第2章 その1
焦がれていた。
焦がれ、憧れ、身を焼いていた。
跪き、彼女の前に捧げた剣。貴き乙女が膝をつき、花のかんばせを傾ける。
──隊長はあなたに任せます。
涼やかな声がそう告げたのを思い出す。心ばえ正しく、立派な騎士になってくださいと。最初に与えてくれた命を。
唇は三度剣に触れた。生まれ変わっても結んだ絆が切れぬように。
親子の血より、夫婦の愛より、主従の縁はなお強い。どちらかが裏切ることのない限り。想い清らかである限り。──だから自分は。
(どうしたらいい?)
自問は続く。永遠のごとく。
寝苦しい夜の夢の中で。真昼の醒めた思考の中で。
(どうしたらいい?)
同じ問いかけを繰り返す。深まる闇に、それでも一筋の光を求めて。
(姫様……)
焦がれていた。
焦がれ、憧れ、身を焼いていた。いつだって自分は。
──戻りたい。もう一度。
まっすぐに夢を語れたあの頃に。
******
遠く、遠く、船影が青く霞んでいく。主君らを乗せた帆船は税関岬を離れると波の向こうにたちまち姿を消してしまった。
これから長くて一ヶ月、少なくとも三週間は別々に過ごすことになる。再会は秋の中頃か。ともかくそれまであの二人とは顔を合わせずに済むわけだ。
束の間訪れた平穏にアルフレッドは息をついた。こんな気持ちでルディアを見送る日が来るなんて。自嘲に苦く眉を歪める。
「行っちゃったねー」
隣では背伸びした妹が船の去った方角に目を凝らしていた。その更に隣ではアイリーンが旅人の無事を願って五芒星を切っている。
「俺たちもそろそろ行こうか。また夕方にでも集まろう」
そう呼びかけるとアルフレッドは外国商船ばかりの港に背を向けた。水夫や荷運び人たちの間を縫って歩き出せば今日も今日とて墓島に出勤予定のモモとアイリーンも後に続く。患者たちの語学指導を任された彼女らは女帝の相手を務めるだけの己よりもよほど多忙になりそうだった。
「あ、そうだアル兄。皆が帰ってくるまではモモが店に泊まるから、アル兄は家でゆっくり寝てていいよー」
と、妹がこちらの袖を引いて言う。珍しいこともあるもので、主君不在時の夜番はすべてモモが担当してくれるとの話だった。
「いいのか? まあアイリーンも俺と二人きりになるより休みやすいか」
答えつつアルフレッドはほっと胸を撫で下ろす。ほかに誰もいないのに一つ屋根の下で女性と過ごすのは気が引けるなと考えていたところだった。それに夜に時間が空くのは己にとっても都合がいい。
(いや、別に、これ以上頻繁に会って飲む気はないが……)
誰にともなく言い訳し、一人小さくかぶりを振る。弁明のしきれていなさに嘆息を押し殺した。
いつの間にか彼といるのがすっかり日常になっている。打ち解けすぎるのは危険だと頭ではわかっているのに。
「気を悪くしないでね、アルフレッド君。私は誰と二人でも少しも構わないのだけど、モモちゃんがしばらく家に帰りたくないらしくって」
「えっ?」
アイリーンの発言を受けて妹に目をやるとモモは「もう、そんなのアル兄に教えなくていいよぉ」と丸く頬を膨らませた。
「帰りたくないって、何かあったのか?」
聞いた以上は捨て置けず、妹に問いかける。昨夜は己もモモも在宅していたが、普段とさして変わった様子はなかったように思うけれど。
「あー、もう、たいしたことじゃないの! ちょっとママと喧嘩しただけ!」
「母さんと?」
原因はなんだと問えばモモはしばし黙り込んだ。だがこちらが母にも事情を尋ねる可能性を考慮してか、重々しい溜め息とともに口論の内容を打ち明けてくる。
「前ほどお給料貰えてないし、もう姫様もいないんだから次の職探したらって言われてさあ。ほら、レイモンドが印刷業で儲かってるでしょ? ママ的には防衛隊にこだわらなくてもいいんじゃないのって思ってるっぽくて」
「ああ、なるほど。そういう話か」
頷きながら自分も伯父に似たようなことを諭されたなと思い出す。好戦的なモモのことだ。さぞかし派手に母の言に噛みついたに違いない。
「でも今まで通り家にもお金入れてるのに、モモがどんな仕事選ぶかはママに関係なくない!? 確かに先行きは不安だよ? けどさあ、アル兄には辞めたらなんて言わないくせに、なんでモモにだけ言ってくるわけ!?」
