序章
ずっと欲しかったものがある。それは優しく温かで、決して自分を裏切らぬもの。例えば安全な寝床のように瞼を閉じて落ち着ける場所。己が何者かさえ忘れて本音で語り合える相手。
物心ついた頃にはそれらはすべて遠くにあった。あるいは最初から自分には与えられなかったのかもしれない。どこへ行っても、何をしていても、部屋に一人でいるときでさえユリシーズは「リリエンソール家の跡取り息子」だった。違う生き物になることは許されず、また想像の余地もなかった。
甘えるな。しっかりしろ。それでも海軍を背負って立つリリエンソール家の男なのか。およそ年端も行かぬ子供にかけるものではない父の言葉と握り拳が幼少期の記憶の全部だ。リリエンソールは武人の家系。ユリシーズは年相応の溌剌さよりも上に立つ者の完全さを求められた。
幼子らしく庭を走り回るなどもってのほか。友人は同じ海軍家系の男子から選ばれて、彼らの中で常に突出していなければ父の拳骨が飛んでくる。小言は毎度変わらない。お前は将来多くの兵士の命を預かる身になるのだぞと。
利口な子供だったから父が我が子に「どうあってほしい」のか理解するのは早かった。わがままの一つも言わずにユリシーズはしごきと呼んでいいほどの父の指導についていった。一度だけ外で皆と遊んでみたい、熱のある日くらい休みたい、叱られそうなそんな言葉は飲み込んで。
日々は苛酷なものだった。生まれついての能力や才覚に恵まれていなければおそらくどこかでぽっきりと折れていたに違いない。幸い己には高すぎる父の要求に応えられる実力があった。成長とともに殴られる回数も減り、歩む道は輝きを増していった。
けれどやはり窮屈ではあったのだろう。期待通りの優秀さを維持することが苦ではなくとも。だってどこでも己は正しく「ユリシーズ・リリエンソール」でいなければならなかったから。一家で食卓を囲むときも、親しい付き合いの友人たちと過ごすときも、自室に一人でいるときでさえ。
──惹かれたのは、きっと「だから」だ。愛らしく淑やかな理想の姫として現れた彼女に。私たちはどこか似ていると思ったから。
「まあ、なんて嬉しいお誘いでしょう。ですが私、グレースお祖母様にお伺いしてみませんと……」
初めて耳にしたその声は花びらが零れるように甘かった。思わず振り向いたユリシーズに隣の父が「ルディア王女だ」と教えてくれる。じきに成人となる娘を、陛下もようやく夜会に出させる気になったのだと。
豊かな髪と青いドレス。若い貴族に囲まれて微笑む彼女はさながら波の乙女だった。泡の上を歩くにも似た身のこなし。繊細かつ柔らかな眼差し。たった十四の少女だというのに何一つ欠けたところがない。
お前もご挨拶なさいと言われ、促されるまま彼女を目の前にした。そのときには予感していたように思う。我々はきっと恋に落ちると。
あれは十八歳の冬。航海に出られぬ間、人々が親しく近づき合う季節。宮廷でも貴族家でも夜会は頻繁に催された。ユリシーズはしばしばルディアと顔を合わせた。
美しい人。真珠貝から生まれたのかと思うほど。どんなに広間が混み合っていても彼女の姿はいつもすぐに見つけられた。するとルディアも目聡くこちらを振り返り、ふわりと笑いかけてくる。
「またお会いしましたわね。なんだか最近どこへ行ってもあなたのお顔を見ているような気がします。海軍にも社交熱心な方がおられるのね」
「社交熱心と申しますか、父が頑固な性格で。世話になった方がおいでになるのに自分が家に引っ込んでいるわけにいかないとうるさいのです。付き添いのために毎回予定を潰される息子の身にもなってほしいものですよ」
心臓が跳ねるのを隠してユリシーズは平静に振る舞う。他愛のない言葉でも交わせれば一日嬉しかった。
「あら、意外に苦労人ですこと。けれど想像がつきませんわ。いつもなんでも涼しい顔でそつなくおやりになられるから」
