第2章 その2
──ああ、世界はなんて歓びに満ちているの! 溢れる光にアルタルーペの万年雪さえ溶けだしそうよ!
ユリシーズが遅れると聞いても帰らない、ちゃんと目と目を合わせてくれるアルフレッドを見ていたらそれだけでアニークの胸はいっぱいになる。
幸せだった。こんな幸せは久々だった。もう二度と普通に会話することすら叶わないと思っていたのに。
(言って良かった! 私だって『アニーク』なのよって言って本当に良かった……!)
感涙に溺れる己とは対照的に赤髪の騎士はまだどこかぎこちない。ちらりとこちらを窺うように「あの、大丈夫ですか?」などと尋ねてきたりする。
こくこくと頷いて、にこにこと頬を緩めた。アルフレッドさえいてくれたらほかに望むものはない。ずっとこのままでいられたら。
「……聞いておられませんでしたね? あれからあのご老人に謝罪はなさったのかどうか、お尋ねしているんですが……」
呆れ返った騎士の声にアニークはハッと正気を取り戻す。あたふたと両腕をばたつかせ、真っ白の頭を振った。
そうだった。ここ数日色々ありすぎてすっかり記憶から飛んでいたが、己はパディに先日の非礼を詫びねばならないのだった。
「ごっ、ご、ごめんなさい、ファンスウにこってり絞られていたものだから、私ったら忘れて……っ」
「いえ、いいんです。なんというか、まあ……そんなことだろうなとは思っていました」
失望どころか「あなたには何も期待していないので」という顔を向けられてアニークはひんと息を飲む。大焦りで「今すぐ! 今すぐ行ってくるわ!」とソファから立ち上がった。
「あっ……!?」
が、勢いがつきすぎてテーブルに膝を強打する。衝撃を受けた皿の焼き菓子は一斉に雪崩を起こした。あっあっと右往左往するうちにアルフレッドの頬がひくり引きつれる。それから間もなく脱力気味の声が響いた。
「……ウァーリに同行してもらう予定だったんですよね? 彼女とっくに船の上ですが……」
あっとアニークは足を止める。そうだった。それも頭から飛んでいた。謝るなら人当たりのいいウァーリに間に入ってもらおうと思っていたのに。
(ど、どうしよう)
半端にドアに向かう姿勢のまま固まってしまう。そのとき深い嘆息とともに背後で人の動く気配がした。
「俺がご一緒します。一応あの場に居合わせていたわけですから」
「ア、アルフレッド!?」
行きましょう、と騎士が言う。まさか彼がそんな優しい申し出をしてくれるとは思わず、アニークは涙で視界を滲ませた。
「あ、ありがとう、アルフレッド……」
「印刷工房の客人でもありますしね。感謝されることではないです」
「で、でも私、心強いわ」
「そうですか」
アルフレッドの態度はやはりまだどこか素っ気ない。けれど長い冬に耐えてきたアニークには十分かつ信じがたい進歩だった。
衛兵に客室を訪ねる旨を告げ、二人で通路を歩き出す。これから謝罪に赴くというのに不思議と気は重くなかった。
******
自分が自分であることを決定づけているものはなんだろう。アニークを見ているとよくわからなくなってくる。
記憶がなくても彼女は「アニーク」そっくりだ。けれどそっくりというだけで本人と断じていいかはわからなかった。まったくの他人同士でも似るときは似る。やはり二人は別人なのではなかろうか。
そんなことを考えていたら今度はまったく別の解釈が浮かび始める。彼女の核は「アニーク」に強く残った想いだろう? 脳の影響も少なくない。ならば彼女も「アニーク」だと言えるのではないか? 「自分自身に生まれ変わったアニーク」だと。
死を経ない記憶喪失だったならきっと別人とは思わない。だからこそ奇妙な気がした。何を失えばその人はその人でなくなるのだろう? 逆に何が残っていればその人はその人と言えるのだろう?
