第3章 その2
ユリシーズ・リリエンソールは激しく苛立っていた。先日からどっと忙しくなったせいではない。堪える以外どうしようもない屈辱を頻繁に味わわされるせいである。
十八時の鐘により解散となったサロンを出て、宮殿中庭の柱廊を歩いていたユリシーズの隣にはいつものように赤髪の騎士の姿があった。最初はごくごく平穏な空気が流れていたのだ。だが今や朗らかな談笑は途切れ、甲冑の足音も止まってしまった。
原因は明らかだ。前方に見える影。偏屈なあの老いぼれ。彼がユリシーズの気分を台無しにさせてくれるのである。
「…………」
名高い詩人に敬意を表してユリシーズたちはすれ違わんとするパディに道を譲ろうとした。今日こそは変に絡まれる前にレーギア宮を出たかったのに運がない。もうこの男の面当てに付き合わされるのはこりごりなのに。
「権力者のご機嫌取りは楽しいか? 今も昔もお前たちは変わらんな」
一縷の望みを抱いてこのまま通りすぎてくれることを願ったが、無駄だったようである。腰は曲がり、杖なしには歩けもせず、ずっとうつむいているくせに詩人の眼は決してこちらを見逃さない。
「汚い蠅だ。いや、蠅以下だ。意地汚さをおべっかで隠さないだけ蠅のほうがまだ上等だ」
侮蔑的な物言いにたちまち心は乱された。パディはユリシーズたちの務めを承知のうえで堂々と吐き捨てる。
「忠誠心など持ち合わせてもいないのだろう? あったとしてもすぐに銀貨と交換だ。本物か偽物かにこだわらなければ名誉だって金で手に入るのだから! ああ、ああ、騎士というのは実に楽な商売だ!」
(こ、この陰険詩人……っ!)
唇を噛み、ユリシーズは拳を固めた。アニークのもとに通うのは確かに計算あってのことだが、こうも悪意に満ちた偏見で断罪されるのは不愉快だ。
女帝に対するものでなくても忠誠心なら持っている。国に仕える志なくては今の落ちぶれたアクアレイアで貴族など名乗れない。
(そっちこそ、印刷工房の人間を騙したも同然のくせに……! 本当に腐っているのは貴様の性根のほうではないのか!?)
が、言い返したところで何にもならないことはわかっていた。もはや騎士に対する憎しみを隠しもしないパディだが、彼はあくまでアニークの客、無礼を咎められる相手ではない。たとえ不正義の誹りを受けようと、杖で脛を打たれようと、こちらが引き下がるしかなかった。
「……お早く心痛が癒えるよう、心から祈っています」
よせばいいのにアルフレッドが一礼する。歩み出そうとしていた詩人は再びその場に立ち止まった。
「は! 私にまで小汚い尻尾を振るか!」
罵倒の声が示すのは拒絶と否定にほかならない。一度曲がった針金は元には戻らないのだろう。慰めは完全に無効だった。パディはアルフレッドの言葉の意図をかけらも理解しなかった。
「騎士というのはこれだから……、これだから……」
ぶつぶつと呟きながら老詩人が通りすぎる。推敲という仕事を手離した彼を部屋で大人しくさせるにはどうするべきかユリシーズは大真面目に思案した。
「……お前たち」
と、パディが歩みを止めてこちらを振り返る。険しい眉の下の目をこれ以上ないほど鋭くし、老詩人は乾ききった口を開いた。
「あれを書いたのはお前たちか?」
質問の意味がわからずにアルフレッドの顔を見る。何を聞かれているのだか彼にも心当たりがないようで、騎士は控えめに首を傾げた。
「違うならいい」
説明らしい説明もなく老詩人は歪に曲がった背中を向ける。通路の奥に影が消えるとユリシーズは眉間のしわを深くした。
「……わけがわからん。日増しに錯乱していないか?」
「いや、今日はましなほうだと思うが」
「あ、あれがましなほう?」
アルフレッドが「俺一人のときはもっと酷い」と漏らすのを鼻持ちならない気分で聞く。よく耐えられるなと素直に感心した。
騎士物語の発行を邪魔されたからか、パディは彼を目の敵にしているらしい。それもユリシーズには気に入らないことだった。アルフレッドは忠義がないと非難されるような騎士ではないのに。
「ユリシーズ」
苦笑混じりの呼びかけにハッとユリシーズは顔を上げる。むかつきが態度に出すぎていたようで温和な声に窘められた。
「あんな風に恨まなければやっていけないほど悲惨な境遇にあったことは確かなんだ。会うたびにこき下ろされるのは正直つらいが、気にしすぎないようにしよう」
「……お前がそう言うなら」
思うことは色々あったがぐっと喉奥に飲み込む。マルゴー公との確執に我々は無関係ではないかとか、言われっぱなしになるとわかっていて八つ当たりの標的にされたくないぞとか、反発はぐるぐる頭を巡っていたけれど、さすがに愛読者の前で作者を罵ることはできない。
ユリシーズは肩で大きく息をついた。目尻を尖らせ「今夜は飲むぞ」と隣の男に圧をかける。
「もちろん来るな? アルフレッド」
「わかった。夕飯が終わったらすぐ行くよ」
返答に概ね満足し、ユリシーズは柱廊を歩き出した。
信じる者に裏切られた騎士の末路があの狂人かと苦い思いを抱きながら。
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「だからなあ、アニーク陛下がもっと毅然とした態度を取ってくださればいい話なのだ! アルフレッド、お前だってそう思うだろう!?」
