第4章 その4
今は寂れたこの村も、ひと昔前までは製塩業でそこそこ栄えていたらしい。採掘量の減少により閉鎖された古い岩塩窟の一つ。その入口に到着すると師はランタンに火を灯し、にこやかに微笑んだ。
「ここにあなたをお連れする日が来るとは思いませんでした」
ルディアが蟲入りということは家庭教師時代から勘付いていたそうだ。だがまさか、平民と入れ替わったりアークの存在を知ったりするとは予測の範囲外だったと彼は愉快げに語った。
「どうぞこちらへ」
招かれるままルディアは暗い洞窟に歩を踏み出す。坑道は狭く、古びて少し荒れていたが、コナーは慣れた様子で奥へと進んでいった。
岩塩はよほど深く掘られたようだ。道はいくつも枝分かれしており、一人で置いていかれたら村に戻れなさそうである。灯火は弱く、せいぜい数歩先までしか届かない。上ったり下ったり、何度も足を取られかけた。この迷宮の奥にならどんな至宝が隠されていても不思議ではなかった。
蟲を生み出すクリスタル。一体どんなものなのだろうと気が逸る。
間もなくそれは曲がり角を折れ曲がったルディアの眼前に現れた。
「──……」
息を飲む。ランタンの光に照らされ、ひっそりと岩場に鎮座する輝きに。
六角柱を斜めに切った、半透明の、見上げるほどの巨大な石がそこにあった。ひと目でどんなに大切なものか骨身にまで染み渡る、圧倒的な存在が。
これはどういう現象だろう。全身に震えが走る。涙が溢れそうになる。
仄かな光を湛えたアークに目を奪われ、ルディアはしばし呼吸を忘れた。
見たわけでも覚えているわけでもないのに確信しか抱けない。ここから己が生まれたのだと。
(これがアーク──)
ほかに言葉は出てこなかった。ほかの言葉が必要だとも感じなかった。
まさかこれほど体感的に理解できるとは。アークが絶対に失えないものだということ。
「よくご覧になられましたか?」
問いかけにルディアはハッと目を上げる。見れば石柱のもとで師がこちらに手招きをしていた。
側に寄るとアークの下部が指差される。そこには青い髪を広げ、何かの溶液に浮かびながら眠っている女児がいた。
「アウローラ……?」
赤子は右手にぶかぶかの指輪を嵌めている。鷹の紋章のそれはモモが王女の身分証明として預けたものだった。棺にも似たクリスタルの内側で、装身具を捧げられた娘は本物の死体じみていた。
「ここにあるのは身体だけです。私にお任せくださっても今後の成長に問題はありませんが、いかがしますか? アクアレイアに連れてお帰りになられますか?」
多分本当に骸だけがあるのだろう。師はアウローラに中身が入っているとは言わなかった。
ルディアは首を横に振る。「今は時期尚早でしょう」と返せばコナーも特には否定せず「ま、王国史次第ですよね」と口角を上げただけだった。
「……先生。どういう理屈でアウローラの肉体は生きているのです? アークとはなんなのですか?」
問いかけても師はすぐには答えてくれない。ランタンの光を吸い込んで輝くクリスタルを眩しげに見つめるばかりで。
「コナー先生、アークとは……」
「原理を説明したところであなたには理解できません。アークが一体なんなのかも、半分の半分の半分だって解明できる人間はまだいないでしょう」
わかるのは蟲だけです、と彼が言う。それも言語化可能なのは管理者だけでほかの蟲は直感的な愛着を持つに過ぎないと。だからこれがなんなのかを喋る気はないし喋っても無駄だと不毛視する師にルディアはぐっと拳を握った。
理解できないと言われても「わかりました」と引き下がるわけにいかない。ハイランバオスがこちらより多くの情報を有しているなら尚更だ。
ジーアンはアークを探している。なら己は知らねばならない。アクアレイアが再独立を果たすために、アークが使えるカードか否か。
「ハイランバオスの知っていることだけでも教えていただけませんか」
噛みつくように食い下がる。コナーを見据え、ルディアは交換条件の提示を待った。
ここまで連れてきたということは師のほうにも応じるつもりがあるはずだ。でなければ最初から聖櫃を見せつけたりはしなかっただろう。
「そうですねえ、あなたにも飲み込めそうな話だけなら」
思った通りコナーは前言を覆す。にこやかに微笑んだ後、彼は「ただし」と付け足した。
「私にあなたのすべてを開示するおつもりはありますか?」
コナーはじっとこちらを見つめ返してくる。師の問いにルディアは怪訝に眉をしかめた。
「開示?」
「アークに触れればあなたの生きたこれまでの記憶がアークにも保存されます。管理者たる私にはそれを覗き見ることができる。例えばあなたがあの預言者とどんな会話をなさったかとか」
「き、記憶の保存?」
耳慣れない言葉にルディアは困惑した。要するにジーアンの蟲と似たような記憶の共有がアークを使って行えるということだろうか。だがコナーは開示、あるいは覗き見と表現した。であればそれは一方的なものなのだろう。