(前の『ルディア姫』を知っていたら、俺はどう感じていたのかな)
考えても詮無いことを考えているとわかっていた。だがどうしても考えるのを止められない。
(もし姫様が自分は『ルディア』と別人だと考えているとしたら……)
階段を上るとパディの客室はすぐそこだった。女帝に気づいた衛兵が姿勢を正し、指先まで力をこめて敬礼する。
(いつかあの人に『王女をやめる』という選択肢が生まれてしまうんじゃないだろうか)
王女の器が失われてからずっと胸を去らない不安。
開け放たれた扉の音が一時それを霧散させる。
「おや、これはこれは」
声とともに花模様の衝立の奥から老詩人が顔を出した。今日のパディはいつになく上機嫌なように見える。落ち窪んだ双眸も、厳めしい鼻も、張りつめておらず柔らかい。
「ご機嫌麗しゅう、アニーク陛下」
微笑で迎えられたアニークは緊張を緩めたようだった。「あの、私、この間のことを謝りたくて」とさっそく彼女は本題に入る。
「この間のこと? はて、何かございましたかな」
「ほら、私が物語について質問して、あなたに不愉快な思いをさせてしまったでしょう?」
ああ、とパディは頷いた。それからすぐに苦笑いで首を振る。
「あの程度、北パトリアにいた頃のパトロンとはしょっちゅうでした。むしろこの田舎詩人が陛下に粗相をしたようで、申し訳ございません。どうか哀れな老いぼれを寛大なお心でお許しください」
老詩人の返答にアニークは「そうなの? 怒っていないなら良かったわ」と安堵の息をついた。彼女の半歩後ろでアルフレッドも胸を撫で下ろす。大きな揉め事になるやもと案じていたのは思い過ごしだったようだ。
「しかしいいときにお越しくださいました。実は先程、印刷工房に騎士物語の原稿をすべて渡してきたところでして」
「えっ!?」
驚きに声が裏返る。同時に叫んでいたアニークが「すべてって? 今書けているところまで?」と矢継ぎ早に問いかけた。
「物語の最後までです。執念深く小さな綻びを繕ってまいりましたが、もはやそんな仕事には意味がないと思いましてな」
パディは杖を震わせて再び衝立の奥に引っ込む。戻ってきた彼の腕には写しと思しき紙束が抱えられていた。
「献上させていただきます。ですがその前にアニーク陛下には、一つ約束していただきたいのです」
ちらと覗いたアニークの横顔は眼前にした宝に早くも蕩けてしまっていた。
「これが待ち望んでいた完結編……!?」
尋ねた女帝は興奮しきって真っ赤に頬を染めている。今なら詩人に魂さえも売り渡しそうだ。
「わ、わかったわ。何を約束すればいいの?」
後にして思えば悪魔に魂を売ったのは彼のほうだったかもしれない。生涯をかけて綴ってきた長い詩を手に詩人は唇を歪めた。
「この宮殿が最も安全に世の中を静観できるのです。アニーク陛下、ですからどうか私の気が済むまでは、私をここに置いてくだされ」
くつくつとパディは笑う。ここではないどこかを見つめて。
アニークも、アルフレッドも、異様な空気にしばし声を失った。
この老詩人は何を見守ろうと言うのだろう? 尋ねたところで答えてくれる気もしなかったが。
「……え、ええと。もちろんこれからも大切なお客様としておもてなしさせていただくわ。素晴らしい物語の作者を、まだよそへやりたくはないもの」
女帝の返事にパディは満足したらしかった。間もなく写しがアニークの手に委ねられた。
******
その日ユリシーズがサロンを訪ねられたのは夕刻近くになってからだった。
寝所があまりに静かなので最初はまた騎士と女帝に何か問題が起こったのかと疑った。だが実際は二人ともページを繰るのに必死だっただけのようだ。
「ユ……、ユリシーズ……っ」
泣き出しそうな顔でアニークがこちらを見やる。アルフレッドと向かい合い紙束を覗き込んでいた彼女は「ユスティティアが、ユスティティアが……っ!」と喚くなり、ふらりとソファに倒れ込んだ。
「へ、陛下! 大丈夫ですか!?」
慌てて女帝のもとへ走る。「だ、大丈夫よ……。ちょっとショックが強すぎただけ……」とアニークは背もたれにすがって身を起こしたが青ざめた額からは完全に血の気が引いていた。
貴婦人を助け起こすこともせず赤髪の騎士は沈痛な面持ちでいる。彼は彼で「なぜユスティティアがこんな目に……」と打ちのめされた様子だった。
「とにかく座って、ユリシーズ。ちょっと気持ちを整理させて」
