第4章 その2
──父親があんなクズだからねえ、今にあの子もクズになるよ。
未来を見てきたように告げる大人たちの言葉に怯え、戸惑っていた子供時代を思い出す。
同意のない婚姻など要求して「海への求婚」を穢したからウィルフレッド・ハートフィールドの名は街中に知れ渡っていて、長男のアルフレッドはいつも後ろ指を差された。
──信用ならない奴だから友達にしないほうがいい。
──親切なのはふりだけかもしれないぞ。
心無い声はどこにいても響いてくる。学校でも市場でも。
いくら「自分は父とは違う」と反論しても彼らは決して聞き入れなかった。信じてもらうためには人の何倍も実直で勤勉であらねばならなかった。
真っ当な人間だと思われたければ真っ当に振る舞うことが肝要だ。いつしかアルフレッドは堅物だとか石頭だとか真面目で融通が利かないと言われるようになっていた。それはクズよりはるかにましな評価だったのでアルフレッドは良しとした。
正しさは纏えば纏うほど頑丈な鎧になる。約束を守り、礼節を重んじ、常に公明正大であれば何を言われても動じずにいられた。
それでもどこかで引っかかってはいたのだろう。いつか父親と同じになるよというあの声が。
振り切りたかった。名誉ある騎士となり、ハートフィールドの名が持つ意味を変えたかった。騎士を目指した最初の自分は。
「……正しく正しく生きようとすると、間違えたときに脆いな。酒に頼るような真似、自分はしないと思っていたのに」
手にしたグラスを眺めて呟く。カウンターの隣席で話を聞いてくれていた男は痛ましそうに目を伏せた。
伯父のことや家族のことを話題に出すのは初めてではなかったが、ここまで己の内面を打ち明けたのは初めてだ。幼馴染やルディア以外にこんな話をする日が来るとは思わなかった。
「……そうか。随分苦労したのだな」
返されたユリシーズの声が優しく、我知らず微笑する。別の出会い方をしていれば、自分たちはいい友人でいられただろうか。
「俺は騎士に憧れて、騎士であることにこだわった。……結局それが自分の首を絞めたんだ」
アルフレッドの続けた台詞に白銀の騎士が首を傾げる。空気の変化を敏感に察してユリシーズはこちらの顔を覗き込んだ。
「あの人が俺にマルゴーへ行け、コリフォ島には来るんじゃないと言ったとき、俺はそれが姫様のためならと受け入れた。……でも本当は違ったんだ。あの人には見抜かれていた。俺がまだ、俺をずっと追い立ててきた名誉欲を手離せていなかったこと」
だから彼女は夢を追えと言ったのだ。ほかに大切なものがあるならと。
そうして自分は頷いた。聞こえのいい言い訳を得て、己の望みを優先した。
戻れるならあの日に戻って自分を殴り飛ばしてやりたい。実際に彼女と遠く隔たれてみれば即消え失せた栄誉への未練にどうして足を取られたのかと。
レイモンドが甲板を走り出したとき、自分も一緒に走れば良かった。どんな不格好でも走れば良かった。
あのときからずっと後ろめたかった。騎士ならば当然するべきだったことを自分はできなかったから。
「……だから当たり前なんだ、あの人がレイモンドに惹かれたのは。あの人が一番苦しかったとき、側にいたのは俺じゃなかった。それだけの話なんだ」
静かな懺悔が酒場に響く。認めてしまえばもうすんなりと口に出せた。
失恋の痛手より、つらかったのは己の誤り。その根底にあったもの。
差がついたと感じるたびに苦しかった。ほかならぬ己のせいで騎士らしさを損なったことが。
「名誉欲くらい誰にだってあるだろう」
眉をしかめたユリシーズにアルフレッドは首を振る。「大事なときに支えられなかったのは確かだ」と。
「だがあの女のほうがお前を遠ざけようとしたのだぞ!」
そう言って彼は聞こうとしなかったけれど。
「最後に選んだのは俺だ」
きっぱりと言い切った。誤魔化すことにもう意味はなかった。
自分の痛みは自分で引き受けねばならない。一人でも歩けるようになったのなら。
「ユリシーズ」
まっすぐに見つめ返して呼びかける。何度彼が「お前は悪くない」と庇ってくれたか思い出しながら。
胸に溜まっていた毒は酒で随分薄まった。他愛無いやり取りに胸の強張りはやわらいで、息をするのも楽になった。
正しくなかったかもしれない。だが自分にはこの場所が必要だった。それは間違いなく真実だ。
「今夜限りもう来ない。今までずっとありがとう」
向けた微笑にユリシーズが硬直する。
「……妹にでもばれたのか? 私と会っていることが?」
すぐさま返ってきた問いにアルフレッドは「いいや」と答えた。
「誰にも気づかれてもないよ。俺がそう決めただけだ」
掠れた声がなぜと聞く。引き留めたがる口ぶりで。
アルフレッドはできるだけ端的に告げた。ひと言ですべて伝わるように。
「──俺はあの人の騎士に戻る」
息を飲む音がした。
一瞬こちらに伸ばされた手が宙を泳いで引っ込められる。
ルディアに非があったのではない。そういう話をしたわけが彼にはただちに理解できたようだった。わだかまっていたものは流れ去っていったのだと。
「……そうか」
呟いたきりユリシーズは押し黙る。いつも猛烈な勢いで愚痴を吐く口が今は薄く開かれたまま文句の一つも紡げずにいた。急すぎるとかあんな女とか暴れ出しても何もおかしくなかったのに、じっと黙って、目を伏せて。
ここで会わなくなるということは敵に戻るということだ。今更どこまで彼をそんな風に思えるかは疑問だが、今まで通りに気安く接することはできまい。
アルフレッドは立ち上がった。立ち上がり、グラスに残っていた酒を一気に飲み干した。
「……もう行くよ」
暗いうちに帰るのは初めてだなと少し笑う。ユリシーズの反応はなかった。
「お前とここで過ごせて良かった。ユリシーズがいなかったら俺は今も一人で腐ったままだった。本当にありがとう」
空の酒杯をコトンとカウンターに置く。「勝手で悪い」と詫びながら。
本当に身勝手だ。頼るだけ頼って出ていくなど。
それでもやはり自分はルディアの騎士でありたい。ユスティティアは詩人になったが自分はきっとほかの何にもなれないから。騎士でなくなるということは、己を失くすのと同義だから。
扉を開けてアルフレッドは『ユスティティアのやけ酒』を後にした。
最後に見やったユリシーズは闇の中で拳を握りしめていた。
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夢も、酔いも、いつか醒める。
始まったことには終わりが来る。
わかりきっていたはずなのに、何を呆然としているのだろう?
