第3章 その3
意外なほどすぐマルゴー公は謁見を許可してくれた。数日は待たされるものと構えていたのに、名前と用件を告げただけでサール宮の門が開かれて。
(密使とでも思われたか? 執務室に通されるとは)
ぐるりと目玉だけ動かしてルディアは室内を見回す。
天井にはパトリア神話の英雄画。タペストリーのかかった壁には太い蝋燭が何本も燃えている。足元には分厚い絨毯が敷かれており、石造りの城の冷気をやわらげていた。
部屋の中央には政務用の大きな机。その奥で指を組み、ビロード張りの椅子に座したティボルト・ドムス・ドゥクス・マルゴーが愛想よく微笑んだ。
「おお、よくぞ来てくれた。印刷商のレイモンド・オルブライト!」
噂は耳に入っておるぞと公爵はにこやかにレイモンドを見つめる。旅装束のケープを脱ぎ、凛々しく身を整え直した彼は「光栄です」と一礼した。
「実は今日は公爵にお願いがありまして……」
商売人らしくレイモンドはさっそく融資の相談を始める。騎士物語の作者と知り合った経緯や続編の刊行予定など、説明は快調になされた。
「ふむ、ふむ、東パトリアの女帝が遇する詩人とはやはり彼のことだったか」
ティボルトは興味深げに話に耳を傾けている。成否はどうあれ表向きの用事は片付きそうだなとルディアは小さく息をついた。
ここまで来れば適当な理由をつけてチャドに会えばいいだけだ。彼に目通りできさえすれば邪魔者は排除できる。こちらが何もしなくてもチャドのほうが防衛隊以外の人間を遠ざけようとするからだ。
元夫にはアウローラが生存している可能性を伝えてある。娘が今どうなっているか知りたければ彼は内密に会話できる場を設けねばならない。期待通りに動いてくれるはずだった。
ルディアはちらと隣のウァーリに目をやった。大女は水も漏らさぬ集中力でレイモンドと公爵のやり取りを注視している。
この商談がカモフラージュだとばれる心配はしていないが、振舞いには細心の注意を払わねばなるまい。本命がコナーだと悟られる事態になれば何もかも水の泡だ。
「ほほう、これが先日出版された続編の上巻か。いや、嬉しいね。わしも相当読み込んだのだよ。新章の追加された再編版なぞ毎日手離せなくってな」
やや上擦ったティボルトの声にルディアは視線を正面に戻す。見れば公爵は献上された本の一冊を手に取ってぱらぱら中身を確かめていた。
「続編はどんな内容なのだね? 君は物語がどう終わるのか、もちろん知っておるのだろう?」
騎士物語の読者にしては珍しく、ティボルトは先に結末を知りたがる。
「すみません。俺もラストは知らないんです。本当に完成したって言えるまで誰にも見せたくないって言われて」
そう首を振るレイモンドを公爵は妙に渋い顔で見つめた。
「なるほど、君でもまだ知らぬのか。……なるほど、なるほど」
何か変な雰囲気だ。ティボルトは続編の表紙を眺めて急に黙り込んでしまう。だがこちらにはその原因がさっぱり掴めない。
しばし沈思に浸ったのち、公爵は強張っていた口元を緩めた。続いて老人が告げたのは思いがけない言葉だった。
「なあ君、単なる融資ではなくて、騎士物語の出版権自体わしに買い取らせてくれんかね?」
意表を突かれたレイモンドが「へ!?」と声を裏返らせる。ルディアにも公爵の発言は欲を出しすぎに思えた。
「しゅ、出版権て騎士物語の印刷費用全額持つってことですか!?」
大焦りの質問にティボルトは「そうじゃ」と頷く。どころか「君にも儲けの算段があっただろう。印刷費の二十倍払おう」とまで言い出すので青年は更に焦った返事をしなければならなかった。
「いやいやいや、それは無理です! こっちも写字生との契約とか色々あって、権利を売り払うのはさすがに!」