よろめきながら女帝が促す。ユリシーズが着席するとアニークは「パディが物語のおしまいまで原稿の写しをくれたの」と状況を説明してくれた。
「あらすじを話してもいい? それとも先に自分で読みたい?」
私たちもまだ途中なのだけど、と震え声の補足が入る。どうやら二人は物語の展開に激しく動揺しているらしい。ユリシーズは彼らほど熱狂的な読者ではない。「口頭で結構です」と答えると構えもせずに解説を待った。
「あのねえ、今ね、ユスティティアがプリンセス・グローリアを殺そうとした罪で捕まっちゃったのよ……!」
目尻に涙を溜め込んで語るアニークに「はあ」と温度差のある返事をする。なるほどそれはこの二人には衝撃的だったろう。己にとっては取るに足らない非現実だが。
「惨すぎるわ! 冤罪なのよ! ユスティティアは主君に毒を盛るような悪い騎士なんかじゃないのに……!」
わっと泣き出した女帝の横でアルフレッドも重々しく息をつく。
「陛下、時系列に沿って説明しませんか? 今のお話だけではおそらく惨さが半分も伝わっていません」
そう赤髪の騎士は続けた。
──曰く、ユスティティアとグローリアの旅は突然終わりを迎えたそうだ。以前から不仲だった南北の国家がついに戦争を始めたからである。駆け落ちに失敗した王子と姫のいる国だ。恋の道に生きられなかった哀れなプリンセス・フラギリスは「敵国と内通するおそれがある」として遠い地へ送られることになった。行き先は彼女に仕えるサー・トレランティアの故郷の山国。その旅路の供としてユスティティア一行が選ばれたそうである。
いや、選ばれたと言うよりは「どうせなら一緒に帰ろう」と誘われたと言うべきか。山国にはプリンセス・グローリアの城もある。続編になって加入した後輩騎士のサー・テネルもまたトレランティアの門下だったから同行は当然の流れだった。
とはいえ読者に気がかりがなかったわけではない。この頃既にサー・テネルとユスティティアの関係は危ういものになりつつあった。修業時代には親友と呼べるほど仲の良かった二人だが、間にプリンセス・グローリアを挟むようになってから彼らは恋敵に変わりつつあったのだ。
テネルは初め屈託なく善良な人物としてグローリアの前に現れた。明るい彼は二人旅の主従に大いに歓迎された。グローリアは分け隔てなく二人の騎士に接したが、騎士たちはそのうち自分のほうがより特別であることを願うようになっていった。
テネルはどうも騎士らしくない。従者としては逸脱しすぎた彼の行動を見るにつけ、ユスティティアは困惑した。後輩騎士は愛の歌を捧げることにおよそためらいがないのである。グローリアもグローリアで、面白い冗談ねえと笑うばかりで特に諫めもしなかった。
このままでは何かが起きる。おそらくあまり良くないことが。そんな予感を読者の胸に着々と育てつつ、一行は旅の始まりの山国に帰還した。
グローリアは生来の奔放さに加え、慈悲と威厳を併せ持つ姫になっていた。
ユスティティアは主君のために耐えがたきを耐えられる騎士になっていた。
不穏分子はテネルだけだった。サー・トレランティアは昔と変わらず騎士の鑑のような男で、打ちひしがれたプリンセス・フラギリスはなんの力も持っていなかった。
悲劇が起きたのは晩餐会。山国の王に招かれた身内だけのささやかな宴でのことである。
最初に倒れたのは王だった。次いで司教と王の母が。グローリアも無事ではなかった。トレランティアとテネルも椅子ごと倒れ伏した。
倒れなかったのはフラギリスとユスティティアの二人だけだ。遠国の王女は単に食欲不振だった。ユスティティアの皿には毒が盛られていなかった。
犯人探しがどういう形で行われたのか、牢獄に囚われていたユスティティアには知りようもない。誰にも会えず、弱りきって、グローリアの無事を一心に祈る一ヶ月が過ぎた朝、サー・トレランティアが面会に来た。
「王は死んだ」と彼が言う。王の母も、司教もと。そうして「お前がやったのだな?」と決めつけた。
トレランティアの目にはまだ彼の受けた毒が残っているようだった。有無を言わさず連れ出された裁判で、ユスティティアは「テネルとグローリアだけを殺すつもりが誤って全員の皿に毒物を混入させてしまった」とお粗末に過ぎる言いがかりを聞かされた。恋の苦悩を知っていた誰かが裁判官に「若気の至りだ」と囁いたらしかった。
