第4章 その5
何から語り始めるべきか──。思案した師が選んだのはアークと蟲の関係を説明することだった。
創世記にも書かれているように聖櫃が滅びた古い神々の置き土産というのは事実だそうである。蟲は巣とアークを守るよう彼らに「設計」されたらしい。末端の蟲であれ中枢の蟲であれ備わった本能は等しく、管理者として生まれたコナーはアークの保存を使命とし、世に放たれてかれこれ百年ほどになるとの話だった。
「蟲がアークを守るのは、アークが失われやすいからでしょうね」
師は淡々と既に多くのアークが歴史に消えた事実を語る。大パトリア帝国のアークも、レンムレン湖のアークも、フサルク島のアークも、機能停止や消失の憂き目に遭って完全な形では残っていないそうだった。
「おそらくこのアレイアのアークが最後の一つです。我々は未来のためにこれを守り抜かねばなりません。アークは人類が滅亡の危機を免れるべく存在するものですから」
きっぱりとコナーは言う。話のスケールにルディアは思わず瞬きした。だが神秘の石柱を眺めていると戸惑いはどこかへ消え失せる。
不思議な納得感があった。まるで最初からそうと知っていたような。
「……なぜアークは失われやすいのです?」
「延命に役立つからですよ。大パトリア帝国にあったアークは内部の循環液を飲み尽くされ、本体も粉末薬に変えられてしまいました。蟲にもアークと似た環境を作ろうとする性質があるのでご存知でしょう? 瀕死のレイモンド君の傷を癒した例の髄液以上の奇跡がアークには起こせるのですよ」
師の知らぬはずの話が飛び出し、本当に記憶を見られたのだなと驚く。
だが次はクリスタルを見やっても消えない疑問が湧いてきた。失われやすいと言うのならなぜあんな非常識な男にその存在を伝えたのだと。
「ハイランバオスにアークのことを話した理由はなんですか?」
この問いにコナーはうっと胸を押さえた。目を逸らし、師は何やら言いにくそうに「私にも予期せぬ事故がありまして……」と弁解を始める。
曰く、師は教えようとして教えたのではないらしい。偶然に「接合」という情報の共有が行われてしまったそうだ。ジーアン軍がアレイア海東岸に迫った翌年、ドナ近海で起きた海難事故のせいで。
「嵐の夜、私と彼は同じ船に乗っていたのです。秘密裏にジーアンに近づこうとしていたグレース・グレディの計らいで引き合わされておりましたゆえ」
祖母の名にルディアはぴくりと耳を跳ねさせた。それはグレースが聖預言者の肉体を得るきっかけになった事故ではないのか。まさかあのときコナーまで一緒だったとはと眉をしかめる。
「『接合』は型の異なる蟲同士の接触で起こります。要するに我々は海で溺れて中身が露出していたのですね。本当に奇跡のような偶然ですが、ともかく彼は私から管理者しか知り得ない知識を得てしまいました。私のほうもジーアンの蟲について知ることになりましたが……。まあどう考えてもハイランバオスの手にしたもののほうが大きかったでしょうねえ」
乾き笑いが天井に響いた。一応コナーは接合の途中で聖預言者から逃れたと言う。管理者となると器なしでも意識を保っていられるそうで、情報の流出は最小限に食い止められたとのことだった。
「……ハイランバオスが知ったのはどんなことです?」
ルディアの問いに師は「一つずつお答えしましょう」と頷く。落ち着いた声がつらつらと要点を述べた。
「まず『接合』についてです。これが起こると記憶のほかに遺伝子情報の交換もなされます。平たく言うと寿命が少し延びるのです。ただし蟲が接合できるのは一生に一度きりですし、延びる寿命も百年程度ですがね」
原理を解説する気は毛頭ないらしく、コナーは端的に事象だけを羅列する。百年が少しという時間感覚に常人と異なるものを感じたが、話の腰を折るような発言は控えて次の説明を待った。
「それから蟲の標準生息期間について。百年周期の分裂は十回までと決まっていて、上限を超えた蟲はいつ死んでもおかしくないこと。オリジナルが活動を停止すればほかの蟲も死滅すること。これも彼の知るところとなりました」
師によればヘウンバオスの双眸が赤いのは彼が蟲として機能不全に陥りつつある証左だそうだ。
老いた蟲は髪と瞳の色を作れなくなるという。ヘウンバオスは生まれたとき、もっと青に近い目と亜麻色の髪をしていたらしい。眼球は色が抜けると血管が透けるようになり、毛髪は金から白に近づくと聞き、ルディアは我知らず息を飲んだ。
(天帝の金髪、かなり薄い色をしてはいなかったか?)