迷いなく申し出を固辞した彼に公爵は唇をすぼめる。だがすんなり承諾してもらえるとはティボルトも考えていなかったようで、しつこく迫ってくることはなかった。ただ酷く残念そうに「まあそうだわのう」と嘆かれたけれど。
「え、ええと、マルゴー公……?」
「気にせんでくれ。言ってみただけじゃ。マルゴーにも活版印刷の風が吹けばと思ったまでのことよ」
あっさり前言を撤回すると公爵は深く椅子に座り直した。古狸と綽名されるほど抜け目ない男なのに今日の彼はどうも態度がちぐはぐだ。無理に作り笑いをしている。そんな感さえ窺える。違和感の理由は公自身が明かしてくれた。
「……かつてこのサール宮でも騎士物語の作者をもてなしたことがあってな。昔と変わらぬよしみを持てぬか考えてしまったんじゃ。アクアレイアに滞在中と知って以来、どうにかしてもう一度会いたいと思いは募る一方でのう」
最初にすんなり通してくれたのはそういう理由だったらしい。アルフレッドの予想通り、ティボルトとパディは旧知の仲であったのだ。
「アニーク陛下がお帰りになられたら、次はマルゴーで羽を伸ばすのもいいんじゃないかとお勧めしておきますよ」
レイモンドの台詞に公爵は「うむ、頼んだぞ」と頷く。便宜を図ってくれるならと思ったか、ティボルトは破顔して交渉の返答をよこした。
「融資の件は喜んで引き受けよう。『パトリア騎士物語』にほかならぬ我が国が金を惜しんではいい笑い者じゃからな」
「……! ありがとうございます!」
とんとん拍子で話が決まり、レイモンドも嬉しそうだ。明るい顔でこちらをちらちら振り返ってくる恋人にルディアも微笑を禁じ得なかった。
「代わりと言ってはなんなのじゃが……」
と、ティボルトが再度レイモンドに呼びかける。
「あの詩人に手紙を届けてくれんかの? 今すぐ帰る予定ではないじゃろ? サールを発つ前に宮殿に寄ってほしい」
それまでに一筆したためておくからと公爵は言った。断る理由があるはずもなく「はい! お安い御用です!」と快諾の声が響く。
「うむ、ではまた後日な」
これで表向きの用事はおしまいだ。恭しく辞去を告げるレイモンドに続き、ルディアもその場に立ち上がった。
「あ、そうだ。もう一つお願いがあるんでした。チャド王子が飼っておられた猫を連れてきてるんですけど、王子に直接お返ししても大丈夫です?」
出し抜けに追加された用件に公爵の眉がぴくりと跳ねた。レイモンドはさもついでのように言ったのに、やはり警戒を招いたらしい。「ほう? チャドにも会いたいと申すか」と冷徹な声が返ってくる。
レイモンドが防衛隊の一員であることは公爵も把握済みなのかもしれない。細められた双眸は明らかにルディアたちを疑っていた。アクアレイア人が王子に会って何を企んでいるのかと。
この流れは良くないなとルディアは後ろに置いていた編み籠を引き寄せた。中に白猫の入った蓋付きバスケットだ。レイモンドに目配せし「王子のお手元に届けられれば十分だろう」となるべく平静な声で言う。
「あ、いや、駄目なら会えなくていいんです! お元気かなって気になってただけなんで!」
ルディアの手から籠を受け取るとレイモンドはそれをそのままティボルトに差し出した。会わなくても問題ないと聞き、古狸に笑みが戻る。
「おお、そうか、アクアレイア人の君が息子を案じてくれておったとは嬉しい限り。良い、良い、あれも部屋で退屈しておろう。是非会ってやってくれ」
青年の手に猫が返されたのを見てルディアは内心拳を固めた。後はどうにかチャドにウァーリを追い払ってもらい、師の泊まる宿を訪ねればいいだけだ。
「はい! それじゃお言葉に甘えて、少しお邪魔させていただきます」
