第1章 その1
──私だって「アニーク」よ。そう言って大泣きした彼女を呆然と見つめるアルフレッドに「帰れ」と告げたのは女帝の寝所を守る衛兵たちだった。彼らはジーアンの内情を知る側、天帝より分かれた蟲の一匹であるらしく「今日のことは他言無用だぞ」と忌々しげに舌打ちされる。
頼まれたって口外なんてできるはずない。そもそも頭はずっと混乱したままだった。
誰が誰を好いていたって? 誰の気持ちが彼女の中に残っているって?
考えるほどわけがわからなくなってくる。偽者なのではなかったのかと。
追い立てられるようにしてレーギア宮を去った翌朝、アルフレッドは門番に呼び止められた。聞けば今度はダレエンとウァーリが呼んでいるという。
十中八九昨日の口止めの続きだろう。予測に違わず二人の将は客室を訪れたアルフレッドにひとまずの謝罪を述べてきた。
「ごめんなさいねえ。あの子生まれて間もないもんだから、まだ分別が足りてなくって」
「アルフレッドは女の恋慕を利用して何か企める男ではないと言ったんだが、ファンスウがやかましくてな」
どうやら自分がアニークのもとを追い出された後、ひと悶着あったらしい。それもそうだ。大国の帝が属国の騎士に不貞の愛を口走ったのだから騒ぎにもなるだろう。己も今朝はルディアに一連の報告をしながら信じがたい気持ちでいっぱいだった。主君や妹は「何を今更」と呆れ顔をしていたが。
「……で、誰にも言ってないわよね? 女の子の切なる胸の内を」
ウァーリに睨みを利かされてアルフレッドはうっとたじろぐ。小声で「仲間以外には」と返すと彼女は表情を険しくした。
己とて何も面白おかしく打ち明けたわけではない。ただやはり、アニークがパディを怒らせたかもしれないことは主君の耳に入れておかねばならなかったし、新たに知った蟲の性質についても同様だった。
となれば当然彼女の告白についても言及せざるを得なかったのだ。己一人の胸だけに秘しておけるものならば、きっとルディアには話していない。
「……まあいいわ。あなたにも報告義務はあるわよね。でもこれ以上話を広めないでちょうだいよ?」
「当たり前だ。誰に言えるんだこんなこと」
眉根を寄せて返しつつ、アルフレッドはふとユリシーズの顔を思い出した。だが「なんでもかんでも喋っていいわけないだろう」とすぐに打ち消す。
彼とて祖国の蟲に関する知見はあってもジーアンに巣食う蟲に関しては未知のはずだ。相談などできるわけなかった。この先どうアニークと関わっていくべきかなど。
「ところで気になっていたんだが……、蟲が一人目の宿主の残した思いを核に人格を作るというのは本当なのか?」
ぽつりとアルフレッドは尋ねた。向かい合い、腰かけたソファで腕組みしていたウァーリが「ええ」と諦めた口ぶりで認める。
「第六世代が生まれた頃に、そうじゃないかって言われ始めたの。私なんかはもっと前から確信を持っていたけどね」
どんな器に入っていても女の恰好をしていなければ落ち着かないのは最初の宿主のせいだと思うと彼女は続けた。
「よっぽど女になりたかったんでしょうね。それも華やかで美しい」
そう言われるとウァーリが隠密行動には不向きなスタイルを貫くのも納得だ。アニークは、自分の中の絶対に捨てられないところに「アニーク」の気持ちが残っていると言った。それが事実ならウァーリのこだわりも捨てられないものなのだろう。どんなに荷厄介であったとしても。
「アクアレイアの脳蟲も俺たちと同じじゃないのか? 最初が人間だった奴と獣だった奴とでは明らかに知能に差があるはずだ。巣にした脳の影響を受けていないはずがない」
と、己の頭を指さしたダレエンも会話に入ってくる。横から「ちょっと」と小突かれても気ままな彼はどこ吹く風だ。