思い出してぞっとする。
それでは数年後のジーアンはどうなっているのだろう。上層部が死に絶えて帝国が瓦解すれば、東方は交易どころでなくなってしまうのではないか。
(めちゃくちゃになるぞ、ジーアンの版図一帯)
命の期限が迫っているとは聞いていたが今まで半信半疑だった。実感以上にアクアレイアは厳しい状況にあるのかもしれない。たとえ王家再興が叶ったとしても。
「……『接合』で寿命が延びると仰いましたね? ではハイランバオスだけはジーアンの蟲が亡びた後も生き続けられるのですか?」
気になっていたことを一つ問いかけた。余命わずかだと言いながら妙に余裕たっぷりだったあの男。同時に死ぬならどうやってヘウンバオスの最期を詩に起こすのか疑問だったがそれならば納得行く。
コナーは「ええ」と頷いた。ルディアの推測した通りだと。
「『接合』によって彼は特異な存在になってしまった。聖櫃の知恵の一部を有し、故郷へのこだわりも捨て、欲望のまま生きる。前代未聞の変わり種です」
ハイランバオスに蟲の常識を当てはめることはできない。彼に残るのは天帝への関心のみで、脳蟲もジーアンの同胞も使い捨ての道具としか見てはいない──師の語る見解をルディアは「だろうな」という思いで聞いた。
彼は愉快犯なのだ。難題を吹っかけて相手の出方を楽しむだけ。とてもではないが政治交渉には向いていない。少なくとも己は彼とまともに手を結ぶ気になれなかった。
(ならこの人はどうなのだ?)
腹の底を窺うように師を見やる。アークのことを知られたのは事故だと言うが、腑に落ちない。彼もまた現状を楽しんでいる節がある。
管理者ならルディアには黙っていても良かったはずだ。アークとはなんですと空とぼけ、門前払いにしていても。
記憶を覗き見たのだから、こちらがアークをジーアンとの交渉に使えないか模索中なのは承知済みだろう。それなのに惜しげもなくぺらぺら喋る。そこが解せない。
師もルディアも同じアークから生まれたから仲間だと見なしてくれているのだろうか? そうだとしても疑問は残るが。
(味方なら味方だと最初に宣言しそうなものだしな)
コナーは表情を読ませない。彼にもきっと思惑があるに違いないのに「話が少し逸れましたね」と呟く声は依然落ち着き払っている。
この人は何を考えているのだろう。どんな狙いでルディアをここに入れたのだろう。アークを守るということが彼の大前提として。
(そう、この岩塩窟を守るだけなら私にやらせずともいいのだ。ほかの誰かにやらせたって……)
思い出すのはバオゾでの出来事だった。宴の席で師は明らかにヘウンバオスに擦り寄った。それに彼はハイランバオスにも一時協力したのではないのか。
じわじわと警戒心がもたげてくる。眼差しは自然鋭くなった。
慎重に見極めねばなるまい。敵なのか、味方なのか、この人が誰につこうとしているのか。
「あとはアークのことですが」
ルディアの胸中など気にかける様子もなくコナーは話を再開した。暗闇の中に浮かび上がるクリスタルに掌を添えて師は語る。ハイランバオスが手にした知識をどう悪用しているかを。
「本当に彼は残酷ですねえ。アレイアのアークとレンムレン湖のアークは別物だと知っていて天帝には『アークを探せ』とだけ告げたのですから」
あなたも聞いていなかったでしょう、とコナーが続ける。
「蟲にとって大切なのは己を生んだアークだけで、無関係の聖櫃には固執などしようもないのですよ」
「──は?」
意味がわからずルディアは眉間にしわを寄せた。今何かすごいことを聞いた気がするのだが。
それではジーアンの蟲にとって現存するアークは無価値なものだということか? それなのにハイランバオスにアーク探しをさせられていると?