今度こそレイモンドは公爵の面前を辞した。執務室を出る際に侍従の一人が案内役として付けられる。
「ふうん、次は王子様に会うのね」
ぽそりと呟いたウァーリの目は鋭さを失わぬままだったが、疑惑を持つには至っていないように思われた。猫を返すとは事前に説明していたから不自然な行動だとは見なされなかったようである。
すべては順調に進んでいた。当初描いた道筋から大きく外れることもなく、至って順風満帆に。
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宮殿にアクアレイア人が来ているようだと耳打ちしたのはグレッグだった。それから間もなく衛兵がチャドの私室の扉を叩き、よく知った名を告げてきた。
「レイモンド・オルブライト殿、ブルーノ・ブルータス殿、ハンナ・ダン殿が殿下にお目にかかりたいそうです」
最後の一人が誰なのかはわからなかったが防衛隊の槍兵と本物のルディアが揃って訪ねてきたことの意味ならば理解できた。彼らと自分はまだ一つ接点を残しており、そのことでいつか連絡すると予告もされていたのだから。
(アウローラがどうなったか伝えにきてくれたのか?)
死んだと思っていた娘。愛しい乳飲み子の眠たげな顔を思い出し、チャドは衛兵に「通せ」と命じた。いささかの緊張と動揺を誤魔化しながら。
「あ、お久しぶりです。チャド王子」
入室してきた三名のうち、金髪の青年が最初に長身を折り曲げた。わざわざ手土産を用意してくれたのか、彼の腕には大きな編み籠が抱えられている。
「ご無沙汰しておりました」
隣を見ればルディアがぺこりとお辞儀した。相変わらず彼女の精神は逞しく、他国の宮殿にいるというのに少しも臆したところがない。
一礼だけしたハンナ・ダンとやらはやはり知らない人物だった。頑健そうな肉体も、厚化粧で覆われた顔も、一度見れば忘れるほうが難しそうだったので初めて会う淑女なのは間違いなさそうだ。
「ここで君たちに会えるとは思わなかった。一体またどうしてサールに?」
尋ねつつチャドはルディアたちに着席を勧める。部屋には四人掛けの円卓があり、それなりに座り心地の良い椅子が備えてあった。
「あ、俺たちはマルゴー公に印刷工房への融資をお願いに来たんすよ。それでまあ、王子にもお会いしとかなきゃなって」
「ああ、なるほど。騎士物語を発行しているのは君たちだったな。驚いたよ。まさかいきなり城に来るとは思わなかったから」
客人たちが各々腰を落ち着けるとチャドも余った座席にかける。控えていたグレッグに顎と視線で指示を送り、卓上のチェスボードを片付けさせた。
逆らいこそしないものの元傭兵団長の目は複雑そうだ。彼の盾を殺したのが防衛隊の少女であったことを考えれば致し方ないけれど。
「あれっ? グレッグのおっさん?」
と、お仕着せの軍服姿のグレッグに気づき、防衛隊の槍兵がぱちくりと瞬きした。傭兵団と交流の深かったレイモンドは「あんた宮仕えになったの?」と知人の鞍替えに仰天している。
「……そっちは随分ご立派になったみてえだな」
上等の服に身を包んだ客人にグレッグは半ば吐き捨てるように答えた。直情的に眉を歪めてそれ以上は口を閉ざした従臣に代わり、チャドがレイモンドに説明する。グレッグ傭兵団は解散し、今はほんの十数名がチャドの護衛として雇われているに過ぎないのだと。
「え、そうなんすか」
グレッグが公爵家からの裏の依頼を断ったこと、そのため傭兵団を維持するのが難しくなったことについては何も言わなかった。槍兵の後ろで黙ったまま話を聞いているルディアには多少なり察しがついたようだったが。
「うちは副団長のおかげでやれてたようなもんだからよ」