「隠していたってどうせばれる。こんなことは、それなりの観察眼さえ持っていればな」
ダレエンはあっさりと「狼だった俺が人になるには長い時間がかかった」と打ち明けた。こちらもなるほどと頷ける話である。確かに彼の攻撃スタイルは群れを作る動物の狩りを彷彿とさせた。
「あ、あんたねえ……」
真正直なダレエンの横でウァーリががっくりソファに崩れる。
彼女のほうは知られたくなかったに違いない。最初の宿主や残された思いがどうだったかなど容易に見抜けはしなくとも、わかればそれは行動を読み解く手がかりとなる。場合によっては急所にも、だ。
「…………」
アルフレッドは脳裏にアニークの泣き顔を思い起こした。言えば関係改善の役に立っただろうことを、あの瞬間まで堪えていたのだ。嘘をついたとは考えにくい。ウァーリたちの反応も彼女の訴えが真実であることを裏付けていた。
どうやら本当に認めなくてはならないようだ。完全なる偽者だとは言えないこと。彼女の中で「アニーク」はまだ生き延びているのだと。
だが今後女帝にどう接していくべきかの答えは導き出せなかった。主君には「別に今まで通りでよかろう」と言われているが、ルディアは己がアニークに冷たく当たっていたことを知らない。人質の義務を忘れたわけではないものの、面と向かって半日過ごすのはいささか気が重かった。
「……あの、アニーク陛下はあの後どうなさったので?」
慎重にアルフレッドは問いかける。ひょっとしたら彼女のもとに通う話自体なくなるのではと感じていた。こちらにその気はまったくないが、不埒な行いがなされると危ぶまれている可能性は高いのだ。
「あー……、あの後っていうか、あの子今もまだファンスウに雷落とされてるのよねえ」
「最長記録の説教になりそうでな。アルフレッド、お前今日は帰っていいぞ。これからのことはまた明日門番にでも聞いてくれ」
不測の事態の収拾はジーアン側でもまだつけられていないらしかった。拍子抜けして「わかった」と頷く。この分では今頃ユリシーズのほうもサロンから追い返されていそうである。
立ち上がり、退席したアルフレッドはそのままレーギア宮も後にした。
続いて足を向けたのはパトリア石のピアスを埋めた碑文すらない墓だった。
******
人と建物の寄せ集まる本島では生ぬるく感じる風も、小さな島では心地良く爽やかだ。そんな快さとは裏腹の思いを抱え、アルフレッドは一束だけの赤いセージを墓前に捧げる。
祈りを終えたら誰にも会わずに黙って帰るつもりだった。近頃のルディアは療養院より印刷工房にいる日のほうが多いけれど、ユリシーズと飲み明かす日が増えて以来モモやブルーノたちとも顔を合わせづらくなっていたから。
仲間と一緒でないほうが心休まるなど良くない傾向に違いない。けれど今はどうしようもなかった。物言わぬ死人の前ですら息苦しさを感じてしまうのに、生きた人間の前で平静を取り繕うのは耐えがたい苦行だった。
(アニーク姫……)
アルフレッドは両手を組み、撤去された独立記念碑の土台の前に跪く。
祈るというより許しを乞いに来たようだ。気がつかなくてすみませんと。
記憶の中のアニークと今のアニークはよく似ていた。初めは本人だと信じて疑わなかったほどに。齟齬があっても理由をつければ納得できた。それくらい彼女は昔と変わらぬ性格をしていた。
だが性格が同じなら魂も同じだと言えるだろうか? 彼女は一度死んだのに、その人生が続いていると言えるだろうか? いくら「アニーク」の思いが心に刻みつけられていたとしても。
(皇女と女帝はやっぱり別人だ……)
何度考え直しても出てくる答えは一つだった。
一人目と二人目は違う。決定的に何かが違う。だって生は、死という断絶を跳び越えることができない。
──自分のお姫様なら許すの!?