ほんの少しのきっかけで終わってしまう関係だ。それは承知のはずだった。アルフレッドがここを去る日が来ることは。
(……いつの間に一緒にやっていける気になっていたんだ?)
ユリシーズは左手に収まったグラスをテーブルに戻した。続きを飲む気にはなれそうもなく、ワインボトルごとカウンター脇に押しやってしまう。
(いつの間にこれほど心を許していた?)
こちらがブルーノ・ブルータスの正体に気づいているとわかればルディアも警戒の種類を変えるだろう。その対応を考えねばならないのに、それが最優先事項なのに、今しがた失われたもののことしか頭は考えてくれなかった。
騎士に戻る。彼は言った。その声が深々と胸に突き刺さる。
(私が戻れなかったものにお前だけ戻るのか?)
嫉妬ではない。羨望でもない。全身を満たすのは哀切と孤独だった。
自分と同じ痛みに苦しむ者を、わかり合える仲間を見つけたと思ったのに、今になってまた己は安息を奪われなければならないのか。
(いやだ……)
悲鳴を上げる心臓を掻きむしる。元気になった。いいことだ。納得しようと繰り返すほど混乱は強まった。
(なぜなのだ? どうしてあの女を許せる?)
ユリシーズには何よりそれが信じがたい。どう考えても苦悩の元凶となったのはルディアの矛盾した命令だった。それなのにアルフレッドは自分で選んだと言い切る。憑き物の落ちた顔で、晴れやかに笑いさえして。
(己に非があると言いながら、どうしてまっすぐ立つことができる?)
切れ切れの息を飲み込み、ユリシーズは誰かのいた気配だけ残す隣席に目をやった。
真面目な男だ。敵に対しても誠実な。
側にいると落ち着いた。昔の自分に似ている気がした。まだ愛や人を信じていた頃の。
手酷く痛めつけられた彼が同じところに落ちてくるのを自分は待っていたのだろうか? 慰めの言葉をかけながら?
(違う。いたわりは本心だった。私のようにはならないでほしかった)
苦しんで苦しんで苦しんで、人の道を踏み外した男のようには。
「……ッ」
ダン、と拳をカウンターに叩きつける。望み通りアルフレッドは立ち直って明るい世界に帰ったのに、受け入れられない自分を受け入れられなかった。
願っていた結末が別にあったというのだろうか?
自分も彼と同じ道に戻りたかったと?
「──」
はたとユリシーズは瞠目する。身を貫いた雷にしばし思考も忘れて呆けた。
(……そうなのか?)
自問に答える声はない。まだそれは言葉にならない。
一度も考えたことがなかったから。痛みを振り払おうとして多くの罪に手を染めた。そんな己が真っ当ぶれるはずがないと思っていたから。
だがアルフレッドとて清廉潔白なわけではない。この数ヶ月の裏切り行為は彼を癒す一方で、騎士としての矜持をずたずたにしたはずだった。
それなのに彼は言う。まだ騎士でありたいと。
(……罪があっても戻れるのか? 心ばえさえ正しければ)
開いた両手が震えていた。ユリシーズはもう一度彼の言葉を思い返した。
──最後に選んだのは俺だ。
おそらく己も同じことを認めればいいのだと悟る。悲嘆に暮れてルディアに押しつけた責任を半分自分で引き取るだけだと。
知っていて目を背けてきた事実なら己にもあった。彼女が勝手に婚約破棄を決めたこと、何も話してくれなかったことを嘆きながら、ユリシーズはそれとまったく同じことをしてきたのだ。
言わなかったのは自分もだった。不安を隠して誤魔化したのは。結婚すれば解決すると問題を先送りにして一度も向き合わなかったのに、彼女だけを責め立てた。
そうだ。ずっとわかっていた。わかっていたから苦しかった。こんなことはもうやめたかった。執着を捨ててしまえばそれこそ何も残らないから終わりにできなかっただけで、やめられるならやめてしまいたかったのだ。
今ならきっと一人ではない。己を突き動かしてきたこの愛憎を手離しても。
「…………」
どれくらいそうして眠らず考えていたのだろう。気がつけば鎧戸の隙間から淡い光が差し込んでいた。
新しく生まれ直した太陽が朝を告げる。祝福の訪れを告げるように。




