第1章 その3
「……ふうん、それでサールまで行って帰ってくる許可が欲しいってわけね」
あらかたの説明を聞き終えてウァーリは長椅子に足を組み直した。
騎士と王女が連れ立って現れたのは今朝のこと。急に古龍の側付きが呼びにきたから何事かと思ったら、ここの豪胆な姫君が幕屋に腰を下ろしていたのだ。
ファンスウもラオタオもダレエンもそれぞれにルディアたちを注視している。ウェイシャンだけは隅っこで聖預言者らしく背筋を伸ばす努力をしていたが、見ている者は誰もいなかった。火のない小さなかまどを挟んで二対四、空気は静かに張りつめている。
「…………」
肘掛に寄りかかったラオタオが「どうすんの」という目でこちらを見上げた。防衛隊の処遇は自分とダレエンに任されている。認めるか認めないか決めろと言っているのだろう。
己としてはあまり彼らを外に出したくはなかった。だが動きがなさすぎてもハイランバオスを釣り上げられないという若狐の見解も頭の隅には残っている。どうするのが正解なのか悩ましい。突っ立っているダレエンに聞けば感覚だけで「いいんじゃないか?」と言い出しそうだし、ここは自分が決断しなければならなさそうだ。
(行かせるにしてもそのまま行かせられないわよねえ)
ちら、と隣に腰かけたファンスウを見やる。古龍の双眸は一番深く防衛隊を疑っていた。彼らの説明には一つもあやふやな点がなく、そこが却って怪しいと感じているに違いない。ウァーリも同じだ。十中八九ルディアたちには裏の目的があると見ていた。
が、いかんせん難しいのは防衛隊の向かう先がマルゴーというところである。国外ではこちらも打つ手が限られた。
当然だが大っぴらには兵を動かせない。一見してジーアン人とわかる蟲兵を同行者に据えるのも変だろう。自分かダレエンか偵察向きの動物か、監視役になれるとしてそのくらいだ。
仮に彼らがハイランバオスと接触を図ったとして今回は捕らえられないかもしれなかった。ならば最初から尻尾だけを掴むつもりで動いたほうが上策ではなかろうか。人質のほかにも仲間を残していく以上、ルディアたちとて取れる行動には制約がかかるはずである。第一これがハイランバオス絡みの動向とも限らない。防衛隊の狙いが一体なんなのか、まずはそこを見定めねば。
「……わかったわ。その代わり、あたしも連れていってもらうわよ。さすがにこっちの目の届かない場所で自由にはさせられないから」
この返答は予測の範囲内だったのだろう。ルディアは「ああ、余計な手間をかけさせてすまない」と涼しい顔で詫びてきた。
「ついていくのか? 俺も一緒か?」
そう尋ねてくるダレエンにウァーリは「いいえ、今回はあたしだけ」と首を振る。
「そっちはアルフレッド君たちをしっかり見ててちょうだいね」
お姫様を牽制するために鋭く告げた。もしかするとルディアたちが陽動で、残った者が預言者と接触する可能性もある。一箇所だけに注力はできない。
「出発はいつ?」
ウァーリの問いにルディアは「明朝。風が悪くとも発つ」と答える。委員会に急かされているのか、こちらに入念な準備をさせまいとしているのかは読み切れない表情で。
「明日同じ時刻に迎えにくる。それでいいか?」
「ええ。支度しておくわ」
話は終わったとばかりにお姫様が立ち上がる。ファンスウも、ラオタオも、特に彼女を止めることなく洗練された所作をじっと眺めていた。
赤髪の騎士も腰を上げ、一礼すると主君の背中を守るように幕屋を出て行く。二人の足音が遠のくと最初に狐が口を開いた。
「一人じゃ見張りきれないでしょ。俺の鷹、良ければ貸すよ?」
これがこの男の申し出でなければ喜んで頷いていたのだが。