死刑にならなかったのは回復したグローリアの嘆願があったからだそうだ。彼女だけはユスティティアの無罪を信じてくれていた。だがグローリアの訴えだけでは処刑日を遅らせる程度の役にしか立たなかった。
本当にユスティティアの命を救ったのは。彼にのみ与えられた祝福は──。
「……とまあ、今はここで止まっている」
アルフレッドの要約にまたもアニークが涙していた。鬼気迫る騎士の語りにユリシーズも引きずられて神妙になる。なんだ、今の臨場感は。
「酷いわ、酷いわ、絶対にテネルの陰謀よ!」
女帝は後輩騎士への不信を隠しもしない。その断定は早計ではと思ったが、架空の毒殺事件に対して余計な見解を述べる気にはならなかった。
と、ちょうど六時の鐘が鳴る。引き揚げなければならない時間だ。
「アニーク陛下、続きはまた明日にでもいたしましょう。これから少し忙しくなりそうで、私は午後には退散せねばなりませんが」
「うう、わかったわ。とりあえず私は今夜中に最後まで読みきるわね」
「無理はなさらないでください。すこぶる顔色がお悪いですから」
「このまま明日に持ち越すほうが身体に悪いでしょ! 続き続き……!」
再び紙束を捲りだしたアニークに「では今日は失礼させていただきます」と頭を下げる。女帝の横でアルフレッドも立ち上がり、名残惜しげに挨拶した。
多分この騎士も物語の行く末が気になって仕方ないのだろう。退室した後もちらちらと寝所を振り向くような仕草をしてみせる。知らん顔では捨て置けず、ユリシーズは嘆息まじりにアルフレッドに呼びかけた。
「……まだ語り足りないか? 良かったら飲みながら聞くぞ?」
こっちも話しておきたいことがあってなと付け加える。言い訳がましい誘いには数秒ののち返事がなされた。「わかった、後で行くよ」と。
ああ良かった。これでようやく女狐の愚行を弁明できそうだ。
******
我ながらなんて軽い男だろう。どうしようもなくて笑ってしまう。これ以上頻繁に会って飲む気はない──そう考えたのはつい今朝のことなのに、夜には酒場に腰を落ち着けているのだから。
(結局は俺がここを必要としているんだな)
当たり前と言えば当たり前の結論にアルフレッドはグラスの酒を飲み干した。口を離したタイミングで隣からワインボトルが回ってくる。受け取って逆さに返すが中身はほぼ空だった。名残の雫がほんの数滴だけ跳ねる。
「ああ、すまない。新しいのを持ってこよう」
カウンターに手をついて立ち上がったユリシーズはアルフレッドが騎士物語の展開予測をする間ずっと飲みっぱなしだったようだ。ふらついた彼の双眸は熱と眠気で潤んでいた。興味のない話を聞かせてしまったかなと反省する。
喋りすぎるのはなんでも聞いてくれるからだ。それにお互い他愛もない会話で濁していたほうが立場を気に病まなくていい。
「そう言えば、話しておきたいことがあるとか言っていなかったか?」
言外にそれ以上飲むと内容を忘れるのではと問いかける。ほんのり頬を赤くした男は気まずげにこちらを振り返った。
「……妹が迷惑をかけただろう。詫びておかねばと思ったんだ」
ああ、なんだ、と合点する。やはり療養院絡みの噂はあちらが発信源だったのか。
「防衛隊は彼女に嫌われているみたいだからな。まあ、なんとかやるよ。気にしないでくれ」
ユリシーズが命じたことでないとわかれば十分だ。政敵なのだし仕方ないとかぶりを振る。「それで済ませるわけにもいかん」と彼は受けつけなかったが。
「二、三、手持ちの情報をやる。重要機密というほどのものではないが何かの足しにはなるだろう」
ゴト、と新しい酒瓶を置いてユリシーズは席に戻った。断ろうかと逡巡し、やはりそのまま聞くことに決める。ルディアの役に立てるかもしれない。そう思ったら断れなくなっていた。
「コリフォ島にカーリス軍が居ついたらしい。アクアレイア船と見るや攻撃を仕掛けてくると報告があった」
「えっ」
驚きにアルフレッドは目を瞠る。
ユリシーズの言によれば、航行妨害が始まったのはここ最近の話だそうだ。力を取り戻したローガン・ショックリーがアクアレイアを封じ込めにかかっているのだろうと推測が続けられる。
「そうか……。カーリスにアレイア海の出入口を抑えられたままなのは厳しいな」
「ジーアンの要人を乗せているときは大人しいのだが、他国の旗がないときはまったく駄目だと。砲撃まで浴びせてくるらしい」
「それでも交易に出ている船はあるんだろう? どうしているんだ? よその商船団にでもくっつかせてもらっているのか?」