なるほどと今度こそ深く納得する。妹が怒っているのは間違いなく「己だけ現実を見ろと言われたから」だろう。いかにもモモの嫌がりそうな不公平だ。長年の夢なのだから兄には好きにさせてやれ、なんて理由で一方的に不利益を被るのは。
申し訳ない気がしたが、謝るのも違う気がして「わかった」とだけ頷いた。モモのほうも怒鳴るのをやめ、はあと小さく肩をすくめる。
「……ま、そういうわけだから。マルゴー組が戻ってきたら家帰るし、心配はしなくていいよ。いい機会だしアル兄も息抜きしたら?」
一瞬背中に触れた手が思いのほか優しくて苦笑した。息抜きならやりすぎなくらいやっている。事実を知ったらモモはなんと言うだろう。
「あ! すみませーん!」
ちょうどそのとき渡しのゴンドラが大運河を下ってきて、対岸の国民広場に戻るためにアイリーンが手を上げて呼び止めた。
「へい、毎度!」
赤の他人に聞かせる会話でもなかったので小舟に乗り込んだその後は自然と皆だんまりになる。静かな波に揺られつつアルフレッドは目を伏せた。
(防衛隊以外の仕事、か)
ルディアたちのいない間に、いい加減、もう少し冷静にならなくては。今更ほかの生き方を選べるほど自分は器用ではないのだから。
******
風を受け、波の上を滑るように船は進む。沖へ出れば速度はいや増し、足元の揺れも増大した。
帆船のいいところは船室が快適なところだな、とルディアはひとりごちる。
見回した部屋は広く、備え付けテーブルも布ハンモックも十分なスペースを取って用意されていた。ニンフィまでは半日ほどで到着するので不要と言えば不要な設備だが、今回はあって良かったようだ。寝床の一つは既に女装の──否、旅装の大女が埋めていた。
「ウァーリさん、平気すか? 馬みたいな揺れるもんに慣れてても船酔いって別なんすねえ」
「ううううう……、ちょっとあたし、本格的に駄目みたい……」
「吐いちゃっていいっすよ。俺ここで桶持ってるんで」
「うう、汚いけどごめんなさいねえ……っ」
青ざめきったウァーリがハンモックからよろよろと身を乗り出す。窓に寄る余力もない彼女はレイモンドの構えた平桶に胃の中身をぶちまけた。
「うぅええぇええ」
形容を控えたくなる吐瀉音だ。そっと目を逸らしつつ、朝食は抜いてこいと伝えておくべきだったなと反省する。
テーブルで読みかけの本を広げる己と違い、レイモンドは小綺麗なハンカチを差し出したり、輪切りのレモンを差し出したり、甲斐甲斐しく客人の世話を焼いていた。
ああして懐に入るのは染みついた彼の性分だし、とやかく言うつもりはない。つもりはないが、婚約者がほかの女にかまけている図はあまり面白いものでもなかった。なるべく二人を見ないようにルディアは読書に集中する。
「あら、いいわねえ。こういうときにかじるレモンって口の中がさっぱりして美味しいわ」
「いっぱいあるんで好きなだけ食べてくれていいっすよ。良かったらもう一枚切りましょうか?」
「やだもう、弱ってるときにあんまり優しくしないでくれるー!? お姉さん、そういうのハートに来るタイプだからあ」
一番高い波は越えたかキャッキャと楽しげな声が響く。思わず眉間にしわが寄った。と同時、宥めるように間近でウニャアと猫が鳴く。
視線を落とせば椅子の下からブルーノが猫の首を伸ばしていた。気遣わしげな青い双眸に息をつき、小さな頭をくしゃりと撫でる。言外に「そこまで気にしていないから大丈夫だ」と伝えるように。
レイモンドがウァーリに対して親切なのはどう見ても損得勘定の結果である。この程度の煩悶なら船を降りて半時もすれば綺麗に忘れてしまうだろう。最初から問題にすることではない。
(それよりも今気になるのは……)
旅立ってきた港の風景を思い出し、ルディアはふうと嘆息した。
見送りにきたアルフレッドは普段通りの彼だったのに、やはり今までと何か違う気がしてならない。同行を願い出なかったのは人質のほうが危険だと判断してのこととは思うが、赤い瞳のあの暗さは。
(まあ、あいつにも色々あるよな……)
考えすぎを防ぐべくルディアは本に目をやった。
紙の上に紡がれた世界では騎士と王女が相も変わらず大騒ぎの旅をしている。
******
藪から棒に告げられた「海軍を招集せよ」との命令にユリシーズは瞬きした。一体何を始める気だとラオタオを見上げれば狐男は幕屋の長椅子に身を投げたまま大仰に肩をすくめる。
「詳しい話は龍爺……あー、ファンスウ将軍から聞いてもらえる? ゆりぴー呼んだの俺じゃなくてそっちだからさあ」
