第4章 その1
カラカラと乾いた音を立てて車輪が回る。石橋を渡り、関所を出てきた四輪馬車が合図のハンカチを翻したのを確認してチャドは手綱を握り直した。
「行くぞ」
同じく街門向かいの木陰に馬を停めていた男に呼びかける。グレッグは一連のチャドの行動に何やら物言いたげにしていたが、結局は不満の一つも告げることなくついてきた。
黒塗りの大きな箱の後に続く。四名のアクアレイア人を乗せた馬車は、ここから半日ほどかけてグロリアスの里に向かうという。里で一泊した後は徒歩で数時間の山腹にある小村を──コナーの隠れ家がある集落を目指すそうだ。
城を出たのは早朝だった。父と姉には「遠乗りしてきます」とだけ告げた。
護衛という名の監視さえあれば二人はチャドに何も言わない。代わりに権限らしき権限が与えられることもなかったが。
邪魔にならない範囲の自由を謳歌させてくれるのは罪滅ぼしのつもりだろう。そしておそらく清算が終われば己はまた彼らの駒に戻されるのだ。
(アウローラの件、ばれないようにしなくてはな)
コナーのもとで生き延びているという我が娘。存在を知れば父も姉も看過はするまい。とは言え今のアウローラはひと目で隣国の王女とわかる姿ではないそうだが。
チャドはちらりと目を上げて先行する馬車を見やった。直接娘に会うか否か尋ねられたのは昨夜のことだ。他言しないでくれるなら同行しても構わないがどうすると。
意外だった。ルディアにされるのは事後報告だけだとばかり思っていたから。
魂が蟲の形に結晶化する。そう説明を受けたとき、なんとなくいくらか嘘が混じっているなと気づいていた。どうしてアクアレイア人にだけそんな現象が起きるのかチャドには皆目見当もつかない。しかしそれが隣国の重大な秘密であるのは明らかだった。
だからルディアが秘密に近づかせてくれるとは考えもしなかったのだ。所詮マルゴー人でしかない自分に、父親の権利を行使させてくれるとは。
(なぜ私を除け者にしておかない?)
疑り深くなった頭が彼女を見透かそうとしているのに気づく。ルディアには政治的打算があるのかもしれないという疑念は拭いきれなかった。具体的にはどんな目論見か述べることもできないくせに。
(……彼はどう思っているのだろう)
こちらを見上げる白猫の目が甦り、チャドは小さくかぶりを振る。
実際にアウローラを産んだのは彼だが、彼は母親とは言えない。ルディアの代理で出産を果たしただけだ。乳母に似た愛情は持っているかもしれないが、王家の姫の親だという認識を持っているとは思えなかった。
(命令に従っていただけならば、そもそもアウローラがどうなろうと関心さえないかもしれない)
自虐的な笑みを漏らす。
夫婦のつもりで過ごしていたのが己だけだったこと、もう忘れようと決めたのに、たやすく胸を乱されて。
愛を告げるのはいつも自分のほうだった。彼はいつも曖昧に濁すだけだった。それでも受け入れてもらえていると感じていたのはこちらの気のせいだったのだろうか?