乾いた笑いにレイモンドが瞠目する。ルースがどうして死ぬことになったか思い出したらしい槍兵は言葉を失くして固まった。
常ならば明るい二人が黙り込むと部屋の空気が急激に重くなる。気まずさを散らすようにチャドは無理やり話題を変えた。
「そうだ、そちらのご婦人は? アクアレイアの方だろうか? レーギア宮にいた頃はお目にかからなかったように思うが」
柔和に笑んで大柄な美女を振り返る。視線を向けられたハンナは落ち着いた声で「申し遅れましたわ」と謝罪した。
「私、東パトリア帝国の商人でハンナ・ダンという者です。騎士物語に憧れてマルゴーまでついてこさせていただきましたの。どうぞお見知りおきを」
自己紹介から推測するに、彼女は印刷工房の上客といったところだろうか。防衛隊の同伴者だし、少しは彼らの事情にも通じているのかもしれない。
求められた握手に応じ、チャドは右手を差し出した。挨拶や世間話など別にいいから早く娘の安否を知りたいともどかしく感じつつ。
アウローラは平穏無事に暮らしているのか、五体満足でいるのか。聞きたいことは山ほどあった。本当に彼女の命が助かったのかも。
だがハンナの前で娘の名を出していいのかわからなかった。亡命に関与したグレッグのような立場ならともかく、彼女はただの賓客である可能性が高い。それにアクアレイア人でないなら秘密を守ってくれる保証もなかった。
思案ののち、チャドは「なるほど。騎士物語の始まりの地であるマルゴーをご覧になられにきたわけだ」と話を繋げた。
「であれば街より森のほうがそれらしい雰囲気を楽しめるのでは? これから狩りにでも行こうかと考えていたのだが、ご一緒にいかがだろう? もちろん防衛隊の諸君も」
ひとまず城は出たほうが良さそうだなと断じて皆を外に誘う。提案は正解であったらしく、ルディアが「光栄の至りです。お受けさせていただきます」と仰々しく礼をした。
「久々に王子の弓の腕前が見られるとは嬉しいですね」
やはりハンナは純然たる部外者であるのかもしれない。狩りの場なら彼女の相手はほかの者にさせ、ルディアとだけ密談する機会も作りやすいだろう。
よし、とチャドは立ち上がった。待機中の護衛にも支度させるべくグレッグに声をかける。──否、かけようとした。
「あ、その前に一ついいっすか? あの、王子に返したほうがいいのかなって連れてきてるやつがいるんですけど」
「え?」
槍兵が編み籠の蓋を開けたのはそのときだった。
ニャアと猫の声が響いたと同時、雷に打たれたように立ちすくむ。
「…………」
四角いバスケットから顔を覗かせていたのは透き通る青い瞳の、長毛の白猫だった。彼も来ていたなんて知らないから、すっかり虚をつかれてしまった。呼吸をするのも忘れるほどに。
「こいつも狩りのお供させてもらっていいすかね?」
問われてチャドはうろたえた。忘れようとしている相手を前にして、是とも否とも答えられない。
「あ、ああ、いいとも」
それでもなんとか声を絞り出したのはグレッグとハンナの目があったからだ。なぜそんなに動じているのか問われなどしたら、もっと動じることになるのは明らかだったから。
「……グレッグ、籠はお前が持ってくれるか?」
自分では彼に近づけず、傍らの男に命じた。可愛い猫なのに撫でないのかと不思議そうに見られたので「触ると時々咳が出ることがあるんだよ」と言い訳する。
「あら、痒くなったりもなさるんです?」
気の毒そうにハンナが言った。どこか観察するような目つきで。
「ああ、だが狩りに支障はないよ。鹿や山鳩は平気だからね」
そう言ってチャドは客人に離席を促した。
日頃からほかの慰めにほとんど手を出していないこともあり、狩猟の準備はすぐに整った。