ウァーリが断るまでもなく、古龍が「おぬしは余計なことをせんでいい」と若狐を睨みつけた。その威圧にたじろぎもせず青年はおどけて笑う。
「ええー? 俺ってそこまで信用ない? 監視は普通に二重にしとくべきだと思ったんだけどなー」
「だとしてもそれはわしの兵の中から出す。お前さんは適した器だけ用意してくれればいい」
「あはは、それ、やめといたほうがいいよ。マルゴーって弓使う奴多いんだ。不慣れな蟲に尾行させたら最悪戻ってこないかも」
嫌な可能性をちらつかされ、ファンスウがほんの一瞬押し黙った。その一瞬を嘲るようにラオタオが「ま、気乗りしないなら俺はいいけどね?」と提案を引っ込める。
「なあ、俺ちょっとお姫様追っかけていい? 一つ突っつくの忘れてた」
長椅子を離れようとする若狐をウァーリは咄嗟に引き留めた。力任せに腕を掴んで「なんの用よ?」と問いただせば悪びれない声が返る。
「ドナに増やす小間使いの件、今どうなってんのかなってさ」
こちらはこちらで完璧な回答だ。嘘だろう、とは決めつけられない。
「ウェイシャン」
ファンスウが犬っころの名前を呼ぶ。「はい! はい!」と大急ぎで偽預言者は狐の隣に駆けつけた。
仕方なしに手を離す。ラオタオは悪童の顔で傍らをすり抜けていく。
信じきることができれば頼もしい男なのに。
「……気をつけて行くのじゃぞ、ウァーリ」
狐たちの気配が消えるとファンスウが忠告をよこした。「手がかりを掴めれば上々じゃ」との言葉から彼もウァーリと似た考えであるのが知れる。
「ウァーリ、深追いはするなよ。お前に何かあったときは恩人だろうと容赦はせんが、すぐには助けにいけないところで一人になるのだと忘れるな」
当たり前と言えば当たり前のダレエンの助言に苦笑を浮かべた。薄ら寒さを感じるのは前回殺されかけたことが尾を引いているからだろうか。
アルフレッドは善良だったがルディアはどうかわからない。ハイランバオスを売るというのが彼女の真意であるかどうかも。こちらのほうが防衛隊よりも圧倒的優位にいることは確かだが、油断はしないようにしよう。
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どうやら上手く運んだようだとアルフレッドは胸を撫で下ろす。
ウァーリが同行するというのは気がかりだが、ウァーリ一人で済んだことは良かったと喜ぶべきだろう。これでダレエンまで揃っていたら監視の目を盗むのがもっと困難になっていたはずだ。
「アルフレッド、お前これからどうするんだ?」
問われてアルフレッドは中庭の柱廊に立ち止まった。「人質として顔を見せるだけは見せた」と帰ることもできただろうが、今日はこのまま女帝のサロンへ行ってみるつもりだった。
アニークの部屋にはこれまで通りに出入りしていいと言われている。それが良いことなのか悪いことなのかは判別がつきかねたが。
「……女帝陛下のところで過ごすよ。その前にあなたを門まで送っていくが」
主君に告げると「送らなくていいと言うのに」と小さく眉をしかめられる。
「何があるかわからないだろう」
言った矢先、背後に近づく誰かに気づいて振り向いた。
「やっほー! お二人さん!」
ほら、と反射的に身構える。傍らの主君も全身に緊張を戻して声の主に顔を向けた。
「やー、一つ聞きたいことがあってさあ、追いかけてきちゃった」
ハイランバオスの息がかかった偽の狐。ラオタオを名乗る男が馴れ馴れしく近寄ってくる。おまけに彼の後ろには正体不明の預言者も控えていた。
どちらかというと今はこの二人のほうがウァーリたちより薄気味悪い存在だ。どの程度こちらのことを把握しているのか不明だし、出方が読めない。何よりアルフレッドには、ラオタオが本物のラオタオにしか見えないことがひたすらに不気味だった。
