第2章 その3
翌朝アルフレッドが女帝のもとを訪ねると、アニークは別れたときより青い顔でソファに沈み込んでいた。
聞けそうなら先に彼女にジーアンがどういうつもりで約束を反故にしたのか聞いてみようと思ったのだが、見るからに無理そうな状態だ。
「すごい終わり方だったの……。一人じゃ受け止めきれないから、早く、早く読んで……」
アニークは夜遅くまでかかって騎士物語を読破した後、朝まで眠れなかったらしい。目の下のくまはなかなか酷いことになっていた。
女帝の向かいのソファには既にユリシーズが座しており、彼にしては珍しく真剣に一文一文に目を通している。虚構への関心が薄いこの騎士も最終巻にはさすがに心掴まれたようだ。
「読み終わった分貸してくれ」
「ああ、こっちの山だ」
写しは二つの束に分けられていた。一つはユリシーズが抱え込み、もう一つは裏返しでテーブルに置かれている。一体どんな終幕が待っているのだろう。唾を飲み、アルフレッドは整えた紙束を表に返した。
『暗い、狭い、塔の中。ユスティティアは幽閉された。
彼の身柄を引き取ったのは王の中の聖なる王。山国ではなく最も古き王国に騎士の称号を剥奪された青年はいた。
読者諸君! 私は何から説明しよう? ユスティティアが何者で、どうして命拾いしたか、誰にでも読み取れるように。
それにはまず彼の生い立ちを語らねばなるまい。ユスティティアはある国の三番目の王子だった。生まれた国は極貧で、次男や三男は王城で安穏と暮らすことが許されていなかった。
二番目の兄は騎士になり、古き王国で姫に仕えた。
ユスティティアも同じ国で聖歌を歌った。美しい言葉を用いて詩も書いた。聖なる王はその詩を大変お気に召した。
透き通った少年の声を失う頃、ユスティティアは騎士となった兄に会った。
兄は賢く、分別があり、忍耐強く、また忠義にも厚かった。ユスティティアは彼に憧れ、祈りより剣を選び取った。
己の母に、兄王に、兄騎士に、従妹姫らに毒を盛ったと濡れ衣を着せられ、なおユスティティアが助かったのは聖なる王の覚えめでたき詩童であったからである。
冷たい石に囲まれて、詩人は詩だけを求められた。思い出だけが彼の詩作を手助けした。
何年も、何十年も、己がどうしてここにいるのかわからないまま詩人は詩を書き綴った。そうして最後に騎士と姫の物語を生み出した──』
(な、なんだって? それじゃあ今までの話は全部、ユスティティアの過去の思い出話だったということか?)
アルフレッドは心臓をどきどきさせながら読み急ぐ。ほんの一行進んだだけで獄中の騎士は五十半ばまで年老いた。
「パトリア騎士物語」の第一巻があらゆる宮廷を席巻したのは十六年前のことである。以降七年かけて最初の物語は完結した。ユスティティアがパディ自身をモデルに作られた人物とすれば計算は合う。彼らはぴったり同年代だ。
(それにしてもサー・トレランティアがユスティティアの兄だったなんて意外だな。ここに至るまでそんな描写は一度もされていなかったのに)
ということは、トレランティアの仕えたプリンセス・フラギリスは古王国の姫だったわけか。彼女は随分な僻地に住んでいた気がするが。
(古王国も広いから、北パトリアに近い領地だったのかな)
そんなことを考えていたら文章にフラギリスの名が現れる。ユスティティア以上に老いた彼女は「裏切り者を賛美するのはおやめなさい」と吐き捨てた。
『哀れな男。何も知らねばこうも美しく世界を見つめられるのですね。あれはただ聖なる王を欺くために立派な騎士に見せかけていただけなのに。
あれは私を人間扱いしませんでした。悲鳴を上げる私の恋を指輪ごと埋めてしまいました。あなたのことも冷たい土に埋めようとしていたのですのよ? 自ら毒を呷ってまで!』
衝撃に目を瞠る。示された黒幕は己にとって最も思い入れ深い騎士だった。どんなに非難されようと主君のために忠義を尽くす、騎士の中の本物の騎士。
(ま、まさかサー・トレランティアが……!?)