「ああ。出国手続きの際にそうしろと推奨はしている。海軍が守ってやれればいいんだが、そうそう自由に動けないからな」
そうか、とアルフレッドは小さく拳を握りしめた。ままならぬものだ。少しずつ経済復興の兆しが見え始めたところで。
「印刷業が盛況でも手にした外貨を使う前に船を沈められたんじゃ意味がない。コリフォ島はこのままにしておけないな」
「私もお前と同意見だ。だが今のところ打つ手がない。根本的な解決が可能になるまで回避策を取るしかなかろう」
注いだ酒をどれだけ飲んでもユリシーズは冷静だった。二人で雑談に興じていると彼が海軍提督であるのをつい忘れがちになるけれど、やはりユリシーズはアクアレイアの中枢を担う男なのだ。なんだかルディアと話しているような錯覚さえ起きてくる。
「もう一つ、ジーアンの動きも気になる。今更クルージャ砦の修復をさせたり、新しい砦の建造を命じたり……戦闘準備をしているとしか思えない」
「せ、戦闘準備?」
思わぬ発言にアルフレッドは目を剥いた。
驚いたのは帝国がどこぞに攻め入ることを考えているからではない。堂々と密約を破ってきたからだった。十将は確かに主君に約束したのに。経済的にも軍事的にもアクアレイアには何もしないと。
(姫様が旅に出たからか? 今なら文句は言われないと?)
これは自分が抗議に出向かねばならないのではなかろうか。アルフレッドはきつく眉間にしわを寄せる。
「もしかして、これから忙しくなると言っていたのはそれか?」
「ああ。工事の指揮を執らねばならない。クルージャ砦は修復完了間近だが」
完了間近。ということは、そちらはもっと早いうちから取りかかっていたのだろう。防衛隊に知られないようにこっそりと。
(くそ、舐められている)
ハイランバオスを売るふりをして交換条件を持ち出したこちらが言えた義理ではないが、彼らとて取り決めを守る気など最初からなかったのではないか。
それともこういうものなのだろうか。主君のしていた駆け引きは。
「……新しい砦って、どこにどんな砦を造るんだ?」
「小砦をアクアレイア湾内にいくつか。それと海門の守りも強化する」
ユリシーズは具体的な島の名前を挙げて説明してくれた。単純な造りだから工期はそれほどでもないが、数が多いので民間からも工人を募ると。
「不可解なのはなぜか表向きリリエンソール家の名前でやれと命じられているところだな」
「? どういうことだ?」
「私にもよくわからん。とりあえずジーアン主導でアクアレイアの軍事設備を増強していると思われるのがまずいらしい。砦は私が欲しがったことにしろと言われた」
「…………」
ユリシーズは「明日あたりまた臨時の委員会かな」とぼやいた。飲みすぎて掠れた声を聞きながらアルフレッドは考え込む。
抗議はしても無駄かもしれない。クルージャ砦の修復は「元々あったものを直しただけ」と言われるだろうし、新しく建造するという小砦群にしろ「海軍からの要望に応じてやっただけ」と開き直られて終わりだろう。一連の動きをルディアがどう見るかも不明である。祖国の防衛力が上がるならあえて彼女は止めようとしないかもしれない。
「私から話せるのはこれくらいだ。部隊の名を汚して悪かった」
「いや、それはもういいって」
ユリシーズは本当に気にしてくれていたようだった。責任を感じているのがひしひし伝わり、なんだか申し訳なくなる。情報の価値を思えば得をしたのはこちらなのに。それに彼が、本心からアルフレッドを尊重してくれているのがわかって妙に嬉しかった。
「あ、そうだ」
アルフレッドは手酌で葡萄酒を注ぎ足しながら白銀の騎士を見やった。先程クルージャ砦の名前が出たときに気にかかっていたことを思い出したのだ。
老いた肺病の歌うたい。彼と旅する女ロマたち。
「クルージャ砦にロマがいなかったか? 女の子と、おばさんと、お爺さんの三人組が」
モリスがジェレムに会わせてくれた日、彼らは岬の砦にいた。帰っていればまた近辺で暮らしているのではと思うのだが。
「……いや、ロマの話は聞いたことがないな。報告漏れかもしれない。部下にそれとなく尋ねておこう」
すまなさそうに首を振った後、ユリシーズはそう約束してくれた。
真面目な話はそこで終わり、酒の肴の談笑はまた毒にも薬にもならないものに変わっていく。朝になるまで帰る理由は見つけられなさそうだった。