「アレイアのアークに触れたところで彼らの郷愁は満たされません。そもそも彼らのアーク自体とっくに機能停止していると思います」
「機能、停止……」
「蟲の母体として何か求められる状態にはほぼないということです。探しても無意味とは言いませんが、落胆は必至でしょうね。辿り着いた先にあったのがよその母親、よりはましかもしれませんが」
師によればハイランバオスは天帝を苦しめるために誤誘導をかけたのだろうとのことだ。アークのことなど知りもしないジーアンの蟲たちはアークと名のつくものすべて無視できない状態にある。彼らがここに到達してもしなくても空回りに終わるように舞台は整えられていたのだと。
「いやはや、天帝を絶望させたいという欲求は本物のようです。巻き込まれた我々には迷惑極まりないですが」
コナーはやれやれと肩をすくめた。苦笑いで語る彼はやはり面白がっているように映る。空回りでもこのアークが狙われているのは事実なのに。
「アクアレイアを独立させたいあなたを使えば蟲の巣からも聖櫃からも天帝を遠ざけられる。手の込んだ嫌がらせです。ハイランバオスがあなたにアークを守るよう命じたのも、あなたに実物を見せて焚きつけるためでしょう。彼自身はアレイアのアークがどこにあるのか掴んではいませんでしたが、あなたなら私に会うのも不可能ではないと踏んだ。事実その通りになったわけです」
師はルディアに向き直った。微笑は崩れぬままだった。その昔、盤上に駒を並べた講義の席で見せたのと同じ顔でコナーはルディアに問うてくる。
「──さて、ここからあなたはどう出ます?」
ルディアは指先を握り込んだ。簡単に答えられるはずがなかった。
ジーアンからアクアレイアもアークも守り抜く方法。そんなものがあるなら逆にこっちが聞きたい。
「先生には妙案が思いついているのですか?」
「いえ、特には。ただ私は末端の蟲と違い、巣に対する執着は薄いので。天帝の手にアークを触れさせないだけなら難しく考えずともいいでしょう?」
隠し通せば済む話ですと師は笑う。ルディアの直面した現実のほうがよほど厳しいと言うように。
祖国はジーアンの支配下にあり、財政難は印刷機の登場でやっと回復の糸口を掴んだばかり。国内は帝国自由都市派と王国再独立派に分かれ、波の乙女の聖像はいまだカーリスに奪われたまま。ドナの特需でどうにか生きている民は少なくないが、それもいつまで続くかはわからない。おまけにジーアン帝国は突如崩壊する可能性が高く、東方交易は続行不可能になるかもと来ている。
「アクアレイアにはここが正念場ですねえ」
やはりコナーは楽しげで、ルディアは思いきり顔を歪めた。偽預言者を残酷呼ばわりする割に彼も十分ひとでなしだ。
「……何がそんなに面白いのです?」
冷静に問うたつもりが口をついた声には苛立ちが滲んでいた。師はぴたりと笑みを引っ込め、瞠った目でまじまじこちらを見つめ返す。
返答は与えられず、ますます憤りが募った。
コナーに対する怒りではない。自身の無力に対する怒りだ。アクアレイアのために生きると誓ったくせに、何もできないも同然の。
「巣に対する執着が薄い? ならばあなたは国のことなどどうでもいいというのですか?」
ほとんど八つ当たりだった。そんなことはわかっていた。八方塞がりのまま荷物だけ増やされてむくれている。
ただそれだけ。まるで子供に戻ったみたいに。
コナーはふっと笑みを漏らした。「あなたは我慢強い生徒でしたが、時々少し気持ちが強く出るのでしたね」と懐かしげに目を細められる。
「アークの管理者には──いえ、アーク本体である私には、聖櫃を守るほかにもう一つ使命があるのです」
真摯な瞳で師は告げた。人類がアークを理解し得るほど科学的に発展した、精神的に成熟した、そういう社会をもたらさねばならないのだと。でなければアークは存在する意味がないと。
「あなたと天帝がぶつかれば世界に一大変化が生じて一気に時代が進むのではと期待しました。ご不快に思わせて申し訳ありません。まあ面白がったことは否定しませんが」
謝罪を聞いてもルディアの心は晴れなかった。いっそうコナーを遠く感じて憂鬱になる。巣を守る気持ちもなく、無益な争いを止めもせず、あまりに己と違いすぎて。
この人は誰の味方なのだろう。アクアレイアについてくれる気はどれくらいあるのだろう。それがわからないのが怖い。やろうと思えばこの人は、均衡を崩してしまえる人だから。
コナーの存在はジーアンに対して持てる最大の切り札だが、彼は意思を持つ切り札だ。取り逃がすわけにいかない。
「……以前あなたが理想の王を探していると言ったのはアークを守らせるためですか?」