そこから先は思考しながら読むなどという余裕は微塵も持てなかった。
フラギリスの手でユスティティアは塔を出され「真実をその目になさい」と山国に追い立てられた。
何十年も過ぎていたから何もかも変わっていた。プリンセス・グローリアは山城で床に臥せる日が多く、彼女の寝所は忠実なサー・テネルが守っていた。
後輩騎士の献身は本物だった。そのことにユスティティアは少なからず動揺した。二人がユスティティアの書いた物語を大切に読んでいて、彼を歓迎してくれたこともユスティティアを揺さぶった。
フラギリスの話では、山国のどこかにトレランティアがひた隠しにする銀山があるという。王位を狙い、彼が長兄を殺害したのはこの銀山を我が物にするためだったそうだ。
ユスティティアは探した。見つからないことを祈りながら探した。けれども祈りは神に届かなかったらしい。製鉄を生業とする村に辿り着いたとき、ここがそうだと気づいてしまった。気づいたその夜、宿に強盗が押し入った。物を盗むだけではなく身体も盗む人買いだ。
閉じ込められた納屋の扉を開いたのはサー・テネルだった。
「鉱山で一生を終えたくなければ、ここで起きたことは決して王に話さないでください」
固く約束をさせると彼はユスティティアを解放した。
ユスティティアはふらふらと山国の都へ向かう。国中の塩が集まる白い都だ。
王になったトレランティアは腕を広げて弟を迎え入れた。にこやかに微笑む彼に寡黙だった騎士時代の面影は残っていなかった。
トレランティアはユスティティアの帰郷を喜んだ。素晴らしい物語を書いて重い罪を許されたこと、とりわけ彼が兄こそ騎士の手本だと讃えてくれたそのことを。
「ですが兄上」
ユスティティアはしょげ返る。
「この国に銀山があるとお知りになれば、私の物語を読むよりもずっと兄上はお喜びになるのでは?」
トレランティアは「ほう」と目を丸くした。さも初めて耳にしたかのように「銀山などあるのかね?」と聞き返した。
その日ユスティティアは夕食を口にしなかった。散歩に出たとき連れ帰った犬に皿のものを食わせたら泡を吐いて倒れたからだ。
救い出してくれたのはまたしてもサー・テネルだった。彼はユスティティアを舟に乗せ、長い河の先にある北国へと送り出した。
殺したふりをしてくれたのだろう。追手は差し向けられなかった。見知らぬ街に落ち着く場所を見つけると、ユスティティアはまた物語を書き始めた。
詩は魂に染みついていた。悲しみも憎しみも癒されぬまま詩になった。
ユスティティアはただ書いた。
美しかった物語の続きを。
夢の終わりに相応しい悪夢を。
「…………」
最後の一枚を読み終えるまでに午前は消費し尽くしていた。ひと足先に終章に辿り着いていたユリシーズが未読のページを凄まじい勢いで繰っている。
考えがまとまらず、呆然とするアルフレッドにアニークは「どうだった?」と涙目で問う。女帝はトレランティアの豹変ぶりが信じられない、こんな彼は受け入れがたいと悲痛に嘆いた。
(どうだったもこうだったも……)
嫌な汗を掻いている。拒絶したがっている自分がいる。どうして綺麗な夢のまま、物語のまま、そっとしておいてくれなかったのかと。
「私、パディのところへ行ってくるわ。せめてちょっとでも救いのある解釈が聞きたいもの……!」
意を決した顔でアニークが席を立つ。引き留めたのはユリシーズだった。
「救いのある解釈は諦めたほうが賢明かもしれません。これはおそらく現実にあった話です」
やっぱり、と息を飲む。足を止めたアニークに白銀の騎士は続けた。
「今のマルゴー公に代替わりする際に、三人死んだと聞いたことがあります。国を治めていた長男と、母と、司教と……」
「えっ? ……えっ?」
遠く鐘の音が響いてくる。壁にかかった時計を見やり、ユリシーズは「もう行かなくては。申し訳ございません」と謝罪した。
「アルフレッド、任せたぞ。後でどうなったか聞かせてくれ」
「ああ、わかった」
足早に去る騎士の後ろ姿を見送る。
「ど、どういうこと……?」
へなへなとソファに座り込んだアニークにアルフレッドは「行きましょう」と呼びかけた。
「救いのある解釈は聞けないかもしれませんが、何を意図してこの続編を出版しようとしているのかは聞けるかもしれません」
ただでは済まない。こんな本を世に出せば。たとえパディが正しいにせよ、アクアレイアの印刷工房で刷ってやるわけにいかなかった。
