巻きに厳しく忠告するように。
「生かしてもらってるってこともわからないような馬鹿、生きてる価値があるのかなあ? ないよなあ? いい子にできないんだったらどうなってもそりゃ仕方ないよなあ?」
退役兵たちは縮こまり、誰もひと言も発さない。
否、一人だけラオタオに立ち向かう勇者がいた。異国の義理堅い友人が。
「待ってくれ! バジルはゴジャの命令通りに働いただけで何も」
台詞はそこでぷつり途切れる。またしても問答無用でタルバは無慈悲な狐の腕に突き飛ばされてしまったのだ。
「悪い子にはお仕置きだよねえ?」
向けられた酷薄な薄笑いに汗が噴き出す。ほとんど生存本能でバジルは身を反らし「ごめんなさい! ごめんなさい!」と叫んでいた。
「ははは、何それジーアン語? 何言ってんのかよくわかんないや!」
絶対に聞き取れているくせに狐は取り合おうとしない。どころか「ちょうど龍爺の相手でストレス溜まってたんだー」などと言い出す。
「……ッ!」
床に下ろしてはもらえたものの、今度は首根っこを掴まれて引きずられた。「えっ? ぐええっ!?」と混乱するバジルを広間の角の階段まで連れて行くとラオタオは二階に上がり始める。
「痛ッ! 痛い! あああああ!」
一段上るたびに腰やら背中やらぶつけ、ぐるぐると視界が回った。これからどこへ連れて行かれるのか考えただけで泣きそうだ。
(だ、誰か……!)
助けを求めて首を動かすも側には布で顔を隠したハイランバオスしかいない。現状から考えて中に味方が入っているとは到底思えず、絶望しかなかった。
「バジル!」
こんな状況でも追ってきてくれた友人は盛大に嘆息した狐によって阻まれる。ラオタオは「ちょっと通せんぼしといてくれる?」と聖預言者にひと言投げるとバジルを肩に担ぎ上げた。
「タ、タルバさん!」
「バジル……っ!」
階段の途中でタルバは足を止め、悔しげに眉を歪める。彼でも聖なる青年に曲刀を抜くことはできないらしく、それ以上進めないでいた。
そうこうする間にバジルは二階に着いてしまう。細い廊下に入ると先程までいた広間は完全に見えなくなった。
(うわああああ! お仕置きって何!? お仕置きって何されるんだ!?)
痛いのと苦しいのと精神的に引きずるのは嫌だと胸中で絶叫する。祈るようにモモの顔を思い浮かべ、最悪彼女にやられていると思い込もうと決意した。
だがまだ恐怖は消えてくれない。どこぞの薄暗い一室にぽいと放り込まれたとき、バジルは死を覚悟した。尻餅をついた痛みなど部屋に並んだ拷問器具の不穏さに比べれば爽やかな潮風だった。
「さ、それじゃ一緒に遊ぼっか!」
転んだままのこちらに被さるようにしてラオタオは顔を近づけてくる。血も涙もない笑みだ。バジルがガタガタ震えているのが楽しくて仕方ないらしい。
(ひ、ひええええーッ!)
思考はもはや不可能だった。楽しかった思い出が順に脳裏に甦る。工房島の洞窟でモモと一緒に遊んだこと。幼馴染五人で励んだ訓練の日々。
皆ごめんと防衛隊の仲間たちに謝った。生きて帰れないかもしれないと。
(ああ、モモ、せめて最後にひと目だけでも会いたかった)
が、しかし、異なことにラオタオはいつまでも何もしてこなかった。
変だなと閉じていた瞼をうっすら開く。するとそこにはいやに優しい微笑を浮かべた彼がいた。
「──安心して。私よ、私」
監視があるから二人になれるチャンスを待ってたの、と言われて瞬きする。手荒にしてごめんなさいねと。
先刻までの性悪狐はどこにもいない。本物だと疑いもしなかったあの男は。
「……あ、あ、ア……っ!?」
狼狽しすぎて名前を呼べず、ただただ両目を白黒させる。
世紀の女優はにこりと笑い「なんとかドナに防衛隊を連れてくるわ。上手く合流して私は無事だって伝えて」と告げた。茶目っ気たっぷりにウインクなどして。
一体全体何がどうなっているのかはさっぱりわからぬままだった。
そうこうする間に彼女はダチョウの羽根を取り出し、バジルの懐に忍ばせた。




