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第4章 その1

 水平線を溶かすように夕暮れの空と海とが混ざり合う。地上は既に紺碧の闇に覆われて、まだきらきらと戯れるのは彼方の波と残照のみだった。明日また輝くために王国湾は眠りに就く。美しいその一瞬にグレースは目を細めた。

 レーギア宮から見る海がやはり一番素晴らしい。初めて宮殿を訪れた日からこの眺望が欲しくて欲しくて堪らなかった。玉座に近づくためであればどんな汚いことでもやった。先代国王の弟を誘惑したのも、イーグレットの兄たちを葬り去ったのも、すべて己がアレイア海の支配者となるためだ。苦節六十年、もうじき生涯の夢が叶う。


「本当に私は運がいい」


 くつくつと笑みを零し、グレースはバルコニーに舞い降りてきたカラスたちを撫でつけた。濁った眼に映るのは強大な異国の美青年。グレースはもう老いさらばえた女ではない。

 ハイランバオスの肉体を得たのは何にも勝る幸運だった。この男とジーアン帝国を利用すればアクアレイアを好きに作り変えられる。ただし相応の利口さと慎重さは要するが。


「猫は上手く始末できたのかい?」


 低く抑えた声で問う。カラスは縦にも横にも首を振らず、口を開いて褒美の餌を待つだけだった。

 やれやれと溜め息をつく。脳蟲というのはどうも知性に差があっていけない。特定の標的を襲わせる程度ならいざ知らず、細かい報告や偵察となると人間に寄生していた者でなければ使えないようだ。


(あのダチョウ女を奪われたのはしくじったね)


 マルゴー兵の管理下にあった魔獣の頭部をいともあっさり盗んでいったロマを思い出して舌打ちする。アイリーンにあんな味方がいたとは想定外だった。妨害を試みたところで何もできまいと踏んでいたのに。

 とは言え所詮は小蠅にたかられた程度の誤算だ。防衛隊の弟と手を組もうと無駄な足掻きである。

 晴れ舞台の記念祭での大事故に民衆は神がかり的な不吉さを覚え始めている。イーグレットが国民の称賛を浴びる日など永遠に来はしない。時代は今度こそグレディ家を選ぶのだ。「ハイランバオス」が新しい王家の誕生を祝福し、平和的かつ平等な通商条約を認めれば支配はより盤石なものとなるだろう。


(ルディアの身体なぞ狙うまでもなかったわ)


 と、ほくそ笑むグレースの背後でノック音が響いた。念のためカラスを闇に放してから「どうぞ」と答える。

 入ってきたのは神妙な顔つきのユリシーズ・リリエンソールだった。護衛役の海軍中尉がこんな時刻に扉を叩くのは稀である。どうやら何かあったらしい。顎で報告を促すと騎士はグレースに耳打ちした。


「あの、ついさっき軍の友人に聞いた話なのですが、陛下が明日のレガッタにご出場なさるそうです」

「レガッタに?」


 意外な展開にグレースは面食らう。ユリシーズ曰く、アンディーンの指輪を手にした男が「是非自分のゴンドラに同乗してほしい」と乞うたそうだ。

 妙な話だ。わざわざイーグレットを乗せたがる物好きがいるなんて。しかもよくよく聞いてみれば、その物好きは王都防衛隊の槍兵だそうだった。


「ああ、なるほど。どん底に落ちた王の人気をレースで取り戻そうというわけですね」


 グレースはハイランバオスらしい口調を心がけながら一笑に付した。言外に「こんなことでうろたえるな」と騎士を咎める。

 ユリシーズはいつ己が逆臣と露見するか気が気でないのだろう。一度背信を決めた以上、どんと構えてほしいものだが。


「良い機会ではありませんか。あなたもそのレガッタに出場し、彼を亡き者となさい」

「なっ……!?」

「もう一年はかかるかと思っていましたが、あちらから飛び込んできてくれるとは好都合。これを逃す手はありませんよ」

「し、しかし明日というのはいくらなんでも急すぎるのでは」


 渋るユリシーズにグレースはずいと迫る。


「それでは次のチャンスを待つと? 再び同じシチュエーションが巡ってくるまで?」

「……っ」


 本当に男というのは仕方のない生き物だ。野心は大それているくせに、誰かに尻を叩いてもらわねば行動できない愚図なのだから。


「誰にも知られてはならぬ計画です。長引かせるほど悟られる危険は増しますよ? 早く決着したほうがあなたのためにも良いはずですが」

「……わ、わかりました。明日までに手筈を整えます」


 期待通りの返答にグレースはにこりと笑う。損得勘定の苦手なお坊ちゃんで助かった。おかげでグレディ家は危ない橋を渡らずに済む。

 オールドリッチ伯爵夫人を殺したのも、大鐘楼にフォスフォラスを仕掛けたのも、すべてはこのユリシーズだ。「ハイランバオスは親ジーアン派の新政権を欲している」という嘘を信じて実に懸命に働いてくれている。リスクに見合う地位など用意されてはいないのに。


(不憫な坊や。自ら深みに嵌り込んでいるとも知らず)


 人が執着してやまないのは愛でも金でも力でもない。それは己のものになりかけて、結局そうならなかったものだ。触れはしたけれど掴めなかった。その悔しさが引き際を誤らせる。初めから掴めないものだったと自分を納得させてくれない。

 ユリシーズは確かにルディアを想っていたのだろう。だが愛情が育つ以上に「己こそ女王の伴侶に相応しい」という思い上がりも育っていたのだ。だから彼の自尊心は王族になることを諦めきれない。ずるずる悪事を重ねてしまう。


(レガッタか。ふふ、明日の楽しみができたね)


 暗殺が成功すれば良し、失敗してもそのときはそのときだ。実行犯以外には裁きを受ける者もいない。


(切り捨てられる可能性を考慮できない自意識過剰が悪いんだよ)


 口約束の婚約程度でグレディ家の仲間入りを果たせるわけがないだろう。何、疑いを持たれない形で王を殺せばいいだけだ。せいぜい頑張っておくれ。





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