尋ねると師は吊り気味の三白眼を丸くした。
「誰があなたの王なのです?」
きつくまなじりを尖らせてルディアは質問を続行する。この先コナーがどう立ち回るつもりでいるのか少しでも明らかにするために。
収穫わずかでは帰れなかった。偽預言者の掌で踊らされたままでは。
せめてこの人の動向くらいはと眼前の師と聖櫃を睨む。しばし沈黙した後でコナーはにこりと口元を緩めた。
「我が王と呼べる者などおりませんよ」
ハイランバオスもヘウンバオスもましてあなたも私の王にはなれません、と声が返る。悠然とした眼差しはまっすぐにルディアに注がれ、ほんのわずかも逸らされなかった。
「……ですがもしアークを理解できる王が現れれば、あなたはその王に仕えるのではないのですか?」
半分は警戒から、半分は期待から、探るように問いかける。
コナーは吹き出したようだった。小さく肩など震わせて。
「移ろいやすい人の世に後ろ盾は求めません。随分懐かしいことを覚えていてくださいましたね。理想の王を探しているなど私の詭弁だったのに」
堪えるような笑い声にルディアは「え?」と瞬きする。「いやまさか、あなたがそんな素直に受け取ってくださっていたとは」と師はいかにも微笑ましそうに続けた。
「私の求める指導者が現れるのはずっと未来の話です。まず間違いなく数百年は先でしょうね。──こう言えばおわかりになりますか?」
「……ッ!?」
衝撃すぎて軽く思考が停止する。
今までずっといつかはコナーもどこかの宮廷に腰を落ち着けるものと思っていたのに、そんなまさか。
「て、体よく言い換えていただけなのですか……? 誰にも仕官する気はないことを……?」
にっこりと頷かれ、ルディアは一気に脱力した。
師曰く、特定の勢力に肩入れすると動きにくくなってしまうので基本的には今後も単独で行動するつもりだとのことである。
な、なんだ。それではこの人は、ハイランバオスに乗っかって経緯を眺めているだけなのか。どこの誰につくわけでもなく、世界が進歩するなら良しと、アークに危険が及ばぬ範囲で必要そうな情報だけ与えて。
(な、なんだ……)
敵でも味方でもなかったのだ。事情通の傍観者。それがコナー・ファーマーだったのだ。
「いやあ、いらぬ気を揉ませてしまったようですね。申し訳ございません」
師は再びにこやかに頭を下げる。しばらくの間受け入れがたく、ルディアはハハ、と乾き笑いを漏らした。
ともかくも懸念事項は一つなくなったらしい。コナーがどの陣営に入るかで力関係は一変する。彼がどこにも属さないと確証が持てたのは大きかった。
(まったく先生も演技達者な……)
やれやれと息をつく。理想の王を探していますというあの台詞。今の今まで処世術の一つだったなど考えもしなかった。
それにしても長いこと騙してくれたものである。無垢な少女だった己は自分に君主の才覚が足りないからコナーを引き留められないのだとしばらく本気で落ち込んだのに、今頃こんなオチがつくとは。
(演技達者な──)
そのとき不意にルディアの脳にある閃きが湧き起こった。
身を貫いた稲妻に目を瞠る。あまりのことに指先一つ動かなくなった。
(……演技……?)
待てよ、と息を飲む。立てた仮説はたちまち確信に変わった。
──演技。演技だ。全部演技だったのだ。今まで目にしてきたものは。
(ひょっとしてあいつ、あいつの渡してきたあれは)
そうだ。変だと思っていた。やけに本物らしすぎると。だが「接合」の話が本当なら、もしそれがすべての蟲に起こり得るなら、あの男は。
「さて、そろそろ村に戻りましょうか。記憶を覗き見たお詫びに一つ贈り物をさせてください。きっと喜んでいただけると思います」
そう言ってコナーが踵を返す。来た道を戻ろうと歩き出した師の腕を掴み、ルディアは声の限りに叫んだ。
「待ってください!」
コナーがこちらを振り返る。少し驚いたような顔で。
身震いしながらルディアは問うた。
祖国の窮状を引っ繰り返して余りある奇策。思いついたかもしれない。
「……コナー先生、これが何かわかりますか?」
ルディアがポシェットから取り出した茶色の羽根に灯りをかざし、コナーはきょとんと目を丸くした。突然何をと訝りつつも博識な師はさらりと即答してくれる。
「雌ダチョウの羽根ですね」
十分だった。十分すぎるひと言だった。
ルディアはコナーの袖を引き、ぼそりと己の考えを告げた。
「……それはまた、面白いことを……」
緩んだ口元を覆うように師は掌を持ち上げる。伝わってくる興奮は何よりもアクアレイアの行く末に希望があることを物語っていた。




