第4章 その2
陽光を反射する海が眩しい。波は至って穏やかで昨日の惨事が嘘のようだ。正午開始のレースに合わせ、人もゴンドラも続々と国民広場に集いつつあった。予定は一日ずれ込んだものの大運河沿いの観客席も盛況である。
「聞いたか? イーグレット陛下がご出場なさるらしいぞ」
「聞いた聞いた。せっかく勝ち取った指輪だってのに、もったいないことするよなあ。俺なら金銀財宝を所望するぜ」
王の参戦は既に結構な噂になっていた。宮殿のすぐ横に設置された王室専用船着き場で「四人目」を待つルディアたちは注目の的だ。
競技にはアルフレッドとレイモンドのほかにルディアもエントリーしていた。もはや波の上に立つことを恐れている場合ではない。昨日は遅くまで櫂漕ぎの基礎を叩き込んでもらったし、今日はなんとか彼らの足を引っ張らないようにしなければ。
然るべき機関への通報も済ませ、事は概ね思惑通りに進んでいた。ルディアの感傷だけを別にして。
(……ユリシーズ……)
振り返り、後方の騎士を盗み見る。白鳥の紋章が入ったリリエンソール家のゴンドラは長い列の最後尾で揺れていた。王が参戦を表明した昨夜、彼も新規に登録したのだ。
この珍レースを面白がって追加申請を出した者は多数いる。だがユリシーズのそれは不自然と言わざるを得なかった。普段の彼なら国賓の護衛中にそんな遊びに興じるはずがないのだから。
しかも未明にはユリシーズの奇行が目撃されていた。ごく浅い王国湾と運河には船の座礁を防ぐため、水深を示す標木が打たれている。ユリシーズがその木杭を抜き、別の場所に刺し直していたというのだ。これは秘かに騎士を尾行させていた海軍中将ブラッドリーからの報告だった。
その場で尋問しなかったのはレガッタ終了まで泳がせようとイーグレットが指示したからだ。捕えるにしろもっと決定的な、殺意を明確にした瞬間でなくては意味がない、と。
持てる人脈、明かせる情報をフル活用して防衛隊は王国政府や海軍との協力体制を敷いていた。隠し事がなくなって吹っ切れたらしいアイリーンも密告者として力を貸してくれている。「ハイランバオスはグレディ家を傀儡にしようと目論んでいる」「ユリシーズも唆されて彼らの手先になってしまった」「大鐘楼の崩壊は彼らの仕組んだことだ」というのが彼女のタレ込み内容だ。
確たる証拠もない話を信じて動いてもらえたのはアルフレッドの功績だろう。真面目一徹の甥っ子が情報源だったからブラッドリーも部下を疑う気になったのだ。そんな裏舞台は露知らず、ユリシーズは馬脚を現してしまったわけだが。
(残念だよ。お前を見せしめにしなければならないとは)
いつでも切って捨てられる者に汚れ役を務めさせるのがグレースの定石だ。ユリシーズを捕らえてもグレディ家を追い込むのは不可能だとわかっていた。だがそれでも、王に反旗を翻そうとする者たちへの牽制にはなる。
(愛こそ至上と物語には書いてあるのに、当てにならんものだ)
楽しかった語らいの時間、ユリシーズの優しい微笑を記憶の底に封じ込める。自分さえ別れ方を間違えなければ彼を奈落に落とすことはなかった。それだけは忘れないでおこう。
「おっ、国王陛下のお出ましだぜ!」
レイモンドの声にルディアは顔を上げた。ちょうど宮殿の正門が開ききり、衛兵に伴われた父が颯爽とこちらへ歩いてくる。
珍しくイーグレットは軽装だった。冠も長いマントも身につけず、代わりにぱりっとした黒の軍服を着こなしている。ついぞ見覚えのない王の姿に観衆はおお、とどよめいた。
「腕まくりしちゃってらあ」
「てっきり乗るだけと思ってたのに、漕ぐ気満々じゃねえか」
「速いのかね?」
「まさか!」
レガッタの出場者たちはひそひそと囁き合う。無礼な声は王が防衛隊の舟に乗り込むとぴたりと止んだ。
「諸君、今日はよろしく頼む」
「はい!」
アルフレッドの返事に合わせて敬礼する。久々に間近に見た父の顔はいつもと変わらぬ朗らかな温もりを宿していた。
「失礼ですが、陛下。櫂の扱い方などは」
「大丈夫だ。心得はある」
イーグレットは誰に学んだとは言わなかった。露骨に不安そうなレイモンドの脛を蹴り、ルディアはきつく睨みを利かせる。
王はゴンドラの中央、ルディアの右斜め隣に招かれた。船頭はアルフレッド、船尾の漕ぎ手はレイモンドだ。王族二人は手慣れた庶民の指示に従おうという配置である。
イーグレットが合図を送るとトランペットのファンファーレが響き渡った。開会パレードというほど大仰なものではないが、ガレー船に導かれたゴンドラの群れが勇ましくスタート地点へ移動を始める。沿岸の群衆に手を振りながら防衛隊も彼らに続いた。
舟が岸を離れてすぐに「晴れて良かった。誘ってくれてありがとう」と父はにこやかに話しかけてきた。昨日ブラッドリーに頼み込んで隠密に謁見させてもらったときよりずっと明るく柔和な態度だ。
こんなときイーグレットが何を考えているか、ルディアはよく知っている。敵意を隠すのも偽りの恭順を示すのも上手い人だ。グレースの暗躍下ではそれが重要な処世術だった。
防衛隊は探りを入れられているのである。当然だろう。いくらアイリーンが隊員の実姉であっても突然ジーアンやハイランバオスの名を出せば疑われるに決まっている。だが父の半信半疑はそういうこととも少し違っているような気がした。
「話は昨日も聞かせてもらったが……、君たちに情報提供してくれたのはそのアイリーンという女性だけかね?」
聞き咎める者のない沖まで出るとイーグレットは静かに尋ねた。問いかけにピンと来る。遠回しに父が何を知りたがっているのか。
この人はこの人で何度も警告を受けているのだ。「グレディ家に気をつけろ」「ハイランバオスに気を許すな」「奴の護衛も不穏だぞ」と、昔使っていた暗号で。
「いいえ、もう一人。右眼に黄金を持つ男も」
ルディアの返答にイーグレットは瞠目し、ゆっくりと瞼を伏せた。漂う空気がまた少し変わったのがわかる。
「彼はこちらの味方です。今も群衆に紛れて陛下を見守っています」
「……そうだったか。ありがとう」
態度には出さず、しかし嬉しそうに父は頷いた。「誰も信じてはいけない」と繰り返し述べた孤独な王は。
元の姿に戻ったら聞いてみたい気がする。父の考える信頼とはなんなのか。だがおそらくルディアはその答えを知っていた。自分が何を間違えたのかも。
(信じることと愛することは、似て非なるものなのだな)
もう誰かに浅はかな理想を押しつける真似はすまい。騎士ならこうあるべきだとか、固定観念もやめにする。ただなすべきと思ったことを、なすべきときになすだけだ。そうすれば信頼など後から勝手についてくる。父を救いにあのロマが王都へ帰ってきたように。いつかそんな「たった一人」が私にも現れるといい――。