「……断るとどうなります?」
「私にとっても重大な秘密ですからね。話はここまでということになります。こうして実物をご覧いただき、あなたにも聖櫃を守る意思は芽生えたでしょうし、ひとまずそれで私には十分です。ま、あなたにはご満足いただけないかもしれませんが」
うっとルディアは返事に詰まる。「個人情報の悪用はいたしませんよ」と笑うコナーにほかの条件を出す気は更々なさそうだった。
アークの位置を知り得ただけではジーアンと渡り合うことはできない。もし駆け引きに失敗すれば彼らがここへ乗り込むことも考えられた。
もっと情報が必要だ。もっと手札に加えやすい情報が。
頭ではわかっていた。彼に頷くべきなのだと。──だが。
「敵か味方かわからない相手にそこまではできませんか?」
見透かした声に問われる。「あなたを尊重しているからこそ先にお聞きしたんですがねえ」と師は悪戯っぽく肩をすくめた。
「私がハイランバオスなら何も言わずにアークにべたべた触らせているところです。まあ無理強いはいたしません、お好きなようになさってください」
自分で決めろと選択権を委ねられ、ルディアは大いにたじろいだ。コナーが敵でも味方でも記憶を覗き見させるなど並大抵の覚悟ではできない。他人には知られたくないことだって抱えて生きてきたのだから。
「……私の記憶になんの用があるのです?」
「アークを守っていくために少しでも有益な情報が欲しいのですよ」
師は石柱を振り返り、「私はこれの奴隷なので」と自嘲する。世界のあちこちに目をやって気をつけてはいるものの、心配の種が尽きないのだと。
アークを守りたいというコナーの言に嘘はなさそうだった。師はまだほんの少ししか管理者としての顔を見せていないけれど、彼が己を表すのに奴隷などという言葉を用いるのは初めてだ。
(本当にやるのか?)
自問にルディアは息を飲んだ。
生きてきた記憶を見せる。とんでもない一大事だ。思考も行動も晒せば後でどうなるか知れない。普通に考えれば断固拒否の一択だった。──そう、普通に考えれば。
「どうなさいます?」
にこりと笑んで師が問うてくる。こちらの度量を試すように。
ルディアは悩むのをやめた。静かに佇むクリスタルを見ていると本能的に手を伸ばしたくなってくる。触れるのは悪いことでないように思えた。
それにコナーが敵か味方かもこの決断に影響する要素ではないのだ。ほかの誰も知らないことを彼だけは知っている。その知を得るのが第一で、不利益について考えるのは二の次だった。ジーアンという巨大な敵と戦うにはそうする以外ないのだから。
「──」
アークの硬い表面にそっと掌を押しつける。押しつけた箇所に集まった光が明滅する。
起きたことはたったそれだけ。だがそれだけですべて完了したらしい。
腕を下ろしたルディアに代わり、今度はコナーが石柱に触れた。そうして彼は満足そうに顔を上げた。
「……それではアークについてお話ししましょうか」
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来ないのではと危ぶんでいた男は朝、いつもときっかり同時刻にレーギア宮に現れた。いつも通りに女帝を囲み、いつも通りに談笑を交わし、いつも通りに昼過ぎに「今日はそろそろ」と立ち上がる。
普段にも増してユリシーズはそつがない。アルフレッドが口を挟むわずかな隙もないほどに。
それでも目の下のくまは目立った。昨夜一睡もしていないとありあり知れる彼を見ると心臓がちくりと痛む。どちらかしか選べぬものを選んだ以上、何もすることはできないが。
「ユリシーズ、詩の本があれば持ってきてね。特に技巧を書いた本よ!」
「ええ。明日は忘れず父の蔵書を漁ってまいります」
「ありがとう! 楽しみに待っているわ!」
鈍いアニークは騎士の変調に気づきもしないで別れを告げる。白いマントを翻し、歩み去っていくユリシーズの後ろ姿にアルフレッドは目を伏せた。
いつか思い出になるのだろうか。そんなこともあったなと。
ユリシーズのすべてを認めていたわけではない。彼のしてきたことの中には許しがたい行為もあった。
国王暗殺を謀ったこと。大鐘楼を破壊したこと。法廷で嘘をついたことも罪がないとは言えなかった。だがきっと、そんな男の親身な慰めだったから己の心は救われたのだ。
忘れたくない。たとえこれから縁は薄れていくにしても。
「アルフレッド」
と、ほとんど退室しかかっていたユリシーズが振り返る。ドアに手をかけたまま、意を決めた表情で。
「……夕刻の鐘が鳴ったら大鐘楼に来てほしい。話がある」
告げるだけ告げると白銀の騎士はすぐに寝所を出て行った。
こちらの返事を待たなかったのは急いでいたからではあるまい。なんとなく彼の胸中がわかる気がしてアルフレッドは息を飲んだ。
(ユリシーズ……)
「二人とも随分仲良くなったわよねえ」というアニークのずれた台詞が室内に響く。
日はまだ高く、暗い影はどこにも差していなかった。