(馬鹿なことを。私が罪悪感と愛情の区別もつかなかっただけだ)
ずっと騙していてごめんなさいと床に額を擦りつけられたとき、もしもっと別の言葉が聞けていたら今と何か違っただろうか。
知らない人間に見えたのだ。彼の本当の名前を聞いて、今まで自分が自分の思い込みだけで妻を解釈してきた事実をまざまざと突きつけられて。
大怪我をしそうになって涙ながらに叱られたとき、彼はただ「主君の夫」を案じていただけだった。
娘の訃報に打ちひしがれ、抱きしめ合って眠った夜も、彼の頭にあったのはきっと自分と全然違うことだった。
二人で培ってきたものが一つ残らず意味を変えた。わからなくなっても仕方あるまい。自分が何を愛していたのか。
(どちらがアウローラを引き取るか決まったら、彼らとは会うこともなくなるだろうな)
ルディアが招いてくれたのはこれが最後と彼女も思ったからかもしれない。
前方の馬車は岐路に差しかかっていた。右手には断崖に沿う急勾配の古道があり、左手には長いつづら折りの始まりが見える。
馬車はルースが命を落とした古道のほうを選んで曲がった。渋面のグレッグに目配せだけして先に駆ける。
車輪は砂埃を上げてカラカラと回り続けた。
その先にある終わりに向けてカラカラと。
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分かれ道に立っている。その自覚は以前からあった。このままでは主君にも仲間にも見放される日が来ると。
それでもずるずる隠し事を続けた。現実と向かい合うよりは、真実について考えるよりは楽だったから。
今は違う。ユスティティアの嘆きを目の当たりにした今は。
──失いたくない。自分からはどうしても終わらせられなかったもの。得る資格などないとわかっても諦めきれなかったもの。
まだ手を伸ばすことができるなら。ひとかけらでも何か掴みとれるなら。
「アルフレッド! 見て! これ見て!」
いつになく興奮気味に女帝がこちらの腕を引く。顔を出したばかりのサロンに白銀の騎士の姿はなく、寝所は己とアニークの二人きりだった。
「どうなさったので? 何を見ればいいんです?」
目を輝かせて迫る彼女をアルフレッドはそっと押し戻す。こんな鼻先に身を寄せて、控えの間の衛兵に誤解されたらどうするのだと少し焦った。
「いいから早く見てちょうだい!」
こちらの懸念など気にもせずアニークは数枚の便箋を押しつけてくる。何が何やらわからぬまま受け取ったそれに目をやれば彼女の急かした理由が知れた。
「あっ」
アルフレッドは思わず小さく声を上げる。白い紙には見慣れたパディの筆跡があった。だがそこに書きとめられた短い詩は初めて目にするものだった。
『生きながら亡霊となった者は誰か──我がユスティティア
疲れきって荒れ野を歩む者は誰か──我がユスティティア
遠のいた光に手を伸ばす者は誰か──我がユスティティア
肉親の血を吸って育った木は誰が一家を殺したか歌うのをやめない
枝が折られても幹が朽ちても誰が泣いても歌うのをやめない
通りすがりの慈悲深き姫よ、誰があなたに憐憫を乞うた?』
怨念のこもった言葉にぞっと鳥肌が立つ。固まってしまったアルフレッドにアニークは「次、次」と身振りで紙を捲るように命じた。
言われるがまま二枚目に進む。すると今度は誰が書いたかわからない、流麗だが見覚えのない文字が趣の異なる詩を綴っていた。
『哀しみの中で 至高の生命の鼓動はなお途切れずに続いている
山を越え 海を越え 私の胸を打った騎士に
時を越えて伸ばすこの手が どうか届いて癒されますよう』
これは誰の作だろうか。まさかと思いつつアニークを見やる。女帝は「次! 最後! ついさっき届いたの!」とまたも紙を繰る仕草をした。
『新しき時代の姫よ、私の痛みは永遠に続くもの
古き時代の我が姫がこの世を永遠に去ってから
心臓が止まるまで血も止まらなくなったのです
けれどそれほど憩えと言うのなら憩いましょう
庇護者であるあなたに従うは私めの唯一の義務
詩句を並べている間はこの心もまだ穏やかです』
アルフレッドは目を瞠る。どうやら知らぬ間に彼女とパディは詩の交換などしていたらしい。
「これ、私が何か書いたらまた返事をくれるって意味よね!?」
問いかけには「ええ、おそらく」と頷いた。それからもう一度最初から読み直して言い添える。