不意に頭に響いた声にアルフレッドは苦々しく唇を噛んだ。断罪されている気分になってかぶりを振る。
受け止めきれずに煩悶を繰り返すのは、別の姫には別の結論を与えたがっているからだ。一人目と二人目は同じ。きっとルディアに対しては、そう言うに違いなかったから。
(あの人には本物であってほしいんだな、俺は……)
身勝手さに笑ってしまう。主君が真実「ルディア」の魂を持つのなら国より大事なものなど作れはしないはず。そんな風に考えているのだ。己は陰で彼女を裏切っているくせに。
(……もう行こう)
力なく伏せていた顔を上げ、アルフレッドは立ち上がった。
次に会ったときどんな態度でアニークの前に立つべきか、答えはまだ出せぬまま。
「──アルフレッド?」
遠くから呼びかけられたのはそのときだった。耳慣れた主君の声にびくりと肩をすくませる。
「……姫様……」
振り返ればハーブのそよぐ低い丘にルディアが一人で立っていて「どうしてここに? 女帝と何かあったのか?」とこちらに歩み始めていた。
「あ、いや、明日改めて来いと言われて、時間が空いてしまって」
「そうなのか。こっちは『指輪の儀』の勝者に印刷機を引き渡してきたところだ。今レイモンドが面倒を見てやっている」
ちょっと気になる噂があって墓島へ来た、と彼女は言う。槍兵を置いてくるくらいだから何か重要なことなのだろう。
「噂って? 問題でも起きたのか?」
動揺をはぐらかすように問いかける。するとルディアは「いや、その話は後でいい。それよりお前、アニークに会わせてもらえなかったのか?」と案ずる顔で質問を返してきた。
「あ、ええと……。いつも通り宮殿には行ったんだが、ウァーリとダレエンに呼ばれてな」
まるで言い訳をするようにアルフレッドは自分がここにいる理由を説明した。二人の将とのやり取りを聞き、主君は「なるほど」と考え込む。
全体一人で考えて、一人で決めてしまう人だ。支えたいと思っても出る幕がないのが普通で内心を明かしてももらえない。いつも、いつも、出会ったときからそうだった。この人はいつも。
「……ないとは思うが出禁になったときのことも考慮しておかねばな。人質の交代を要求されるかもしれん」
よく回る頭でルディアはあらゆる展開を予測する。
一人目の「ルディア」も生きていればこんな風に成長していたのだろうか。
一人目の「ルディア」ならレイモンドに恋などしなかったのだろうか。
そんなことを考えてアルフレッドは目を伏せた。
意味のない空想だ。過去にもしもを持ち込んだところで今が変わるわけではない。相変わらず主君の前には騎士失格の男が一人いるだけだ。
逃げ出したかった。今すぐここから消えていなくなりたかった。だが己にはそれもできない。アニークのようになりふり構わず思いの丈をぶつけることも。
代わりのように掠れた声が口をついた。
「あなたにも──」
独白めいたその台詞。「え?」とルディアが尋ね返す。
「あなたにもあるのか? 心の中に、捨てることのできない核が」
聞いてどうしたかったのだろう。自分でもよくわからない。
ただ彼女が本物の王女だという確証が欲しかっただけかもしれない。一人目と二人目は同じだと思えたほうが、まだしも救いがある気がしたから。
「…………」
ルディアはしばし青い双眸を瞠っていた。やがて視線が下に逸らされ、唇が柔らかく緩められる。
「……あるよ。どうしても誰も信じられない」
返答は優しげな彼女の表情におよそ不釣り合いだった。一度では飲み込めず、今度はアルフレッドが瞠目する。今しがたの言葉の意味を測りかねて。
「単純に疑り深い性分なのだと思っていたが、お前の問いで今わかった。私の核はこれなのだな。道理で芯に染みついて離れないわけだ」
ルディアの言葉もどこか独り言めいていた。諦めの入り混じったその声に、アルフレッドは思わず幼馴染の名を発してしまう。
「まさか。あなたにはレイモンドがいるだろう?」
だが彼女は「信じている」とは言わなかった。ただ寂しげに、「信じたいとは思っているよ」と遠くに目をやっただけだった。
「…………」
声を失う。レイモンドですら無条件の信頼を勝ち取ってはいないのかと。
だとしたら己など、どうやって辿り着けばいい? 彼女の心の一番深くに。