視線に応えてラオタオは顎先を隣へ向けた。正面に目を戻すと鼻の下に細い髭を蓄えた老将が筒状に丸めた紙を放ってくる。
「見よ」
命じられるまま開いてみればそれはアクアレイア一帯の地図だった。本島やアクアレイア湾だけでなくグラキーレ島やクルージャ岬、アレイア海や古王国の一部まで詳細に記載されている。
「海軍提督の率直な意見が聞きたい。湾上に小砦を築くならどこかね?」
そう言ってファンスウは白樺の乗馬鞭を地図に向けた。鞭の先には何箇所か赤色でつけられた印があり、そこが候補地なのだと知れる。
「湾上に小砦、ですか」
質問の意図が理解できずにユリシーズは答えあぐねた。
いずれ彼らが侵攻を再開するつもりなのはわかる。だがいかに海に不慣れな遊牧民でもジーアン人がアクアレイア人に問うのが解せない。アクアレイアはジーアンにとってまだ反逆の可能性が大いに残る土地だろう。王国再独立派が西パトリアのいずれかの国と結びつきたがっていること、ラオタオが勘付いていないとは思えない。
ああ、とユリシーズは頭の中で拳を打つ。そうか、再独立派と自由都市派が存在するのを知っているなら己が問われたのも納得だ。無用な戦禍を避けたい自由都市派の人間なら西パトリアの介入を妨げるに相応しい防衛ラインを選ぶと読まれているのである。
「……海門の防備を強化するほかは、ここ、ここ、それからこの一帯ですね。潟湖に流れ込む川からの侵入者を阻止できます」
ユリシーズは地図上のいくつかのポイントを指さした。守りが堅固になればなるほど再独立派の意気はくじける。王国史を利用して周辺諸国に呼びかけることにも慎重になるはずだ。
「湾内であれば物見塔だけの砦でも十分効力を発揮するかと」
ふむふむとファンスウはユリシーズの言に耳を傾けた。「ではクルージャ砦の補修と並行して建設作業に当たってくれ。完成は一年以内。金は我々が出す」と新たに申しつけられる。
どうやら本当にアクアレイアの防衛強化を進めてもいいらしい。ユリシーズは思わず唾を飲み込んだ。彼らとて親切心でやっているのではないだろうが、戦力の維持さえままならぬ現状で軍事費用を出してくれるのは願ったりとしか言いようがない。
「あの、ただ一つ問題が」
「何かね?」
「工期に対し、とても手が足りません。予備兵や民間人を使うにしても日当を出してやらないと」
正直に訴えると古龍が若狐に目配せした。「はいはいはい、俺が懐を痛めればいいんでしょ」とラオタオが投げやりに両手を上げる。
「でもさあゆりぴー、金出してやる代わりと言っちゃなんだけど、新しく作る砦はゆりぴーがおねだりしたってことにしてくれる?」
と、付け足された不可解な指示にユリシーズは眉をしかめた。一体どういう意味だろう。こちらがねだったことにしろとは。
「はあ、どうしてまた?」
よほどおかしな顔をしていたのか、狐にくすくす笑われる。「ちょっとねー、お願いされたって形にしないとややこしくなる相手がいてねー」と続けた彼をファンスウがぎろりと睨んだ。
「お喋りが過ぎるぞ、狐っ子」
「はーい。ここらで大人しくしまーす」
よくわからないがジーアンにはジーアンの都合があるらしい。詳しく聞ける立場でもないのでユリシーズは「わかりました」とだけ返事した。
「では今日はサロンのほうへは遅れると連絡してすぐに軍港に向かいます」
立ち上がり、丸めた地図をファンスウに返却する。一礼するとユリシーズは帝国の重鎮が籠る幕屋を後にした。中庭を突っ切り、柱廊を歩く。適当な下男を捕まえると女帝の部屋への伝言を託した。
それにしても妙なタイミングでの着工だ。防衛拠点を増やす予定は前々からあったろうに、今の今まで手をつけなかったのはなぜだろう。クルージャ砦ともう一、二箇所くらいなら海軍だけでも回せなくなかったものを。
(まるで今なら誰かの目を誤魔化せるといった風だな)
ユリシーズは十将とルディアの間に交わされた「軍事的にも経済的にも今後アクアレイアには何もしない」という取り決めを知らない。仮に知っていたとしてもジーアン側の違反行為を非難はしなかっただろうが。
新たな任務を受けたユリシーズの頭にあったのは「これで帝国自由都市派が一歩リードできるな」ということ、そして「再独立派のアルフレッドになんと説明すれば心象を悪くせず済むだろうか」ということだけだった。