鼻息を荒げるユリシーズにアルフレッドは曖昧な笑みを浮かべる。素面では飲み込める不満も酔えば口から転がりやすくなるものらしい。そろそろボトル一本空けようかというユリシーズは先程から同じ文句しか言わなかった。
「うーん、まあ、アニーク陛下は俺以上に騎士物語に入れ込んでおられたからそれは難しそうだな……」
「だからと言って宮廷内であんな不遜を許すのか!?」
寵遇を笠に着て好き放題の客人にユリシーズは憤慨しきりだ。けれどそれもやむを得ないことに思えた。毎日ああして突っかかってこられては。
パディは時間を持て余しているのか近頃ずっと城内を徘徊している。以前は姿を見かけることも稀だったのに今は中庭でも通路でも頻繁に彼に出くわした。そうして痛烈な罵詈雑言を浴びせかけられるのだ。騎士が日向を歩くなとでも言わんばかりに。
「おそらくそれほど問題視されていないんだろう。衛兵や下働きの者たちには何も言わないそうだから」
変わり者だが扱いは楽と思われていると教えてやるとユリシーズが面食らう。整った顔の愕然ぶりは、こんな話題でなければまあ見ものだった。
「要するに嫌悪の対象は騎士のみで、城では私とお前の二人だけなのか……」
はあ、と溜め息がこだまする。何かしら諦めの境地に至ったようで、白銀の騎士は話題の切り口を転じた。
「マルゴー公はどう出ると思う?」
追加の酒を呷る彼の横でアルフレッドは考え込む。ユリシーズが聞いているのは何も知らずにサールへ向かったルディアやレイモンドのことだろう。仲間が無事に帰ってくるか、己もまた心配だった。
「一応何もしてこないとは思う。最終巻の内容がわかるまでは、公爵も自分は何も知りませんという顔でいるんじゃないかな」
サール宮で何度か会った好々爺を思い返す。亡命してきたアクアレイア王家を葬り去ろうとしたのは彼と公女ティルダだった。表面上友好的でも信用するのは難しい相手だ。ルディアたちもそれは承知で旅立ったわけだが。
「アクアレイアでは続編の印刷が進んでいることになっている。レイモンドをどうこうしても出版そのものは止まらないと悟ったら血生臭いことは避けるんじゃないか? やましいところがありますと言っているようなものだしな」
「ふむ、それもそうだ」
ユリシーズはルディアたちの安否よりアクアレイアとマルゴーの関係がどうなるかを気にしている風だった。サールでレイモンドに何かあれば民衆は騒ぐだろう。そうなれば小さな揉め事で収まらないのはアルフレッドの頭でも想像がついた。
「しかしパディがレーギア宮に留まる限り、マルゴー公から敵視を受けるのは避けられまいな」
最終巻の発行をするかしないかに関わらずそういう展開になってしまったと白銀の騎士がぼやく。今度はアルフレッドが頷く番だった。
パディと公爵の仲はもはや修復不可能だ。ユスティティアは一番の憧れに、一番手酷く裏切られたのだ。主君と仰いだグローリアとも引き離され、何十年も孤独の檻で。
アニークも老詩人に同情している。仮に公爵がパディを渡せと言ってきても彼女が手離さないだろう。
「……あれから何度か騎士物語を読み返したが、どんどんやりきれなくなるよ。彼は本物の詩人なんだな。込められた感情はどろどろなのに言葉はとても綺麗なんだ」
そんな呟きを落としたのは己も酔っていたからだろうか。
憎悪というのは愛を残しているときが最も激しく燃え上がるのかもしれない。トレランティアを語るユスティティアの台詞には尊敬の念が満ちていて、それもパディには真実だったと伝わるのが痛ましい。ほかの場面も悲しくあれども美しかった。特にユスティティアがグローリアに「いつか己の剣にあなたの名を賜りたかった」と明かす夜の一幕は。
グローリアは随分長く沈黙した。「それはもうサー・テネルにやったのよ」という返事を、どんな気持ちでパディは綴ったのだろう。
「無様な男だ」
ぽつりと隣で響いた声にアルフレッドは薄目を開く。こちらの感傷が彼にも及んでしまったのか、見ればユリシーズは重苦しく表情を歪めていた。
「己の痛みに振り回されて、報復だけに囚われている。進めば進むほど愛した女から遠ざかっているのは自覚しているだろうに」
白銀の騎士が誰を瞼に浮かべてそう言ったのかは知らない。酔った頭はそれを考えるより先にグローリアに思いを馳せた。
惨劇の中に突如放り出された王女。なぜか彼女がルディアと重なる。自分の父に手をかけた彼女と。
テネルがグローリアの愛を受ける第一の騎士となったこと。ユスティティアは衝撃を受けていたが、彼女にしてみれば当然の帰結だったのではなかろうか。
だってテネルはいつだって自分の気持ちを率直に伝え、側を離れなかったのだから。ユスティティアを失ったグローリアが嘆きの中にいるときも、体内に残った毒が彼女の健康を蝕んで山城に引きこもるしかなくなったときも。
(……姫様もレイモンドがいなければ一人でさすらうところだった)
無意識に拳を握り込んでいた。
これは自分の物語でもあるのかもしれない。唐突にそう感じる。
嫉妬も憎悪も普遍的な人間の感情だ。ユスティティアはどちらにも苛まれ、どちらからも逃げきることができなかった。そうして彼は騎士を呪った。
なら自分はどうなのだろう。滑り落ちかけているこの道に、踏みとどまっていられるだろうか。