「そんなことはありません。ただ鍛えられているだけです。でもそうですね、この頃はそう大変とは感じませんよ。その、つまり、来ればこうしてあなたにお目にかかれますので……」
そつなくと評されたばかりなのに、どもってしまって赤面する。ただの挨拶に感情を込めすぎだ。この程度の社交辞令は誰でも言えて当然なのに。
「あ、いや、ええと。そのですね、お声をかけていただいて光栄の至りですと言いたくて」
正しくやり直そうとして余計に坂を滑っていく。そんな自分に彼女は笑ったようだった。いつものように柔和なだけの笑みではなく、つい吹き出した感のある声で。
「あなたは正直な方ですのね、ユリシーズ」
急速に距離は縮まった。それは二人の目が合うたびに秘めた好意が伝わったからというだけでなく、接近を阻む政治的障害がなかったおかげでもあった。
当時のグレース・グレディが支配していたのは宮廷内部のみである。元老院や評議会への彼女の影響は強かったが、海軍に対してはさほどでもなかった。特に軍人家系のリリエンソール家はグレディ家に擦り寄るような理由がない。不正を嫌う父に至っては「王女をあの女狐の傀儡にするくらいなら王配としてお前がこの国に尽くすのだ」と言ってくるほどだった。
その気にはなっていたと思う。父の後押しは常に道行きの正しさを保証するものだったし、自身でも己以上に王女に相応しい相手はいないと感じていた。
何を聞いても最後には「お祖母様にお伺いしてみませんと……」とうつむくルディアが気の毒で、側で守ってやりたかった。弱々しく見せることが彼女の処世術であると気づいてからはもっと違う愛を抱くようになったが。
「老人は先に逝きます。すぐではなくとも必ず我々の時代が来ます」
あれはどういう文脈で告げた言葉だっただろう。彼女の手を取り、大理石の広間をくるくる踊りながら、ほかの誰にも聞こえない声で囁いた。ルディアは少しの逡巡の後、強い瞳でこう返した。
「私もそう思います」
──人形ではない。人形のように大人しくしているだけで、彼女には彼女の意思がある。それがわかったとき嬉しかった。運命の相手を映す鏡を前にした気分だった。
いつ見てもルディアは清廉な微笑を浮かべ、慎み深く一歩引いている。彼女が完璧な姫であるほどユリシーズの胸は高鳴った。
なぜ惹かれたのかはっきり悟る。彼女のどこにこれほど親しみが湧いたのか。
ルディアの示す美と従順は高い能力と長年の努力に支えられた作りものだ。同種の仮面をつけた人間は数多く存在するが、彼女のそれには綻びがない。
自分と同じことを同じレベルでやれる人間にユリシーズは初めて出会った。与えられた義務のために己を殺しきれる人間に。
理解し合えるのではと思った。否、理解し合いたいと願った。互いの辛苦をいたわり合い、喜びを分かち合えたらと。
恋は春を迎える前に花開き、深く、深く根を下ろした。
「私と婚約していただけますか」
新年を迎え、晴れて成人となったルディアに告げたプロポーズ。三日ののち赤い顔で頷かれ、ユリシーズは王女の恋人に昇格した。
グレース・グレディに妨害されなかったのはユリシーズが海軍を抜けてまで政界入りはしないと考えられたからだろう。大人しい孫娘が刃向かう可能性も懸念されなかったのだと思う。なんならあの女狐はルディアを利用して海軍を掌握する算段だったのかもしれない。
舞台裏での権謀術数はともかく、交際は順風満帆だった。人生に絶頂というものがあるとすればあの時期のことに違いなかった。
春、ユリシーズは東方に発った。今まで以上に働いて成果を出し、少尉から中尉に昇進した。己が海軍の出世街道を行くことは将来彼女の役に立つ。そう考えると何をするにも身が入った。今まで義務感だけでやっていたことが急に輝きを持ち始めた。