「そろそろ療養院へ行こう。今の話、お前の胸にしまっておいてくれよ」
主君はけろりとした顔で短いマントを翻した。思いがけず生まれた二人だけの秘密にどきりと馬鹿な心臓が跳ねる。
結局ルディアがどこまで「本物」に近いのか窺い知ることはできなかった。
誤魔化そうと思えばきっと誤魔化せたのに、どうして彼女はすんなり答えてくれたのだろう。
******
最初の宿主の残した思いが人格の核になる──。まさかこんな形で自分自身の問題と向き合わされることになるとは考えていなかった。「簡単に他人を信用するな」「裏切りに遭う可能性を常に考慮しておけ」そんな風に己を律する力が働きすぎるのは父の教育の結果だろうと思っていたのに。
──誰も信じてはいけないよ。
それが一番古い記憶。ずっと解くことのできない戒め。
前の「ルディア」は幼かった。祖母の計略で反抗できない操り人形にされていた。死の間際、彼女が「信じられる人などいない」と思ったとして不思議はない。絶望は「ルディア」の脳を染めたのだ。そして今はしこりのように己の内に留まっている。
(変えられない本質だから変わらなかっただけだとは、なんとも馬鹿馬鹿しいオチだな)
療養院への短い道を歩きながらルディアは悲しく眉を寄せた。
際限のない疑い。一瞬乗り越えられた気がしても、いつしか以前の考え方に戻っている。未来は不確定なものだと臆病な理性が囁けば、好意のあるなしに関わらず「いつか去る者」と決めつけるのだ。
薄々その自覚はあった。レイモンドにさえ「いつまで続いてくれるのかな」と怯えを消しきれないのだから。
信じていると信じていた、あの騎士のことだってどこまで本気だったのか。大事な相談は何一つ持ちかけなかったくせに、己の不信には目を瞑り、彼には奉仕と忠誠を求めた。造反を導いて当然だ。
(ユリシーズ……)
伏せた瞼の裏側にまだ温和だった頃の元恋人を思い浮かべる。不正を嫌い、秩序を重んじ、いつだってまっすぐだった。彼の憎しみはルディアが思うよりずっと根深く強いのだろう。政治的思惑もあるとは言え悪質なデマで亡き姫の直属部隊を貶めるほどなのだから──。
「だから違うってばあ! ドナ行きになる人選んだの、モモたちじゃないって言ってるじゃん!」
扉の向こうから響いた声にルディアはノックの手を止めた。普段は患者らの寄りつかない談話室に十人どころではない気配がする。
隣のアルフレッドを見上げると彼もまた怪訝に眉をしかめていた。溜め息を飲み、中で起きている異常が何か教えてやる。
「……小耳に挟んだ噂通りだ。世間では我々が同胞を売ったことになっている」
「はあ!?」
「防衛隊は後腐れのないように身寄りのない患者ばかりドナ送りにしたのだと。その三十人が誰なのかまったく心当たりがないので確認に来たのだがな」
漏れ聞こえてくる口論を遮断するべくルディアは強めにノックした。返事も待たずにドアを開く。するとモモとアイリーンを囲んでいた患者たちが一斉にこちらを振り向いた。
「シルヴィア・リリエンソールに間引かれたのはお前たちか?」
問いかけに三十人の目が吊り上がる。元々いきり立っていた患者たちは激怒を隠しもしなかった。
「何ほざいてやがる! 俺たちを名指ししたのはあんたらだろう!」
「そうだそうだ、シルヴィア様は助けられずにごめんなさいと僕たちのために泣いてくださっていたんだぞ!」
「この大嘘つきどもが!」
なるほどと大体の状況を把握する。つまり彼らはシルヴィアに心酔しており、それゆえころりと騙されたのだ。「成績順に残留者を決める」と言っていた彼女の方針と「身寄りのない患者が選ばれた」という結果にずれが生じているからますます防衛隊の暗躍があったように思えるのだろう。本来ならこんな不当な目に遭うのは自分たちではなかったのにと。
が、そんなことはこちらにとっては些末事に過ぎなかった。
「誰がドナ行きを決めたかなどどうでもいい。重要なのはお前たちに決まったということだ」
ルディアは「座れ」と顎先で周囲に散らばった椅子を示す。患者たちは睨むばかりで動こうとしなかったので再度「座れ」と語気を強めた。彼らはなおも立ち尽くすばかりだったが。