再独立を目指すなら──否、そんな条件下になくとも隣国とは良好な関係を保たねばならないのだ。わざわざ喧嘩を売りにはいけない。
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衝立の奥に踏み込むと老詩人は笑っていた。──こんなものが現実に起きた話のはずがないだろう。そう言ってほしかったのに、パディは一切疑惑を否定しなかった。
書き物机に座したままアルフレッドと女帝を見上げ、老いた詩人は憑かれたような二つのぎょろ目を歪めている。
「実際にあったことだからどうしたと言うのです? 実際のことを紙に書いてはいけない決まりでもありますか?」
「……っ」
隣でアニークが絶句した。本当にこんな酷い目に遭ったのと、黒い瞳が同情と動揺に怯む。
「私はサー・トレランティアを愛しておりました。公国が独立に失敗した後、三つになったばかりで私は古王国の人質となりましたが、祖国を恨んだことは一度とてありませんでした。あの陰鬱な幽閉時代でさえもです!」
パディの声に次第に力がこもってくる。しわだらけの拳が空を叩くのを苦い思いで見つめることしかできなかった。初めから彼が真意を打ち明けてくれていれば味方になれたかもしれないのにと。
「それなのに兄にとって、私は捨て駒に過ぎなかった! 私が名誉を回復し、罪人が報復を受けることの何が間違っておりますか!?」
老詩人の自己弁護には庇いきれない矛盾があった。彼の主張は理解できるが彼のやり方は認められない。パディだって己のためにレイモンドを騙したのだ。持ち込んだ原稿は「物語」の続きであると偽って。
「……取り下げることはできませんか? これは、このまま印刷するには危険すぎます。アクアレイアも、あなた自身も」
聞かないだろうなとわかっていた。物語と心中する気でなかったら書くわけがない話である。
問いかけたアルフレッドにパディはふんと鼻息を荒げた。
「詩のほかに手に入れたものもない。破滅なんぞ恐れはせんさ」
返答があったのは当人のことだけである。アルフレッドは「アクアレイアについては?」と詰まり気味に問いを重ねた。
「この国とマルゴーは元々仲良くもなかったろう? こじれて困る人間がおるのかね」
瞬間、脳裏をよぎったのはサールへ向かった主君や幼馴染たちのことだった。
眉を寄せ、アルフレッドは低く声を絞り出す。
「……レイモンドとパーキンに出版を取りやめるよう話します。過去の事件の真相が暴露されているとわかったら二人とも考え直すはずです」
この発言にパディはなぜか大笑いした。人を馬鹿にした笑いだった。いや、人だけでなくこの世のすべてを。
「止められないよ。私の意思に関係なく、ユスティティアの物語は求められて世に出ていく。私にはわかる」
だってもう半分見せびらかした、と老人はしたり顔だった。
どんどん気分が悪くなる。室内に満ちた禍々しい気に当てられて。
「知ればいいのだ。騎士なんぞ世界で最も救いがたい、愚かで下等な連中だと……!」
──あ、とアルフレッドは瞠目した。同じ台詞を別の場所でも聞いたことを思い出して。
北パトリアの商都セイラリア。バスタードソードを探して入店した武器屋。
そうだ、あのとき会っている。腰の曲がった騎士嫌いの老人に。
「どんなご立派に見える騎士だって、腹の底では己のことしか考えちゃおらんのだ……!」
腕を引かれて振り向いた。涙を浮かべたアニークに「もういいわ。聞きたくない」と首を振られる。
アルフレッド以上に彼女は混乱していた。パディの口から騎士を貶す言葉が出るのに耐えられないと溢れた涙が語っていた。
「……わかりました、戻りましょう」
アルフレッドが頷くとアニークは老詩人に別辞を告げる。けれどパディにはそんなもの、もはや雑音でしかないようだった。
「騎士なんぞ……、騎士なんぞ……」
ぶつぶつと唱えられる呪いの詩句に唇を噛んで背を向ける。
パーキンに会いにいかねばならなかった。ルディアとレイモンドが戻るまで印刷は待てと止めるために。
******
パタンと手にした本を閉じる。『新編・パトリア騎士物語』と書かれた表紙に目をやってティボルト・ドムス・ドゥクス・マルゴーは沈思した。
執務机の片端に書を追いやるも懸案事項が消えてくれるわけではない。天井を見上げ、無人の執務室で息を吐く。
(アクアレイアに作者と思しき詩人が逗留している……か)
報告とともにもたらされたのは、詩によってまとめられた旧作と新章の追加された本だった。巻末の情報が確かなら、かの国ではそろそろ続編の第一巻が刊行された頃だろう。