提督の座にはしばらく父がついているだろう。息子には殊更厳しい男だが、応えられれば評価はしてくれる。ユリシーズはいかなるときも努力を惜しまず研鑽した。ルディアと結婚するまでにできるだけ高い地位にありたかった。
王家と海軍が結びつけばグレディ家と拮抗する勢力になる。そうすれば恋人は呪縛から解き放たれるはずだった。
知りたかった。本当の彼女がどんな考えの持ち主なのか。どんなことに怒りを覚え、どんな風に立ち向かうのか。
離れ離れの夏が過ぎ、秋の終わりに祖国へ帰る。恋人は何通も届いた手紙の礼を言い、ユリシーズの大躍進を祝ってくれた。
「驚きました。もう中尉なんてやはりとても優秀ですのね。リリエンソール家はいつの時代も頼もしい存在ですわ」
「これも姫のおかげです。大切な人に己の不出来で恥をかかせられませんから」
「まあ、そんな心配はないでしょう。むしろ私があなたに失望されないように気をつけなくてはならないのに……」
ルディアはユリシーズと二人きりでいるときも慎ましくあるのをやめない。それが少しユリシーズには寂しかった。自分が好きになったのは彼女のつけた仮面のほうだと誤解されていることも。
わかっているのに。決してか弱い女ではないこと。わかっていて愛しているのに彼女に伝える術がない。
グレースの生きているうちはどうしようもなかった。不用意に「ご安心を、私とグレディ家にはなんの繋がりもありませんから本音で話し合いましょう」などと言えば警戒させるのは目に見えている。
こればかりは時間が解決してくれるのを待つしかなかった。素顔なら彼女と同じ朝を迎えたときに見られるだろう。そうユリシーズは逸る心を慰めた。
そうこうする間にまた冬が来て、閉ざされた都でのひそやかな日々が始まる。
傍らで聞くルディアの声は心地良かった。騎士物語の顛末を語る彼女の言葉の端々に稀なる知性が滲んでいる。視座の高さも、勇敢さも、ユリシーズには手に取るように感じられた。
はたして彼女はどんな君主になるだろう。想像するのは楽しかった。幸福に満ちた二人の未来を。
浮かれていた。高い山の頂で、そこから落ちたらどんなに痛いか知りもせず。
転落したことのある者なら考え及んでいたのかもしれない。あのときの痛みがこれくらいだったから、今度の痛みはこれくらいかと。
挫折を経験していれば、報われなかった努力に泣いたことがあれば、目標に届かぬ自分を受け入れる術を知っていれば、何か違っていたのだろうか。
春が来て、またユリシーズは東方に旅立った。ジーアン帝国の不穏な西進は続いていた。それでもまだアクアレイアは平和だった。
秋の終わり、待ち焦がれていた人に会う。けれどゆっくりはできなかった。その冬ついに馬の蹄がアレイア海東岸にまで踏み込んだからだ。
ドナが落ち、ヴラシィが落ち、情勢は激変した。ジーアン軍はアルタルーペの山々によって退けられたがいつまた牙を剥くか知れなかった。王都の人々は震え上がり、わかりやすく戦力を求めた。
増強すべきは海の兵士か陸の兵士か。民の意見は二つに割れたがユリシーズは悩むこともしなかった。ジーアン軍は船を持たない。仮にドナやヴラシィの船を使って乗り込まれても海戦ならこちらは百戦錬磨である。追い払える自信があった。戦う覚悟もできていた。ルディアもきっと海軍を──ユリシーズを信じていると、微塵も疑っていなかった。
「マルゴー公国の第二王子と結婚することになりました」
わかってくださいと彼女が言う。アクアレイアを守るためだと苦しげに。
言葉の意味がわからずにユリシーズは立ち呆けた。とてもではないが恋人に対する仕打ちとは思えなかった。
彼女は一体何をわかれと言うのだろう。政略結婚を受け入れれば傭兵以外に正規兵も借りられるようになることか。育成資金のかかる海軍を増強するより彼らを迎えたほうが経済的だということか。
愚かしい独断だ。よしんばそれが最善であれ、どうして実行の後に告げる?