「……そうですね、これはそうとしか受け取れませんね」
「っ……!」
アニークは満面の笑みでこちらを見やった。大きな瞳と紅潮した頬がほっと安堵に緩んでいる。
「良かった……! 私、あれから何度も手紙を書いたのよ。手紙っていうか、二枚目みたいな詩もどきだけど」
詩もどきという謙遜にアルフレッドは首を振った。
「いや、ちゃんと詩になっていますよ。と言うか、いい詩だと思います」
素直にそう称賛する。パディのものに比べると相当拙くはあるけれど、彼を思って書いたのだとストレートに伝わってくる。
「ほ、本当?」
「ええ、本当です」
愛好家の間でも騎士物語を題材に詩作する人間は稀だ。パディの文章が完成されすぎているから神経が図太くなければ一節も書けない。ましてそれを直接作者に差し出すとなれば技巧より魂の問題だった。詩にこめた思いの強さの。
「一応パディに送った詩は全部写しを取ってあるのだけど……」
変なことを書いていないか見てほしい、とアニークが頼んでくる。乞われるままアルフレッドは新たな数枚の便箋を開いた。
『まことの詩に、まことの心を送りたい
痛みに喘ぐあなたがまどろみもできぬ夜
その手を取って黎明まで側にいたい
かつてあなたの詩が与えてくれたもの
それが私に呼びかける 震えるあなたを温めよと』
『どうか覚えていてください あなたが人々に教えたこと
若々しい豪胆さ── それはユスティティアとグローリア
互いに信じ合う心── それはユスティティアとグローリア
愛のなせる長い忍耐── それはユスティティアとグローリア
あなたに教わった人々は 人生を励まされていると』
詩は二つ三つに留まらなかった。アニークは本当に何度もパディを慰めようと努力したらしかった。
先日パディに「あれを書いたのはお前たちか?」と尋ねられたのはおそらくこのことだったのだろう。初めのほうの詩には記名がされていなかったから。
「ど、どうだった? 下手なりに伝えられているかしら? パディに感謝していることとか、とても心配しているってこと」
アルフレッドは深く頷く。これほど飾らぬ詩であれば縺れた胸にも何かしら響かせることができたかもしれない。
「こういう発想はなかったです。とてもいい詩ばかりです」
対話ではなく創作物を通じてのやり取りだからパディは応じた。そんな気がした。普通に手紙を書くほうがずっと簡単だっただろうに、どうしてアニークは詩を選ぶことができたのだろう。
「あなたが貸してくれた本の中に詩の教本があったのよ、アルフレッド」
詩人同士で詩を交わし合うことがあると書いてあったと彼女は言った。これならパディが詩作を続けてくれるかもと思ったと。傷つき疲れてしまった彼も虚構の中でなら癒されるかもしれないと。
「私、もっと勉強するわ。詩のことも、パディが生きた時代のことも。ほんの少しでも彼が楽になれるように」
アニークの眼差しには騎士物語を生んだ者への惜しみない愛が溢れていた。
正直言って意外だった。いつも自分の楽しみを最優先に、自分のことばかり考えてきた彼女がそんな健気さを見せたのが。
「よーし! 私しばらくどう返事するか考えるわね! アルフレッドは本でも読んで待っていて!」
女帝はソファに腰かけると亜麻紙を広げてうんうん唸る。衝撃を隠しきれず、アルフレッドはしばしその場に立ち尽くした。
自分のことしか頭にないのは一体誰だったのだろう。自分のことは棚に上げ、いつも彼女を非難したのは。
──情けない。なんの成長もない自分が。いつまでも暗い酒場で不貞腐れるだけの自分が。
(このままじゃ駄目だ)
強く思う。このままでは主君や仲間を失うだけでは済まないと。
いい加減に前を向いて進まなければ。己の過ちと向き合わなければ。
(俺はユスティティアにはならない)
主君とともに歩めなかったあの騎士には。あんな哀しい存在には。
(俺はまだあの人の側にいたい……)
己を正す方法は知っていた。どうすれば再び騎士として立てるか。
居心地の良い場所で優しい他人に甘えているのはもう終わりにしなくては。いつまでも嵐に打ちひしがれているのは。
わかっていた。レイモンドに敵わなかった理由だって、本当は。
弱い自分がどうしても認めたがらなかっただけ。
それをもう、認めて前に進まなくては。