(あの毛むくじゃらの犬のほうが偽者だった、なんてことはないと思うが)
そんな思い違いをさせてもハイランバオスに得はない。騙してなんの意味があるのか疑問だ。だからこそ「どうしてここまで似ているのだろう」と警戒心がもたげてくるのかもしれないが。
「聞きたいこと?」
ルディアが狐に問い返す。彼女の声音は落ち着いていたが、危ない綱渡りをしているのが現状だ。虚勢は既に見抜かれていそうに思えた。
「そう。いつ新入り君たちをドナに連れてきてくれるのかなーって」
酷薄な、それでいて面白がるような双眸が主君を見つめる。「ね、教えて?」と斜めに頭を傾けた男は獲物を前にした狩人のようだった。
背筋の凍るこの感じ、やはりラオタオ本人としか思えない。蟲は分裂する際に記憶を共有するそうだが、近しい誰かが中に入っているのだろうか。
「……言葉を覚えねば役には立たない。もう一ヶ月ほど待ってくれ」
ルディアの返答はへつらうものでもはぐらかすものでもなく、現実的なものだった。
脳蟲の言語習得は早い。寄生からおよそ半年で人間らしく振る舞えるようになる。教本を用いれば第二言語が身につくまでに長い時間はかかるまい。主君の示した一ヶ月という期限はそれでもギリギリという気がしたが。
狐は「ふうん」と鼻を鳴らした。底の底まで探るような三日月の目が怖い。だがひとまず彼は追撃の手を緩めてくれたらしかった。詮索はせず、にこやかに「一ヶ月ね」と笑いかけてくる。
「それまでにはサールから戻ってきてる予定なわけだ」
意味深に狐はうんうん頷いた。「早くドナにも来てほしいな」と芝居がかった囁きが続く。
「じゃ、旅の幸運を祈ってるよ」
最後に彼は己の懐に手を差し入れ、餞別を手渡してきた。やたらに広がった何かの羽根。葉っぱにも似た茶色いそれを押しつけられ、ルディアがぱちくり瞬きする。
「あっはっは! じゃあまたねー!」
大きな笑い声を上げて狐は幕屋に引き返した。彼を追いかけた偽預言者との「今やったのはなんですか?」「そのへんで拾ったゴミ!」という不愉快な会話を響かせて。
どうやらからかわれたらしい。下賜されたものならばこちらに捨てることはできない。防衛隊の低い立場をわざわざ思い知らせてくれたのだ。
「……まあいい、行こう。とりあえず旅立たせてはもらえるらしい」
まだ少し後ろを気にしつつルディアが踏み出す。正門まで彼女を送り届けるとアルフレッドは意を決めて女帝の部屋へと歩き出した。
──まだ認めたわけではない。
まだ一人目と二人目が完全に同じ人物だとは。
それでもアルフレッドにはもう今の彼女を別人となじることはできなかった。皇女の想いは生きていて、女帝が死なない限り朽ち果てることもない。
どうすればいいかはわからないが、冷たく拒むのは終わりにしようと思っていた。どのみち何か応えられる身分でもないのだ。会って話をするだけなら、きっとそんなに難しくはないはずだ。
「遅くなって申し訳ありません。アルフレッド・ハートフィールド、ただいま参りました」
挨拶の後、まっすぐアニークを見上げた自分に彼女は大きく目を瞠った。
射抜かれたように固まって、声も出せず、息も忘れて。
こちらも笑えはしていなかったように思う。ただ目はもう逸らさなかった。彼女の中で「アニーク」が自分を見ているはずだから。
先に来ていたユリシーズも瞬きしながら振り返る。どういう心境の変化だと騎士のほうは純粋に驚いていた。
通訳はこの日を境に完全に不要となった。
そうして己の吐く息も、前よりは少しだけ、それでもどうにか少しだけ楽になったのだった。