すべて一人で決めた後に。勝手に終わりにした後に。
「私は心を捧げたのに、あなたはそんな無慈悲な真似をなさるのですか……!」
初めて人前で声を荒らげた。己が何者であるかを忘れ、最初にぶつけた言葉がこれとは皮肉だった。愛していたのに。信じていたのに。困難な道なら二人で選びたかったのに。
「夫婦になることはできずとも、きっと私を支えてください……」
震え声でそう乞う彼女を見ていたらだんだんわからなくなってくる。弱いと見せかけていた通り、本当に弱い女だったのか。だから断れなかったのかと。けれど。
──私もそう思います。
あの眼差しが甦る。必ず次の時代が来ると頷いた、強く賢い女のそれが。
何もかも無駄だった。心開いてくれる日を辛抱強く待ったことも。いつかのためにと海軍で奔走したことも。
何も手に入れられなかった。関わった時間の長さだけ、思慕した心の大きさだけ徒労感が押し寄せる。相談さえしてくれなかった。その事実はユリシーズを深く傷つけた。
ただ一つ残ったのは「白銀の騎士」の称号。ルディアは多分結婚してからもユリシーズに騎士として仕えてほしかったのだろう。しかしそれは枯れた恋の根を腐らせるだけだった。
騎士の務めは耐えること。誇り高くあれと彼らは暗い感情を抑制される。
初めは仕方なかったと思おうと努力した。だが無理だった。忘れようとするたびに脳裏にちらつく彼女の姿がユリシーズを苛んだ。
そのうえ誰にもろくに鬱屈を告げられず、渦巻く愛憎を持て余した。悲嘆を吐き出せていればそれが憤怒に変わることも、もっと醜悪な執着に転じることもなかっただろうに。
「なあユリシーズ、元気出せって」
励ましてくれた友人がいなかったわけではない。けれど彼らはユリシーズが烈火のごとき怒りを溜め込んでいると知るやぎょっとして「らしくないぞ」と大慌てで宥めてきた。「お前は優しいし努力家だし、落ち込まなくたってきっともっとぴったりの恋人が見つかるよ」と無責任に。代わりがいるような女ならこれほど苦しんでいないというのに。
「お前がそんなじゃ俺たちだって困るぜ」
「そうだよ。いつジーアン軍と戦闘になるかわからないんだ。ユリシーズにはビシッと頼りになる指揮官でいてもらわなきゃ」
誰も本気で聞く気はないのだとわかるまでにたいした時間は必要なかった。誰も彼も作り上げられた「ユリシーズ・リリエンソール」の仮面を修復したいだけで、それを被った人間にはまるで関心がないのだと。
ルディアもそうだったのかもしれない。わかり合えると思っていたのは自分一人で、結局は。
初めはきっと誰かを喜ばせたかったのだ。父が「いいぞ」と褒めてくれれば嬉しくて、外しそこねた仮面だった。枠からはみ出した人格はなかったことにされてきたが、ルディアと破局するまではそれでいいと思っていた。
本音と建前が乖離していないときなら期待に応えるのは苦痛ではない。だがユリシーズには笑うのが難しくなっていた。品行方正でいることが馬鹿らしくなっていた。
欲しいものはもう手に入らないのに寛容ぶってなんになる? どうして己がこんな苦渋を飲まねばならない? 誠心誠意恋人を想い、尽くしてきたはずの自分が。
痛む心は己が被害者であることをあまりに強く認識させる。同じだけの痛みを味わわせることは正当な報復なのだと。こちらにはなんの非もなく、すべて彼女が一方的に取り決めたことだったから。
いつしかルディアに思い知らせてやりたいと願うようになっていた。手離すべき憎悪だとわかっていたのに攻撃的な妄想を来る日も来る日も繰り返した。そうしてあの日が訪れた。
「我が君はジーアン帝国に敵対しない新政権を求めています。さあ、あなたと私とグレディ家で結託しましょう」
一度手を取れば後は転がり落ちるだけだ。ためらいはまだ残っていたもののやり返したい気持ちが勝った。仮面の下で暴れるものを理性では抑えられなくなっていた。道徳心が働いたのも最初だけ。忘れるために酔うことを覚えると良心は次第に麻痺した。
ふと来た道を振り返るような一瞬も、ユリシーズには何も考えられなかった。ただ早く、早く楽になりたかった。
今ならわかる。あの頃自分に必要だったもの。今も必要としているもの。
「俺はどうすれば良かったんだ⁉ 先に俺を遠ざけたのは姫様じゃないか! それなのに──」
理不尽を堪えきれずに騎士が泣く。同じ怒りがユリシーズの中にもあった。胸の奥で消えぬ炎がくすぶっていた。
浴びるほど飲んで、嘆いて、喚いて、騒いで。一晩過ぎたらやけに胸が軽くなっていた。アルフレッドを慰めてやると己の痛みもやわらいだ。
──ああそうか。こんなことで良かったのか。こんなことで良かったのだ。傷の舐め合いと他人は笑うかもしれないが。
ずっと欲しかったものがある。それは優しく温かで、決して自分を裏切らぬもの。例えば安全な寝床のように瞼を閉じて落ち着ける場所。己が何者かさえ忘れて本音で語り合える相手。
今度こそ手に入れられるかもしれない。互いに素顔を晒して付き合っているのだから。
今度こそ、この息苦しさを捨ててしまえるかもしれない。間違えた道を引き返して。