殺し損ねたかもしれないとは思っていた。大人しくしていれば今更追う気もなかったのに。
(自分のしてきたことのつけは回ってくるものだな)
一体これから何を書き立てられるのやら。何も知らない、自分勝手な小僧の視点で。
豊かな領地を削られただけの戦争が終わったとき、ティボルトは六つの幼い子供だった。兄でさえようやく十になったばかり。その兄が、爵位を奪われた父に代わってマルゴー公の地位を継いだ。
反逆を阻止するために公爵家はばらばらにされた。サール宮に居残れたのは兄と母だけ。己と父は国内の古い山城に移されて、末の弟は人質として聖王のもとに引き渡された。宮廷には古王国から不遜な司教がやって来た。実質的にマルゴーを支配したのはこの男だった。
子供時代の記憶はすべて逆らえぬ厳しさをもってティボルトの胸に迫る。
いかなるときも父は恥辱を忘れなかった。「お前は必ず古王国からマルゴーを独立させて我々だけのものにしろ」と再三ティボルトに言い聞かせた。数年が経ち、兄と母が司教になびいたことを知ると、父はますますティボルトだけを真の後継者と見なすようになっていった。
銀山が見つかったのはその頃だ。埋蔵量の計算など待つまでもなく、公国の救世主となる恵みを持つことがわかった。
古王国に見つかっては大変だから疫病の噂を流し、道を封鎖し、近隣の村は製鉄業を営んでいると嘘をついた。父は罪人を鉱山で働かせた。それだけでは鉱夫が足りなかったので、山城には人買いが出入りするようになった。
疲れていたのだろうとは思う。父の悲嘆は理解できても、ともに背負うにはやはり重すぎるものだったから。
十五歳になった年、ティボルトは騎士としてパトリア古王国の王女に仕えることになった。成人した息子を放っておくほど聖王は慈悲深くなく、反逆国を快くも思っていなかった。
「いつか必ず戻ります。まずあの王に私を信用させましょう」
慰めのように父に言った。言ったからには実行せねばならなかった。
主人となったのは北の地に住む姫である。この姫は北パトリアの小国と勝手に仲良くやっていて、表面上は大人しいものの裏では聖王に反抗的だった。
敵国と通じているのは騎士が取り持ったからだなどと勘違いされたくない。ティボルトは姫の問題行動を報告し、己の点数を稼ぐほうを選んだ。
上手くすれば姫も姫の恋人も公国の味方に加えられたのに、そうしなかったティボルトに聖王は気を良くした。国が豊かというだけで王自身に特筆すべき才覚はない。若かった彼はこの一件ですっかり騙され、上機嫌にティボルトを城へ招いた。
弟の名前が出たのはそのときだ。耳心地良い言葉を編むのだと聖王は小さな詩人を褒め讃えた。
会わせてやろうと王宮内の聖堂に連れられたのは翌日。弟は兄や母とは違うのでは? 自分と一緒に父を支えてくれるのでは? 秘かに抱いていた願望はその日あっさり打ち砕かれた。
「陛下、新しい詩ができたところです。お聞きになってくださいますか?」
温室でぬくぬく育った人間だとひと目で知れた。この世のことではない物語に熱中し、ほかの一切を放り出しても生きていける、夢の世界の住人だと。
話せば話すほど虫唾が走った。それなのに弟のほうは自分に懐き、会うたび騎士への憧れを募らせていった。
聖王は実に弟に甘かった。人質として預かったことを忘れたのかと思うほど。弟が新しいインクや高価な詩集をねだるのをティボルトは臓腑の煮える思いで聞いた。公国のためになりそうな「お願い」は一つとして出なかった。
弟はやがてティボルトのもとで修業をしたいと言い出した。引き受けたのは彼を思ってのことではない。祖国の未来のためである。
ティボルトはいつか帰らねばならなかった。どうしても爵位を奪い返さねばならなかった。呪いのように「独立を、独立を」と繰り返して憤死した敗者の魂を慰めるために。
成人から六年後、ティボルトはサール宮の食堂にいた。悪運の強い弟は死罪にならずに生き延びたが、誰の企みかは気づかないままだった。
(今更あれがどう騒ごうと毒殺の証拠は残っておらん)
言いがかりだ、妄想だ、と撥ねつける図々しさなら持っている。けれど一つだけ憂慮していた。他国に銀山の存在を知られたらどうなるか。
強欲な聖王は権利を主張するだろう。東に迫る天帝も無視はするまい。
ふう、と重い息を吐く。
──これが他人の模倣作なら良かったのに。何度読み返してみても、夢見るような美しい詩は弟の紡いだ詩としか思えなかった。