「こうなった以上シルヴィア・リリエンソールがお前たちを引き受けることはない。さっさと座って講義を受ける準備をしろ。アイリーンからジーアン語の教科書を受け取れ」
この台詞が彼らにどう受け止められるかはわかっていた。国や防衛隊の迷惑にならないように少しでも退役兵に媚びる努力をしろと、不信に満ちた耳にはそう聞こえただろう。だがそれもどうでもいい。現在なすべき最優先は彼らに学習を始めさせることだった。
あの偽のラオタオから要望を受けて三ヶ月、いかに防衛隊を泳がせる必要があるとは言え、これ以上待ってもらえる保証はない。取りかかれるなら今すぐに取りかからねばならなかった。言語という最低限の武装を間に合わせるために。
「どう足掻いてもドナに行くのはお前たちなんだ。言葉も覚えずにどう扱ってもらう気でいる? 一つでも学べ。己を守る術を増やせ。私の言っている意味が本当にわからないのか?」
微動だにしない患者らをルディアは強く睨み据えた。彼らは一様に拳を固め、悔しげに歯噛みしている。眼差しは「あんたらが撤回してくれりゃ済む話だ」とでも言いたげだ。これが決定事項だとまだ信じたくないらしい。
そのときだった。人垣から小柄な少年がルディアの正面に飛び出したのは。
「……ッあの! お、俺に教科書ください!」
思わぬ離反者に患者たちがどよめく。「何言ってんだマルコム!」と男の怒声が響き渡った。
「止めないでよ、オーベド。……なんとなくこうなるだろうなって思ってた。でも誰も、嘘つくなとか悪い冗談はよせとか言って少しも聞いてくれなかったじゃん! 俺はこの人たちにジーアン語教えてもらう。皆みたいに文句ばっか言って時間無駄にできないよ!」
マルコムと呼ばれた草色の髪の少年はルディアの背中に回り込んだ。表情にいくらか怯えが見え隠れするものの、どうやら彼は無知でいたほうが恐ろしい事態を招くと理解できているらしい。
「アイリーン」
名を呼ぶと彼女はハッと大棚のひきだしを開けにいった。間もなく十六冊のジーアン語教本が運び出されてくる。
「教科書は一冊を二人で使用する。出来のいい奴と組めればさぞ捗るだろう。誰かマルコムとペアになりたい者は?」
今までの生活に戻りたいという無言の要求は無視してルディアは話を進めた。
問いかけに患者たちはざわめく。マルコムが抜けたことで動揺した集団内部には明らかな迷いが生じていた。
「わ、私、マルコムがやるなら……!」
一人の女が走り出る。患者からはまた非難の声が上がったが、「だって本当にマルコムの心配してた通りになってるじゃない!」との反論に言い返せる者はいなかった。それどころか次々と「もうシルヴィア様のところに戻れないなら俺も」「あ、あたしも」と分裂が進む。
「おい、皆、おいって……!」
最後まで残ったのはオーベドとかいういかつい顔の小男だった。心の底からシルヴィアを信じていたのか、安全圏でなくなった現実を受け入れがたいのか、途方に暮れた様子で彼は立ち呆ける。
「もうお前一人だぞ」
「……っ」
呼びかけてもオーベドはなんの返答もしなかった。選びさえしなければ暗い未来が訪れることはないとでも言うように、ただ歯噛みして動かない。
沈むとわかっている船の上でも海に飛び込めない者はいる。少しの間を置き、ルディアは患者たち全員を見回して告げた。
「……一度はドナに送り出すことになるが、後で必ず我々が迎えにいく。それを可能にするためにもジーアン語習得に励んでくれ」
傍らにいたマルコムに「あいつのことはお前に頼めるか?」と問う。少年はオーベドに目をやりながらおずおず頷き、探るようにこちらを見上げた。
「あ、あの、迎えにってなんで……」
「お前たちを見捨てられない理由がある。いずれ話そう」
そこまで言うとルディアは「ほら、席につけ。アイリーンはジーアンで十年暮らした女だから、しっかり学ばせてもらえよ」と患者たちを促した。
どうにかその気にさせられたようで、不安げな顔を覗かせつつも彼らは静かに自分の席を探し始める。モモやアルフレッドも補助に回り、しどろもどろのアイリーンを手伝ってくれた。
ニャアと談話室の隅で愛らしい鳴き声が響く。それからようやく患者たちの間にもほっとした空気が流れ始めた。




